第1222話「一流の実力」

 レッジたちが〈エウルブギュギュアの献花台〉第二階層のボスを突破し、順当に第三階層へ続く階段を駆け上っている頃。見渡す限り一面を覆い尽くし大地と海すらも侵蝕しつづけるNULLの上に、一人の女が立っていた。


「なるほど、なるほど」


 濃紫色の修道服が風にたなびき、深いスリットからスラリとした白い足が覗く。豊満な胸に首から下げた銀のロザリオが載っている。銀の聖杖を携えて、女は黒く蠢く泥の上を軽やかに歩く。


「一時はどうなることかと思いましたが、案外なんとかなるものですね」


 緩く波打つ金髪を指で撫で、青い瞳を細める。

 全ての物質を根源的存在意義のレベルで破壊する強力で無慈悲な力を持つはずのNULLの上を歩きながら、彼女は全くダメージというものを受けている様子はなかった。


「まあ、私に立ち入り禁止は通用しませんが」


 彼女の名はラピスラズリ。界隈では“溺愛の”と二つ名と合わせて称されることもある有名なプレイヤーだった。

 ラピスラズリが一歩足を踏み出すと、NULLの表面に波紋が広がる。ジジジ、と何かがせめぎ合う音がして、やがて薄い半透明の膜のようなものが表面を覆った。その薄膜はNULLの消去能力を抑制し、ラピスラズリが海の上を歩くための道となった。

 彼女は三術連合に所属する呪術師であった。それも、禁忌領域と呼ばれる独自の運用を編み出した先駆者であり、禁忌領域術師として現在も一線で活躍するトッププレイヤーである。

 〈エウルブギュギュアの献花台〉から溢れ、干潟と海を飲み込んだNULLに対して、彼女は早くも対抗策を編み出していた。それが、彼女の足跡とともに線を描く極小の禁忌領域――“絶無”であった。


「やはり、NULLには三術的な側面からのアプローチが有効。“絶無”は理論ではなく概念として、“あらゆる干渉を受けない”という特性を持つ禁忌領域。それは消滅せず、広がりもせず、ただそこにあるだけ。だからこそ、NULLの影響すら受けない」


 誰に向けてというわけでもなく、ラピスラズリは独り言をこぼす。それは、芒洋たる海を徒歩で進むなかで退屈してしまったせいであり、NULLという興味深い物質に対する考察を深めるためであった。

 彼女は次々と足裏を収めるだけの小さな禁忌領域を作り出し、それを足場にしてNULLの上を歩く。

 はるか後方、〈ナキサワメ〉から3kmの地点ではNULLの侵蝕を阻む防波堤が完成したと言う。彼女はひとりで歩いているが、上空にはいくつもの航空機が塔を目指して飛んでいる。後方では、防波堤のシステムを流用したNULL対策装甲を装備した船がテストされている。

 調査開拓団は、着実にNULLを攻略しつつあった。


「さあ、着きましたね」


 黒い泥の上を歩き続けていたラピスラズリが立ち止まる。彼女の目の前に聳えるのは、巨大な純白の塔。その横腹に突き刺さっていた巨大な船は、すでにNULLに侵蝕されて跡形もなく消えており、大きな穴が彼女を迎え入れようとしていた。


「ここから先は、戦闘も覚悟しなければなりませんわね」


 平和な道行きは終端を迎えた。

 ラピスラズリは、渾々とNULLが湧き出し流れる大穴を見据えながら、携えた銀の杖を両手で握った。


パキッ、ガシャンッ!


 彼女が捻ると、杖は半分に分かれる。肘から指先ほどまでの長さになった二本の棒は、更に側面から直角に取っ手を展開した。

 二つに分離したその武器の形状を言い表すのならば――銀のトンファーであった。


「では、参りましょう」


 両手にトンファーを握り、気合いを入れたラピスラズリは臆することなく塔へと踏み込む。禁忌領域術師として名を馳せる“溺愛のラピスラズリ”の単独行動ソロプレイ専用スタイルである。


「ふむ……」


 地中から際限なくNULLの湧き出る、大破した第一階層。それを横目に壁に沿って取り付けられた螺旋階段を登ったラピスラズリは、第二階層への道を阻む白いドアと対峙する。

 彼女は少し考えたのち、胸元を軽く叩いて、修道服の下で眠っている相棒を起こす。


「ルリ、あなたの出番よ」


 もぞもぞとラピスラズリの胸元が動き、修道服と谷間の隙間から小さな白い毛並みの子リスが現れる。名前のとおり瑠璃色の丸い瞳をした、白神獣の仔である。

 ラピスラズリは〈調教〉スキルを習得したテイマーではない。だが、各地にある〈白神獣の古祠〉を巡るなかで、この可愛らしい相棒と出会った。戦闘では全くと言っていいほど役に立たない存在だが、その愛くるしい姿だけで十分だった。

 攻略の観点でも、白神獣の仔は重要なギミックを解く際のキーとなることが多いため、ラピスラズリだけでなく大抵のプレイヤーはそれぞれに白神獣の仔と契約している。何かそれっぽい扉が出てきた時は、とりあえず白神獣の仔を差し向ければ大抵開く、というのが攻略組の中でのセオリーとなっていた。


「やっぱり開きましたわね」


 ルリが鼻先をドアに触れると、アナウンスと共にドアが開く。ラピスラズリは推測が当たっていたことに口元を綻ばせ、再び仔リス胸元に入れて歩き出した。


「――と、霊犬ですか」


 第二階層に立ち入った瞬間、彼女はそこに潜む敵を察知する。油断なく『呪力視』を維持するのは、単独行動時の習慣だった。

 銀のトンファー“聖罰の銀打棒”を構えるラピスラズリの前に、低く唸るゴーストドッグの群れが現れる。


『ガゥアアアッ!』


 先に動き出したのはゴーストドッグ。恐怖を体現する鋭い牙が、ラピスラズリの首に迫る。


「破ァッ!」


 ラピスラズリは回避しない。

 固く握りしめた銀のトンファーをまっすぐに繰り出す。それが犬の鼻先に衝突した瞬間、霊体が爆散した。


「ふっ。雑魚ですわね」


 鎧袖一触。

 様々な呪術的儀式に晒し、漆黒に変色するまで呪われた後、全てを反転させる特殊な儀式を執り行うことによって、その銀は強烈な聖性を帯びていた。聖水を遥かに凌駕する神聖さを有するトンファーは、霊体に対して強い特攻能力を持つ。


『ガッ!?』

『キャイン!』

『クギュッ!?』


 さながら、それは赤熱した鉄のようであった。

 そこにラピスラズリの高い〈杖術〉スキルから繰り出される洗練された技が重なり、更に〈呪術〉スキルによる対霊体攻撃補正が掛かる。

 翻るトンファーが次々と犬を弾き飛ばし、爆殺する。成仏する余裕すらなく、ゴーストドッグたちは浄化されていく。

 三術系スキルが実装される以前、本来のラピスラズリの戦闘スタイルはこちらだった。トンファーを用いた極至近距離拘束連打戦法。相手に息つく暇を与えず、反撃を許さず、一方的に打撃を叩き込む。その戦い方は、特に体幹が弱く、スーパーアーマーを持たないモブエネミーに対して高い威力を発揮した。

 破竹の勢いでゴーストドッグの群れを蹴散らしながら進むラピスラズリは、瞬く間に中央の大部屋へと辿り着く。逡巡なくその敷居を踏み越えた彼女の前に現れるのは、五つの鎖によって四肢と首を繋がれた巨大な幽霊犬、“悔恨のギガヘルベルス”である。


「これがボスね。では――」


 ボスエネミーに対して、トンファーの高速連撃は少々相性が悪い。少量のダメージを連続で繰り出すことでトータルのダメージを稼ぐスタイルは、強力な一体の敵を相手にするには、圧力が足りないのだ。

 だが、ラピスラズリは怖けない。

 その弱点は、すでに克服している。そして、それこそが彼女の真骨頂である。


「――『禁忌領域』“沈黙の窟”」


 黒い球体がラピスラズリとギガヘルベルスを包み込む。猛犬は突然のことに身構えたが、痛みも何も訪れる気配がないことに気付き、再び牙を剥く。一瞬でも自分を覚えさせた小さき存在に、怒りさえ覚えていた。

 だが――。


『…………ッ!』


 その厳つい六つの頭が、一様に困惑する。パクパクと口を開き、舌を踊らせるが、声が出ない。否、それどころか、足で地面を叩いても、爪で引っ掻いても、静寂は揺るがなかった。


――やっぱり、犬は吠えられないとやり辛いわよね。


 力強い咆哮と共に戦いの火蓋を切るはずだった。

 だが、その目論見は完全に崩された。

 ラピスラズリは、混乱するギガヘルベルスの間近に迫っていた。


「『禁忌領域』“重圧の窟”」


 再び、領域が切り替わる。

 ギガヘルベルスは急激に真上から押し付けられ、地面に平伏すこととなった。全く状況が理解できないまま、トンファーが次々と繰り出される。それがひとつひとつ頭を砕いていく。


「ぐ、ふぅ……。自分にも影響があるのが、玉に瑕ですわね」


 禁忌領域は万能ではない。無音の領域となれば、ラピスラズリもまた“発声”ができずテクニックが発動できない。“沈黙の窟”を解除した直後、間髪入れずに発動した“重圧の窟”は彼女の肩にも数倍の重力を上乗せしていた。

 それでも、彼女は二本の足で立ってギガヘルベルスの頭を打ち砕いている。それはひとえに、彼女の高い腕力によるものだった。


『グルルルルッ!』


 焼け付くような痛みに悶え苦しみながら、犬は唸る。体は思うように動かないが、再び声は発せられるようになった。なれば、同胞を呼び寄せ圧倒する。


『オォォオオオオオオンッ!』


 天に突き抜けるような咆哮。雄々しい叫びが塔に広がる。

 群れの主の呼び声に応じて、周囲の壁から次々とゴーストドッグが飛び出してくる。その数は急激に膨れ上がり、猛々しい吠え声が幾重にも重なる。

 だが、孤立無援の圧倒的不利に見える状況にも関わらず、ラピスラズリの余裕は揺らがない。彼女はトンファーを握りしめ、ギガヘルベルスを見上げる。


「――『領域拡張』『呪霊爆滅術』『霊魂奪喰』」


 トンファーを握ったまま、ラピスラズリが拳同士を打ち付ける。

 その瞬間、四方八方から殺到していたゴーストドッグが次々と爆散していく。その爆風は凄まじく、ギガヘルベルスの体すら抉り取る。そしてまた、ラピスラズリでさえもそのダメージを甘んじて受けていた。

 自身を軽視し巻き添えにする、捨て身の爆撃。だが、ひとつだけ違うことがある。ギガヘルベルスが爆炎に巻き込まれて悲鳴を上げる中、ラピスラズリのLPは僅かにだが回復もしていた。

 『呪霊爆滅術』――装備補正も含めた自身の聖性に応じて、周囲の霊体を爆発させる呪術。

 『領域拡張』――攻撃の対象となる範囲を押し広げる〈罠〉スキルのテクニック。

 『霊魂奪喰』――自身が倒した霊体の霊力の一部をLPに還元する呪術。

 複数のテクニックを織り交ぜた巧みな範囲爆殺攻撃。これにより、ラピスラズリはLPをすり減らしながらも、ギガヘルベルスとのチキンレースに打ち勝った。


「ふぅ。……ま、第一階層といった感じですわね」


 呆気なく地に沈む霊犬を一瞥し、ラピスラズリは味気ない感想を抱く。

 最後に事切れたギガヘルベルスの莫大な霊力が『霊魂奪喰』の効果によってLPに還元され、彼女は瀕死の状態から九割ほどまで回復する。

 彼女は修道服の裾を軽く手で払い汚れを落とし、再び軽やかな足取りで第三階層に向けて歩き出した。


━━━━━

Tips

◇禁忌領域“絶無”

 干渉を許さない、不変の領域を生み出す術式。外部からの影響を一切受けず、また内部からの干渉もない。完全なる不変、不滅、不壊、不可侵を実現する、概念的に確立され保証された唯一絶対の空間。

 その概念的強靭性故に拡大は難しく、また不安定的。壊れない故に壊れやすいという、自己矛盾的な性質を有する。


Now Loading...

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る