第1096話「出迎える合唱」
「胃液!?」
「はええええっ!? あ、アリエスさん!?」
オペレーターから告げられた言葉に、艦内は騒然となる。操舵手が必死に舵を切ろうとするが、すでに進路は決まってしまった。後方からは大量のカレーが押し寄せ、例え反転したとしても分岐点まで戻ることはできない。
「胃袋に落ちます!」
「防御機術、全力展開!」
潜水艦の手すりにしがみつき、搭乗している防御機術師に希望を託す。彼らが全身全霊の力を込めて構築した大規模な障壁が潜水艦を包み込むのと、浮遊感と共に空中へ投げ出されるのは同じタイミングだった。
「うおおおおおっ!?」
「ほぎゃああああっ!」
「あんのペテン師めぇえええっ!」
泣き叫ぶ者、悲鳴を上げる者、占い師を責める者。三者三様の声が入り混じるなか、潜水艦は落ちていく。暗い暗い呑鯨竜の体内の、広く巨大な胃袋の中へ。前方を照らすライトが、底に溜まっている液体を照らす。ボコボコと泡立つ、強烈な胃液だ。
あそこに落ちれば最後、俺たちにあとはない。もう一度巨大なカレーライスを作ることもできず、作戦は失敗だ。思いを託してくれたウェイドたちにも申し訳が立たない。
無念を胸に抱きつつ、諦めかけたその時だった。
『ポォォォォォォオオッ!』
突如、甲高い声が突き抜ける。潜水艦の外から聞こえる声に、乗員たちが目を白黒させるなか、即座に周囲の状況を確認したオペレーターが叫ぶ。
「潜水艦が何か、ええっと、泡的なサムシングに包まれて、その、胃液に浮かんでいますが、なんとなく大丈夫っぽい感じみたいです!」
「なんだそのふわっとした報告は!?」
「状況が分かんないから仕方ないんですよぉ!」
オペレーターは半泣きだが、彼の言葉は事実だった。窓から見える外の景色には、展開された防御機術の障壁ごとすっぽりと潜水艦を包み込む泡が映っていた。
「ついてきた仲間の船も泡に包まれて無事に着水しています。いったいどうなってるんでしょうか」
俺たちの乗る潜水艦を追いかけてきたアストラたちの船も胃液の海にぷかぷかと浮いている。今のところ、船体が溶けたり捻じ曲がったりしている様子もなく、どの船も無事だ。
戸惑いを残しながらも徐々に情報が集まってくる。他の船とも問題なく連絡がつき、アリエスに苦情が殺到していた。
『うるっさいわねぇ。当たるも八卦、当たらぬも八卦ってことわざ知らないの? ていうか、私が占った時は右が最善って出ただけなんだから。それを信頼するかどうかは受け取り手次第なのよ』
と、当の本人はのらりくらりと躱していたが。
「レッジさん、〈ビキニアーマー愛好会〉の方から連絡が」
情報収集に専念していると、レティがやって来て声を掛けてくる。彼女の背後には、“舞い踊る青領巾”を提供してくれたビキ愛の男が立っていた。
「こちらで独自に調査をした結果、いくつか分かったことがあったので共有しておきたいと思いまして。ひとつ、やはり外の液体は全て強力な消化液のようです。実際に試したわけではありませんが、〈鑑定〉スキルを用いた調査によれば、無防備な調査開拓員は3秒で溶け切る試算が出ています」
タイプ-ゴーレムの偉丈夫は、メモを書き留めたウィンドウをこちらに見せながら言う。
普段はビキニアーマーに狂っている彼らだが、その技術力は本物だ。こういった状況の調査でもその実力は発揮されるようで、詳細な観測データが分かりやすく纏められていた。
その結果は、ポセイドンの忠告が正しいことを物語っている。今は謎の泡によって守られているが、これがなくなれば防御機術も1分程度で崩壊し、潜水艦の装甲も30秒も持たないとの結論が出ていた。
「二つめとしてこの泡ですが、強力な中和作用があるようです。おそらくこれが胃液の強力な酸化作用を阻んでいるのでしょう。アーツによるものではなく、むしろ生物的なもののようです」
「生物的というと?」
「なんというか、一種の粘菌の集合体、とでも言うべきか……」
ビキ愛の技術力を持ってしても、その正体は分からない。しかし、この短時間で粘菌の一種であると予測を立てるのはなかなかに凄まじい調査能力だろう。
そして、粘菌という言葉に俺やレティたちは思い当たるものがある。
「粘菌って……」
「貯蓄袋にもいた奴らの仲間かもしれないな」
呑鯨竜は体内の臓器に様々な粘菌を飼っているのだろう。共生関係にあるのかもしれない。前回は動く機雷として俺たちを阻んできた粘菌だが、今回は彼らのおかげで首の皮一枚繋がった形だ。
「それじゃあ、さっき聞いたポーッって声は粘菌のものなんですか?」
レティが首を傾げて問いかける。
「いえ。見たところ耐酸性粘菌――という仮称ですが――それに発声器官となるようなものは見当たりません。核となりそうな物体はあるのですが……」
「となると、あれはいったい……?」
ビキ愛の男に否定され、レティは混迷を深める。
その時、外部を監視していたオペレーターたちがにわかに騒がしくなる。
「す、水面下で何か動く物体を検知!」
「近づいて来ています!」
「30、50……なんて数だ。100は下らないぞ!」
大画面ディスプレイにレーダーの反応が映し出される。自艦を中心として円形に広がるマップ上に、夥しい数の赤いポイントが表示されていた。それはパルスが一巡するたびに、続々とこちらへ近づいて来ている。
「総員、戦闘準備! ただし正体が分かるまで攻撃はするな!」
機雷粘菌であった場合、一匹でも爆発すれば立て続けに誘爆し、大惨事になってしまう。機術障壁や船の装甲を貫通さないものであっても、胃液から守っている粘菌泡が吹き飛べばその時点で終わりなのだ。
潜水艦に装備された機銃が動き、照準を定めていく。対象は全て水面下を移動しているようで、艦の上部に設置された機銃が使えないのは少し厄介だ。
「そもそも、この胃液を泳いでるやつに実弾がどれだけ通用するか……」
少なくとも、通常の原生生物ではないことは確かだろう。
艦内のみならず、周囲の船にも緊張が走る。砲手が引鉄に指をかけ、生唾を飲み込む。ディスプレイには、最大光量のライトが照らし上げる、薄黄色のドロリとした消化液の海が見える。
『ポッ!』
ざぷん、と水面が持ち上がる。粘度のある水が流れ、その下から頭が現れた。
『ポッ!』
『ポポッ』
『ポー、ポポポッ!』
直後、次々と頭が現れる。
濡れた長い髪に、大きな瞳。耳が発達し、ヒレのようになっている。男もいれば、女もいる。男は上裸だったが手に何かの骨で作ったような槍や矛を持ち、女は昆布のようなものを胸に巻き付けていた。
「彼らは……」
「いったい何者なんだ?」
水面から上半身を露わした人型の存在に、困惑が広がる。明らかに知性と文明を感じさせる風貌と動きだ。俺はすぐに攻撃態勢を解くように言う。ただ、防御機術だけは維持しながら、観察を進める。
「レティ、護衛を頼む」
「ちょっ、レッジさん!? 危ないですよ!」
梯子を登り、ハッチを開ける。潜水艦の甲板に立ち、肉眼で彼らを見る。同時に、彼らも俺のことを認識した。驚き目を見開く者、咄嗟に槍をこちらに向ける者、怯えたように近くの仲間の背後へ隠れる者。その反応は様々だ。
「レッジさん!」
追いかけてきたレティが隣に立ち、ハンマーを構える。
一瞬、剣呑な空気が広がった。
俺はインベントリを漁り、借りっぱなしになっていた翻訳機を手にする。
「こほん。――俺たちは、外の海からやって来た! あなた方に敵意はない! まずは、お互いについて理解するところから始められないか!」
翻訳機を起動しつつ叫ぶ。その声が即座に地下言語へと翻訳される。
レティがぎょっとしてこちらを見るが、俺は構わず言い方を変えながら言葉を続ける。
「こんにちは! おはようございます! わっしょい!」
『ポポポッ!』
「うおっ」
思いつくままに話していると、突如言葉が返ってきた。やはり、先ほどの声は彼らのものだったらしい。そして、ある程度ではあるが地下言語が通用する。
「わっしょい!」
『ポポポッ!』
「わっしょい!」
『ポポポッ!』『ポポポッ!』『ポポポッ!』
どうやら、わっしょいという単語に反応しているらしい。俺が叫ぶと彼らも拳を掲げてポポポと返す。彼らの表情が読み取った通りであるならば、警戒心も解けてきているようだ。
「レッジさん、これはいったい?」
「分からんが。なんとなく、正体に見当がついてきたぞ」
わっしょい! と叫びながら、俺は周囲の船にも合図を送る。俺に続けというサインだ。
「わっしょい!」
すぐに反応したのはアストラだった。彼は騎士団の立派な船の甲板に立ち、俺と同じくわっしょいと叫ぶ。続々と騎士団員が出てきて、アイも一緒に恥ずかしそうに叫んでいた。
「わっしょい!」「わっしょい!」「わっしょい!」
『ポポポッ!』『ポポポッ!』『ポポポッ!』
「わっしょい!」「わっしょい!」「わっしょい!」
『ポポポッ!』『ポポポッ!』『ポポポッ!』
続々と声は重なり、大きくなる。胃袋に響き渡る大合唱で俺たちはわっしょいとポポポを続ける。
謎の来訪者たちのテンションも高まり、動きが激しくなる。そして――。
「わっしょーい!」
『ポッポポポッ!』
昂った男が大声と共に飛び上がる。水面下から飛沫を上げて現れた彼の下半身は、滑らかな鱗の輝く逞しい魚体であった。
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Tips
◇呑鯨竜の強酸胃液
呑鯨竜の胃袋にあるとても強力な消化液。あらゆる物質を瞬く間に溶かし、栄養素へと還元する。特殊な粘菌が分泌するもので、呑鯨竜自身が精製するものではない。しかし、呑鯨竜自身はまた別の粘菌によってこの消化液を中和し、胃壁を守っている。
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