第1086話「粘菌たちの海」
海水を飲むと見えるようになったスライムは、1メートルほどの大きさをした球状の体をしていた。球といってもかなり柔らかいようで、波を受けたり、俺が手で押したりするだけで簡単に形を変える。
「おじちゃん、何が見えてるの?」
「シフォンも海水を飲むんだ。そしたら分かる」
「はええっ!?」
俺の変化を見たシフォンが不思議そうな顔をするが、彼女に海水を飲むように言うと涙目でぶんぶんと首を振られた。
「むむむ、無理だよ! 気持ち悪い!」
「どうせ仮想現実なんだからいいじゃないか……」
「気持ちの問題だよ!」
どうやら普通は海水を飲むという行為に強い抵抗を覚えてしまうらしい。ただの海水ならともかく、おそらくトリガーとなっているのは巨大な呑鯨竜の体内にある海水だという点も不快感に繋がっている。実際、Lettyもトーカも自分から飲み込んだわけではないしな。
だが水を飲んでスライムを目視できるようにならないことには始まらない。
「シフォン」
「な、なに……?」
俺はちょいちょいと手招きしてシフォンを呼び寄せると、彼女が加えているシュノーケルを摘んで外した。
「はええぼぼぼぼっ!?」
「大丈夫だから。一気に飲み込め」
「おぼっ、おぼぼぼっ!」
酸素の供給源を失ったシフォンは驚きの声をあげて泡を吐き出す。そして、反射的に肺を膨らませ、空気の代わりに大量の海水を飲み込んだ。
「何を――はえええっ!?」
恨みがましい目をこちらに向けるシフォン。しかしその直後、周囲に集まってきているスライムの大群を見て仰天する。
「何これ!? き、きもっ!?」
「はっはっは。シフォンも見えたみたいだな」
ちなみにFPOのスライムはいわゆるデフォルメされた可愛い系ではなく、粘菌リアルガチ系の見た目をしている。簡単に引き剥がせるのと、蒼氷船のテントの効果範囲内ということでLPも減っていないが、全身にまとわりつこうと覆い被さってくるのでなかなか迫力がある。
「シフォンーーーーっ!」
「Letty! ようやくパニックの理由が分かったよ! これはキモい!」
シフォンという理解者を得て、Lettyがようやく落ち着く。彼女はシフォンに抱きついてひんひんと咽び泣いていた。
『レッジさん、そちらはどんな感じですか?』
「海水を飲んだら見えないものが見えてきた。なんなら空まであるみたいだぞ」
『ええ……? 天体観測でもするんですか?』
「とりあえず今のところは危険はなさそうだ。ミカゲ、糸を垂らしてくれないか」
困惑するレティを置いておいて、ミカゲにSOSを出す。すぐにスルスルと糸が降りてきたため、それを掴んでLettyの腰に巻き付ける。
「とりあえず、Lettyを引き上げよう。甲板でゆっくり休んでくれ」
「あうぅ。ありがとうございます……」
憔悴しきったLettyが引き上げられる。甲板にはレティとトーカという力自慢二人組がいるため、あっという間に回収されていった。
「じゃ、じゃあ次はわたしも……」
「シフォンは居残りだ。スライムについて調べるぞ」
「はええっ!?」
そろそろと蒼氷船の船腹に手をかけようとしたシフォンの肩を掴む。今のところスライムたちは脅威というほどではないが、調査しないわけにはいかない。
「シフォンが気づいてるかどうか知らんが、デバフが色々掛かってるからな。スライム自体はあんまり強くないかもしれんが、厄介だぞ」
「はえ? はえええっ!?」
ステータス欄には“腐食”“麻痺”“猛毒”“昏睡”“狂乱”と強力なデバフがずらりと並んでいる。どれか一つでも受ければ即座に戦闘不能になるようなものばかりだが、問題なく活動できているのは俺たちがテントの影響範囲内にいるからだ。
蒼氷船を中心とした半径25m圏内であれば、これらのデバフも無視できる。逆に言えば、範囲内から出た瞬間に俺たちは鉄屑になってしまう。
「まったく、ファイティングスピリットもやってくれるな」
「ここって胃袋じゃないんでしょ? なんでこんなことに……」
ファイティングスピリットはここが貯蓄袋だと言った。仮に胃袋の方へと入ってしまえば、その瞬間に溶けて死ぬとも。つまり彼女は、テントの効果さえあればこちらでも生き残れると言っていたわけだ。
ただの天真爛漫なお祭り少女かと思っていたが、旧統括管理者らしいところもある。少なくとも、彼女の言葉を頼りにするときは、漫然とそれを受け入れるだけでは死ぬだろう。
「ファイティングスピリット。人魚の町は、今なら見つけられるか?」
『わっしょい! 見渡せばそこにあるはずだぞ!』
水面近くを漂うスライムの上に立ち、甲板にいる少女へ話し掛ける。彼女の答えを聞いて、俺は周囲に視線を巡らせる。
「シフォン、あれを」
「むむ? はっ! あれって、もしかして、町?」
海水を飲むことで、暗闇だった体内を明るく見通せるようになった。水中も好きとおり、黒いスライムたちはまるでサイダーに落としたタピオカのようだ。そんな光景の中、深い水の底に大きな泡があった。蒼氷船よりもはるかに大きく、それでいて浮かんでくることもなく底に佇んでいる。
その大きな泡の中に、滑らかな白い石で築かれた町があった。
「あそこが目的地ってわけだ。問題はどうやって行くかだが……」
「船から離れ過ぎたらダメなんだよね?」
シフォンの指摘に頷く。
蒼氷船に展開しているテントの範囲から出た瞬間に、俺たちは死ぬ。かといって、蒼氷船からテントを取り外してそれと一緒に沈んで行っても、今度は船に残るラクトたちが危うい。
「となると……。ラクト!」
『はいはい。ちょうど準備が終わったところだよ』
俺が顔を上げたその時、蒼氷船が大きく形を変える。甲板を包み込むように屋根が覆い、内部の空気を閉じ込めると共に外からの浸水を阻む。ラグビーボールのような形となったそれは、蒼氷船の新たな可能性を示していた。
「もしかして、船ごと沈むつもり?」
「そうだ。シフォンにも手伝ってもらうからな」
「はえ?」
蒼氷船は内部に空気を閉じ込めていることもあり、強い浮力を持っている。当然、そのままの状態で沈降はできない。ならばどうするか。外にいる俺たちが引っ張るしかないだろう。
「はええっ!? わ、わたしにそんな力はないよ!」
「力で言ったらレティたちの方が上だろうさ。けど、シフォンにしかできないことがある」
不思議そうに首を傾げるシフォンに、船を沈める方法を伝える。それを聞いて彼女も納得した様子で、早速動き始めた。
「それじゃあ――。『
浮いているものを沈めるには、錘を付けてやればいい。
〈白鹿庵〉では唯一、土属性の機術も扱えるシフォンが展開した巨大な岩は、硬い鎖によって蒼氷船を絡めとる。本来は原生生物を拘束してその動きを封じる、支援機術の性格を持つ攻性機術だが、今回はただの錘として使う。
「うおおおおっ!」
「押しつぶされるなよ!」
蒼氷船の船首が水に突き刺さる。そのまま船尾が持ち上がり、垂直に立ち上がりながら深く潜り始める。
「来たかっ!」
その直後、待ち構えていたかのように大量のスライムたちが動き出す。水の中で器用に身を捩り、蒼氷船の表面に張り付いていく。個々の力は弱くとも、数百、数千と集まれば無視できないほどの影響力を持つ。俺は槍を構え、氷の船体にへばりつくスライムをこそぎ落としていった。
「おじちゃん!」
鎖を掴んでいたシフォンが声を上げる。
彼女の指差す先に、異様なスライムがいた。それは滑らかに体をくねらせ、ヒレのように身を平にしてこちらへ泳いでくる。明らかに、水面付近で漂っていたタピオカスライムとは別種だ。
「水中戦はまだまだなんだがな……」
俺は槍を構え、周囲に水中用ドローンをばら撒く。俺一人では分が悪いため、手数を増やしておかねばならない。
エイのようにも見える黒いスライムは瞬く間にこちらの懐へ突っ込んでくる。その眉間目掛けて、槍を突き出す。
「風牙流、四の技――『疾風牙』ッ!」
放つ突撃は水を貫いてエイ型スライムへと迫る。だが、その衝撃が触れる直前、スライムは自身の体に穴を開けるように形を変える。
「チッ!」
疾風牙の攻撃はあっけなくすり抜ける。
スライムは不定形というのは定番ではあるが、ここまで柔軟に形を変えられるとは。
「なら――」
俺は槍とナイフを構えたまま、スライムの胴体を注視する。そして、その半透明の胴体に黒いボールが収まっているのを見つける。
「スライムは核を破壊すれば倒れるっていうのも、定番だよな!」
ヒレを翻して迫るスライム。頭部の形を鋭い針のように変形させて、突進攻撃を敢行する。俺は水中ドローンで自分の体を突き飛ばし、緊急回避を行う。そして、真横を掠めるスライムの横腹に、白いナイフを深く差し込んだ。
『ィィイイイイイイイイイッ!』
甲高い電子音のような悲鳴。水中によく響くその声が、周囲のスライムたちを震わせる。
身削ぎのナイフは深くスライムの肉を裂き、奥にある核を捉えた。ガラスのようなそれは放射状にヒビを走らせ、細かな破片が水の中に飛び出す。白い火花がバチバチと広がり、ブクブクとスライムの体が膨れ上がる。
その様子に危険を覚えた俺は咄嗟にナイフを引き抜き、槍の穂先でスライムを遠くへ叩き飛ばす。
『ィィィィイイイイイイイッ!!!!』
次の瞬間、グロテスクに膨らんだスライムが爆発四散した。
「きゃああああっ!?」
「はえええええっ!?」
「ほぎゃあああっ!?」
シフォンも、船内のレティたちも悲鳴を上げる。
スライムの爆発は、蒼氷船に張り付いていたタピオカスライムたちにも伝播していた。立て続けに起こる爆発は水中で衝撃波を乱発し、水を複雑に揺らす。その衝撃は絶大で、ラクトが作り上げた蒼氷船の外殻に亀裂が走った。
「ラクト!」
『大丈夫! すぐ修復する!』
テントによるLP供給を受けて、ラクトは即座に船体を修復する。しかし、状況は悪い。
「これはなかなか、面白いじゃないか」
周囲から続々と押し寄せるタピオカスライム。彼らは差し詰め機雷といったところだろう。それも自ら動き、標的に粘着するというタチの悪い機能を持つ。そして高速で突っ込んでくるエイ型は起爆用の信管だ。奴の核が破壊された時の爆発は、タピオカたちを誘爆させる。
俺たちが水底の町にたどり着くのが先か、身動きが取れないほどスライムが纏わりつき、爆発によって粉々になるのが先か。
水の奥から集結するスライムたちを睨みながら、俺は思わず笑みを浮かべていた。
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Tips
◇ファイティングスピリットによる補足文書(管理者クナドによる翻訳版)
[情報保全検閲システムISCSの要請により、管理者クナドによる当該文書の翻訳が行われました]
[翻訳の精度は未知数であることに留意してください]
第三開拓領域〈イヨノフタナ海域〉の第一域〈怪魚の海溝〉は広大で深い海洋フィールドである。そして、その海の中にまた別の黒い水の海がある。暗闇に閉ざされたその海の中に踏み入った者は、即座に死ぬだろう。その海は何かを隠すため、侵入者たちに取り付き、その歩みを阻む。海の妨害を退けたければ、その海の水を飲まねばならない。海の底にて閉じた貝殻の中に、かつての繁栄の残滓が封印されている。
――翻訳:元〈
[文書作成者より名義変更の要請が33件送られています]
[情報保全の観点から、要請は全て却下されます]
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