第1085話「逆転する黒い海」
どぽん、と水の中に落ちる。暗い水中を咄嗟に点けたランタンの光で照らす。細かな泡の立ちのぼる元にLettyの赤い髪が広がって見えた。
「Letty!」
「ぼごぼごっ!」
思わず彼女の名前を叫ぶが、潜水装備を着けていないため酸素ゲージが一気に目減りする。Lettyは完全にパニックに陥っているようで、大きく口を開けて泡を吐き出しながら藻搔いていた。
手を伸ばし、彼女の腕を掴む。振り払われそうになるが、彼女の体を引き寄せて背中に手を回し、落ち着かせる。
「大丈夫。落ち着け。現実じゃない。ここでは溺れないから」
「うぼぼぼっ」
Lettyの頬を軽く叩き、意識をこちらに向けさせる。FPOはあくまで仮想現実上のゲームだ。ここで溺れても実際に苦しんで死ぬわけではない。彼女は水に顔をつけることそのものに強い抵抗があるようだが、それによって息苦しくなるわけでもない。
俺はインベントリに入れておいた潜水装備を装着し、Lettyにも渡す。シュノーケルとタンクを装備しておけば、溺れることはなくなる。
「よし、よし。落ち着いたな。空気を漏らすなよ。ハンマーをインベントリに。力を抜いてれば自然に浮くからな」
「はひっ、はひっ」
荒く呼吸を繰り返しながらも、Lettyは少し落ち着いた。重たいハンマーをインベントリに収納したことで、彼女を沈める錘もなくなった。
俺はLettyの手を取って、ゆっくりと浮上する。彼女を説得している間に、かなり深くまで沈んでしまった。ライトの向こうに、蒼氷船の船底が見える。あれを目指して泳いでいけば、あとは向こうから引き上げてくれるだろう。
「むおおおっ!?」
「落ち着けLetty。もうすぐで着くから」
「むおおおっ!?」
手を引いているLettyが再び悲鳴を上げ始める。もうすぐに安全圏に戻れるのだからと声を掛けるも、彼女はおさまらない。何か様子がおかしいと思い振り返ると、彼女は顔を真っ青にさせてハンマーを振り回していた。
「うおおおっ!? ちょ、Letty、何やってるんだ!?」
せっかくしまったはずのハンマーをわざわざ取り出すとは、何があったのか。驚く俺をよそに、彼女は暗い水の中、闇雲に武器を暴れさせる。
「落ち着け、Letty! とりあえず喋れるはずだから、状況を説明してくれ!」
「ほぎゃっ、ほげっ。何か黒い影が!」
「波の影でも見えたんじゃないのか?」
「ち、違う! きっとエネミーよ!」
そう言って、Lettyは再び半狂乱でハンマーを振る。彼女のメチャクチャな動きで、再び俺たちは沈降してしまう。
「落ち着けLetty、何もいない!」
「いますよ! ほら、そこに!」
彼女が指差す方向へ目を向けるが、何も見えない。ただ暗い水が広がっているだけだ。
「どうして見えないの!?」
「何がいるんだ? どんな姿をしている?」
「わ、分かんないよぉ。なんか黒くてブヨブヨしてて、大きいんだよぉ」
Lettyは涙目になって、普段の口調も崩れて叫ぶ。その尋常でない反応は、無視するわけにもいかなかった。
「レティ、船上から水中を索敵してくれ。何か見えないか?」
俺はいくつかの可能性を考えながら、TELで船上のレティに声をかける。
『水中の索敵はずっとしていますが、何もヒットしませんよ?』
「それならシフォンとミカゲだ。占術と呪術で何か見えないか?」
『な、何にも見えないよぅ』
『……同じく』
俺の呼びかけに応じて特殊な眼を持つ二人も水中を注視するが、これといった成果はあがらない。しかし、その間にもLettyは俺を振り飛ばしそうな勢いで暴れている。
「Letty、落ち着け。冷静に周囲を観察するんだ」
「ひえええんっ!」
ぶくぶくと泡を吐き出しながら、Lettyは泣き喚く。あまりにもパニックが強過ぎて、このままでは強制ログアウトの危険まで出てきそうだ。いっそ、彼女が落ち着きを取り戻すためにも、一旦ログアウトしてもらってもいいが……。
『レッジさん! 見えます! 水中に大量の影が!』
「なにっ!?」
強硬な手段が脳裏をよぎったその時だった。突如、トーカの声が飛び込んでくる。
「何が見える!?」
『不定形の黒い影です。大きさは、1メートルほどでしょうか。アメーバのように動き回っています!』
トーカの報告は、Lettyの言葉とも一致していた。つまり、彼女が見ているのは幻覚や思い込みではない可能性が高くなった。
しかし、なぜトーカとLettyだけがそれを見ることができるのか。タイプ-ヒューマノイドであるトーカはタイプ-ライカンスロープほど夜目が効くわけではないし、そもそsも、Lettyに見えてレティに見えない理由が分からない。
『レッジさんの周囲にもたくさん……。ライトの光で集まってきているように見えます』
「何が条件なんだ……?」
周囲に明かりを振り撒いて目を凝らすが、それらしいものは何も見えない。ただの水が果てしなく広がっているだけだ。
「おぼぼぼっ、ごぼっ」
「Letty、落ち着け。水を飲み込むな!」
Lettyは俺の体に縋りつき、耳を倒している。もはやハンマーを振り回す気力もないほどに焦燥しきっていた。シュノーケルからも口を外し、海水を飲み込んでしまっている。
「……海水?」
大きな泡を吐き出すLettyの姿を見て、何か引っ掛かる。Lettyとトーカの共通点が何かあるはずだ。
「おじちゃん!」
「シフォン!?」
考えがまとまらず苛立ちを覚える俺の真上に、シフォンが飛び込んでくる。彼女は尻尾を水に浸しながら、がむしゃらに周囲へアーツの短剣を放つ。
「見えてるのか?」
『み、見えてないけど……。おじちゃんだけじゃLettyを持ち上げられないかと思って』
瞳を揺らしながらシフォンが言う。彼女も恐怖に怯えているはずなのに、勇気を振り絞って助けに来てくれたのだ。俺はそんな彼女に感涙するとともに、急速にキーワードが繋がっていくのを感じた。
「そうか、シャチホコ……」
『しゃ、シャチホコ?』
シフォンが困惑しつつ、小魚を懐から取り出す。トーカがいつの間にか飲み込んでいた、金色でなければシャチでもホコでもないただの海魚。しかしそれでも、俺たちの命運を分けた重要なラッキーアイテム。
「ごぼっ。ごくっ!」
『はえええっ!? お、おじちゃん!?』
俺はシュノーケルを口から外し、息を吐き出して海水を飲み込む。突然の奇行にシフォンが目を丸くして止めに来るが、俺は腕を伸ばして彼女を拒絶する。
『な、な、何やってるの!?』
「トーカとLettyの共通点だ。二人とも、呑鯨竜の体内にある水を飲んだ」
機体もスキル構成も違う二人の唯一の共通点。それは、口の中に呑鯨竜の体内にあるものを含んだかどうか。もっと言えば、嚥下したかどうか。二人とも、大量の海水を飲み込んでいるはずだ。ミカゲもトーカと同じく溺れかけていたが、彼は〈水泳〉スキルに余裕があったこともあって、水を飲み込むほどには至っていない。
『ど、どゆこと?』
「さあ……見えてきたぞ』
おそらく、ただの海水ではない。わずかに粘度があり、喉にまとわりつくような不快感がある。そして、それを飲み下した後、徐々に視界が変わっていく。
真っ暗だった水中を、次第に鮮明に見通せるようになってきたのだ。
太陽の光が入らない巨大な竜の腹の中であるはずなのに、周囲の海はまるで南国のそれのように透き通ったブルーだ。キラキラと水面が輝き、上空に白く発光する太陽のようなものさえ見えてくる。
そしてなにより――。
「うようよいるじゃないか」
俺たちの周囲、水の中のあらゆるところに、巨大なゼリー状の原生生物が無数に蠢いていた。半透明の黒い体は不定形で、波を受けて形を変える。そっと手を伸ばせば、ブニブニとした触感が返ってくる。水を飲まなければ、同じところに手を伸ばしても何も得られなかったはずなのに。
水中を漂うように動く巨大な生物。一見するとゴムボールのようにも見えるが、内部にサッカーボール大の核のようなものも見える。その姿をあえて形容するならば……。
「いわゆる、スライムってやつか?」
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Tips
◇ファイティングスピリットによる補足文書
[情報保全検閲システムISCSによって安全性が確認されました]
[当該文書を公開します]
深き海の底にある、黒き水の中。闇の満ちる大水の誘いと共に、藻屑は泡沫となる。包み隠し、粘りつき、かたく守る。結ばれた紐を解きたければ、黄泉へと注ぐ水を飲み干せ。永遠の眠りは水底に。古き栄華は閉じたる貝の中にて続く。
――元第二開拓領界統括管理者エウルブ=ピュポイ
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