第1075話「珊瑚礁の中」
呑鯨竜は〈怪魚の海溝〉に古くから生息する鯨に似た大型原生生物である。大きく口を開けて海水ごと海棲生物を飲み込み、十把一絡げに喰らう。その巨体ゆえのシンプルな力強さとタフネスにより、性格こそ穏やかなものが多いが、生態系の上位に君臨している捕食者であった。
『たぶん、20才くらいの若い個体だぞ』
「そんなことまで分かるんですか?」
『写真に歯が写ってたからな。それを見れば大体の年齢が分かるんだぞ』
海原を進む蒼氷船の甲板でファイティングスピリットから呑鯨竜についてレクチャーを受けたレティたちは、彼女の知識に感嘆していた。レッジが送ってきた写真は、呑鯨竜の口腔内、食道、胃袋を撮影したものだ。外見どころか内臓の一部を接写した胃カメラのような画像だったが、ファイティングスピリットは一瞬の逡巡もなく即答してみせた。
「流石は統括管理者といったところですね」
『むふんっ』
トーカがパチパチと手を叩いて賞賛すると、青髪の少女は腰に手をやって胸を張る。
「それで、私たちは今どこに向かっているんですか?」
Lettyが後ろへ流れていく波を見ながら首を傾げる。蒼氷船を操縦していたラクトが、船尾の方からそれに答えた。
「呑鯨竜の棲家らしいよ」
「棲家?」
「なんでも、満腹になった呑鯨竜が休むための場所があるんだって」
「なるほどー」
ラクトもファイティングスピリットの指示に従っているだけではあったが、広い海洋を迷うことなく突き進む。攻略活動中の他の船には、そんな〈白鹿庵〉の船を見て怪訝そうな顔をするプレイヤーたちがいた。
「でも、それも結局海中なんだよね? わたしもレティさんも〈水泳〉スキルは持ってないよ?」
「そんなに深いところじゃないから、普通の潜水装備でいけるみたいだよ」
LPアンプルを飲み干しながらラクトが言う。レッジを失い、テントの効力が切れてしまった蒼氷船は、彼女一人の力で動かすのはなかなか大変だった。エンジンになった気分を味わいながら、彼女は指定された座標を目指す。
「あっ! 見えてきましたよ!」
船縁に身を乗り出していたレティが叫ぶ。
彼女の視線の先で、広々とした海面の色が変わっていた。深い青から、明るい青へ。水深が光を反射するほど浅くなっている証拠だった。
『あれ?』
しかし、それを見たファイティングスピリットは怪訝な顔で首を傾げる。
「どうかしましたか?」
『ボクが知ってる浅瀬は、もっと先なんだけど……』
予想とは違う海の姿に、彼女は不安そうに表情を翳らせる。どういうことだろうと首を捻る一同のなかで、トーカがはたと気付く。
「もしかしたら、ファイティングスピリットさんが封印されている間に変化があったのかもしれませんね」
『そうかも!』
ファイティングスピリットが封印杭として眠っていたのは数万年もの長い時間だ。その間にフィールドが大きく姿を変えていても不思議はない。
「このあたり、珊瑚礁なんですね」
「なるほど。それなら大きくなってても不思議じゃないかも」
浅海に乗り出し、レティたちも海上から水の下を窺えるようになった。
そこは色とりどりの鮮やかな珊瑚が枝を広げる豊かな珊瑚礁であった。カラフルな小魚が、船の音に怯えて岩陰に隠れてゆく。珊瑚たちは長い年月をかけてここに集まり続け、規模を拡大していったのだろう。
「水深は……流石に立てるほどではないですね」
「でもシュノーケルがあれば十分泳げそうね」
「これなら船の上から支援できるかも」
珊瑚礁の水深は10メートルもない程度。船のサイズによっては侵入できない可能性もあるほどだ。しかし、レティのような〈水泳〉スキルを持たないプレイヤーにとってはこちらの方が好都合である。
「あのー」
安堵するレティたちに向かって、Lettyがおずおずと手を挙げる。
「呑鯨竜って結構大きいんですよね? こんなところに来れるんですか?」
「あっ」
鋭い指摘にレティたちは愕然とする。この浅瀬に鯨ほどの原生生物がやって来たら、背中が水面上に露出してしまう。
『呑鯨竜が来るのは、この下だぞ』
「この下、ですか……?」
ファイティングスピリットは指を真下に向けて言う。
その間にもラクトは船を動かし、やがて彼女たちにもファイティングスピリットの言わんとすることが理解できた。
「大きい穴が!」
「これはかなり深そうね……」
広大な珊瑚礁に、突然巨大な穴が現れたのだ。その内部は暗く、底は見通せない。差し込む光によって、それが水中洞窟のようになっていることが分かった。
『海の深いところに、ここに繋がる穴がある。この中は呑鯨竜の隠れ家になってるんだ』
「なるほど……」
ラクトは蒼氷船を穴の縁のあたりに停める。
「『
水飛沫を上げて巨大な氷柱が珊瑚礁を貫く。碇などという便利なものを搭載していない蒼氷船では、ラクトのアーツが船体を固定する唯一の手段だ。
「相変わらず環境に悪そうな停船ねぇ」
「どうせ時間経過で戻るんだから気にしなくていいよ」
多少環境負荷は上がるかも知れないが、これによって猛獣侵攻が発生するといったことはまず考えられない。ラクトは気楽にそう言って、次々と氷柱を立てていく。
「それでは、これからレッジさん救出作戦を行うわけですが」
船が停止したところで、レティが切り替える。彼女は船に積んだコンテナから潜水装備を取り出し、甲板に並べていく。人数分の潜水具はあるが、酸素ボンベが少し心許ない。これを見て、彼女は人数を絞ることを提案した。
「大体三人でしょうかね。誰が行きますか?」
「それならミカゲを連れて行きましょう。一番身軽ですし」
メンバー内で唯一〈水泳〉スキルを持つミカゲを中心に、レッジとシフォンの救出チームが組まれていく。
「レティは当然行きますよ! レッジさんを颯爽と救い出します!」
「それなら、身軽なわたしも適任だと思うんだけどなぁ」
腕を曲げて気合いを込めるレティを見て、ラクトが唇を尖らせる。
「いやぁ、ラクトとエイミーには船の維持を頼まないといけませんからね。任せてくださいよ!」
「ふーん。ま、いいけどさ」
残る候補はLetty、トーカの二人。真っ先に手を挙げるのはLettyである。
「はいはい! 私もレティさんに同行しますよ!」
「私はどちらでも構いませんよ」
「それじゃあ、Lettyにお願いしましょうかね」
ミカゲ、レティ、Lettyと救出メンバーが選出される。選ばれたLettyは飛び跳ねて喜び、早速潜水服と酸素ボンベを装備した。
「それじゃあトーカ。船はよろしく頼みましたよ」
「そちらこそ、レッジさんとシフォンをちゃんと連れて帰ってくださいね」
船に残る者と言葉を交わし、レティたちは次々と水の中へ飛び込んでいく。身軽なミカゲはほとんど水も立たせず、レティも豪快に飛沫を上げながらも軽快に泳ぐ。そして、最後にLettyが意気揚々と。
「おぼっおぼぼっぼべぼべべぼぼばっ!?」
「Letty!?」
バタバタと両手両足でもがきながらも沈んでいくLettyに一同が驚く。青い顔で白目を剥く彼女を、ミカゲが慌てて糸で巻き上げる。
「ラクト!」
「ええい、『霜柱』ッ!」
珊瑚礁から巨大な霜柱が立ち上がり、Lettyを掬い上げる。氷の上で荒く呼吸を繰り返す彼女は、レティとは打って変わって無惨な姿である。
「もしかしてLetty、泳げないんですか?」
「うぅ……。VRならなんとかなると思ったのに……」
甲板に戻り、げっそりとした顔で項垂れるLetty。彼女がかなづちであることを知らなかった面々はあんぐりと口を開く。仮想現実上ではある程度のサポートが付与されるため、例えばレティのような普段は清楚な令嬢であっても曲芸じみた動きで戦える。とはいえ、そこには本人の強いイメージが必要となるため、リアルでとことん泳げないLettyはヴァーチャルでも泳げないようだった。これが〈水泳〉スキルを30レベル程度でも持っていれば話は違ったはずだが、そもそも今まで泳ぐことを避けてきた彼女には国な話である。
「そもそも、ハンマーがめちゃくちゃ重くて沈んじゃうんですが……。レティさんはなんで泳げてるんですか?」
「ええっ? ええっと、ノリと勢いですかねぇ?」
バカみたいにデカい鉄の塊を背負って泳げるわけがないだろうというLettyの主張はもっともだった。しかし、レティは考えたこともなかったと首を捻る。このあたりの自覚のなさも、泳ぎに影響しているのかも知れない。
「とにかく、Lettyはお留守番ね」
「そんなぁ……」
エイミーがLettyの肩に手を乗せる。泳げない彼女を送り出せるはずもなかった。
「それでは、行ってきます」
結局、救出チームはミカゲ、レティ、トーカの三人で決まる。トーカはLettyのハンマーに勝るとも劣らない大太刀を背負いながらも軽々と飛び込みスイスイと泳いで見せる。そんな姿を目の当たりにして、兎の少女は納得がいかないと耳を垂らすのであった。
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Tips
◇酸素ボンベ
潜水時に使用される装備。内部に酸素が詰まっている。これによって水中での活動時間を延長させることができる。標準的なタイプ-ヒューマノイドであれば1本で30分ほど酸素補給が行える。
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