第21章【オフ会】
第875話「オフ会の予兆」
最近、ママがとても忙しそうだ。朝はわたしが起きるよりも早く、多分夜も明けないうちに久川さんの車で出かけてしまうし、帰りも遅い。それどころか。何日か家にも帰らず、気がついたらげっそりした顔でソファに突っ伏していることもあった。すっかり日課になっていたお弁当も、渡すタイミングがなかった。リビングにはカップ麺の空き容器がまた増えてきていた。
まるまる1週間ぶりに話す機会ができたのは、たまたま学校から帰る途中に久川さんの車を見つけることができたからだ。信号の下で止まっている真っ黒な車、ナンバープレートを確認してから手を振ると、後部座席の窓が開いてやつれた顔のママが手を振りかえしてくれた。ドアが少し開いたから、信号が変わらないうちに滑り込む。車内は少しきついお香が焚かれていた。
「ママ、大丈夫?」
「大丈夫よ。とりあえず、今日はひと段落ついたの」
ママはあまり大丈夫じゃなさそうな調子で言う。いつもはパリッと糊の効いているシャツもよれているし、お化粧も目元の隈を隠せていない。それでも、わたしを安心させようとしていることは分かった。
「家に帰ったら着替えを用意して、シャワーくらい浴びようかしら」
ひと段落ついたと言いつつ、まだ忙しい中ではあるらしい。憂鬱な顔のママを見ていると、ハンドルを握っていた久川さんがルームミラー越しにこちらを伺っていた。
信号が切り替わり、滑らかに車が動き出す。けれど、ハンドルが回り、家から遠ざかる道へ進んでいく。ママがギョッとして久川さんを見る。けれど、彼は毅然とした——いつもと同じ仏頂面の——厳しい顔のまま言う。
「秘書部に連絡して業務を見直しました。今日はもうご自宅でお休みください」
「久川!? 何を勝手に——」
「あなたが業務を円滑に遂行できるよう補佐するのが私の役目です。今の状態ではパフォーマンスも落ちています」
「そうは言っても……」
まだ仕事がたくさんあるのに、とママが口の中で呟く。けれど、久川さんの一押しで緊張しっぱなしだった糸が切れたらしい。革張りのシートに身を沈めて、深いため息をつく。
「分かったわよ。——候補地点は七箇所押さえておいたから、選定を進めておいて。清麗院家との折衝はイチジ……花山に一任しましょう」
「承りました。そのように伝達します」
久川さんにいくつか指示を飛ばした後、ママはこちらを向いてちろりと舌を見せた。
「サボっちゃった」
「いいよ。ママ、ずっと忙しそうだったし」
わたしが頷くと、ママもくすりと笑う。久しぶりに、ママの笑顔を見ることができた。
「それで、この車はどこに向かってるの?」
ママが運転席に向かって尋ねる。答えはすぐに現れた。
夕暮れの街中で燦然と輝く大きな看板。ぐるぐると回転するその下には、学校帰りの学生たちの自転車が群がっている。大きなガラス窓の中では、若い男女が楽しそうにテーブルを囲んでいる。
「ママ、薬膳とかの方がいいんじゃない?」
冗談めかして言ってみる。疲労困憊のママには、油分過多のスナックよりも体に優しいあっさりした料理の方が合っているはずだ。けれど、ママは楽しそうに唇を曲げて首を振る。
「そんなの食べても元気出ないわよ。やっぱりこう言う時は——」
テリヤキバーガーのLLセット。ドリンクはコーラ。揚げたてのフライドポテトはサクサクで、塩気のついた指先まで美味しい。カロリーと罪悪感を香ばしいバンズで挟んだハンバーガーに恥も外聞もなく勢いよく齧り付くと、横から飛び出したソースが手を汚す。
ママもジャケットを脱いで、ブラウスの胸元をゆるめて、勢いよく食べている。よっぽどお腹が空いていたのか、ジャンキーなものに飢えていたのか。それとも……。
わたしは久しぶりにママと一緒に食事を摂ることができて、嬉しかった。ママもそうだったらいいな、と思う。
「志穂、制服汚しちゃだめよ」
「ママだってブラウス白じゃん」
「私はいいのよ。どうせこの後クリーニングに出すし」
「ずるいなぁ」
他愛のない会話を挟みつつ、ポテトをつまむ。たったそれだけのことで、ママの表情にみるみる活力が戻ってきた。肌にハリと艶が出てきて、娘の私も羨ましいくらい美人になる。周囲の男子高校生たちがチラチラと見てきて、彼女に叩かれたり抓られたりしているのが少し誇らしかった。
「ママ、お仕事忙しいの?」
ふやけたポテトを摘みながら尋ねる。ママはあまり、仕事について教えてくれない。私が知っているのは、とても忙しい特別な警備会社の社長をしている、ということくらいだ。
店内の喧騒もあってか、ママは頬を緩ませる。氷で薄まったコーラで油を流して、唇を紙ナプキンで拭う。そうして、内緒話でもするかのように、少し声を抑えて教えてくれた。
「近々、清麗院家との合同で大掛かりな仕事をするのよ。人員も設備もこれまで以上に必要になるし、外側だけじゃなくて内側からも守らないといけないし。そもそもスケジュールが突発すぎてメチャクチャだし」
「内側?」
「警護対象がちょっと特殊でね。あんまり詳しいことは言えないけど」
困ったような顔でママが言う。けれど、その顔にはなぜか、少し嬉しそうな表情も混ざっていた。
「ずっと奥に押し込まれてた人だから、個人的には嬉しいのよ」
「個人的に……」
その言い方が少し引っかかった。ママは綺麗に折り畳んだ紙ラップを見て、懐かしそうに目を細める。
もしかして、と少しの予想が胸の内に浮かんだ。けれど、ここで言っていいことなのか分からない。ママはわざわざ言葉を濁しているし、間違っていたら恥ずかしい。
「志穂、ナゲットいる? 今、期間限定の新しいソースがあるんだって?」
「はえっ!? あ、食べる!」
考えに耽っていると、ママが携帯を覗きながら言う。わたしが慌てて頷くと、早速注文がされた。すぐに、わたしたちのテーブルに15ピースのナゲットが入ったボックスが3つ届けられる。ソースは9つもある。
「ちょ、頼みすぎじゃない?」
「あっれぇ? 3セット15ピース頼んだはずだったんだけど」
山盛りのナゲットに、ママが目を丸くする。LLセットを食べたわたしたちは、流石にこの量を食べきれない。苦笑するママに、わたしは思わずため息をつく。そうして、駐車場に止まっている、少し場違いな高級車に目を向けた。
「久川さんにも手伝ってもらう?」
「そうしましょう。あの人なら30ピースくらい食べられるでしょ」
彼も労ってあげないとね、とママが調子のいいことを言う。彼女が早速久川さんを呼ぶと、普段より三本眉間の皺を増やした久川さんが、のそのそとやってきた。
「普通に持ち帰ればいいじゃないですか」
憮然とした顔の久川さんにそう言われて、わたしたちは揃ってあっと口を開けて驚く。
わたしがFPOでレティたちからオフ会の話を聞いたのは、それから数日後のことだった。
†
レッジの誕生日に合わせて、〈白鹿庵〉のメンバーでオフ会を開きたい。
そんなわたしの要望は、思ったよりすんなりと受け入れられた。まずはレティを引き込み、その後で意を決してレッジにも伝えた。
彼は驚いた後、少し考えさせてくれと言ってログアウトした。第5回イベントの終了直後のことだったからウェイドたちがご立腹だったけど、わたしたちは不安しかなかった。
そして、その数時間後。レッジは驚くほどあっさりとそれを了承してくれた。
「ただ、申し訳ないけどオフ会の場所なんかはこちらで指定させてくれないか」
それがレッジの要望だった。わたしは二つ返事で頷いた。必要とあらば勿論こちらで色々セッティングするつもりだったけれど、レッジがやってくれるならそれを断る理由もない。彼が主役になるはずだけど、主役たっての希望ならなおさらだ。
「もろもろ決まったら連絡するよ。ラクトはエイミーたちにも確認取っといてくれ」
そう言われたわたしは俄然張り切った。いくらVRMMOで仲良くなっても、実際にリアルで会うことに抵抗がある人は多い。わたしは一人ずつと話す席を設けて、オフ会の話を切り出した。すると、全員が驚きながらもすんなりと参加を表明してくれた。
「けど、私、地方なのよね」
「私とミカゲもド田舎ですよ」
オフ会となれば地理的な条件も出てくる。しかも、現役学生であるトーカたちは旅費もかなり痛いはずだ。そこを懸念していて、なんならわたしが立替えてあげようかとも考えていたのだけれど、ひょんなことから解決した。
「ウチの門下生のほとんどが突発的な警備依頼で動員がかかったらしくて、みんなで一緒に町に出ることになりました。よく分からないんですけど、政府要人クラスの警護対象が出るとかで」
「トーカの実家ってどんな道場なの……?」
また違う疑念が生まれたものの、トーカとミカゲがやってくる算段はついた。二人は門下生?たちと一緒に専用機で北からやって来るらしい。
「エイミーはどうしようっか」
「割と自由のきく仕事だし、前日くらいからホテル借りてもいいわよ」
「それなら、ウチに来る? 部屋は……うん、部屋は余ってるし」
「いいの? じゃあ甘えちゃおうかしら」
フットワークの軽いエイミーは、そんなこんなで一足早くわたしの部屋に来ることになった。
——なってしまったのだ。
「……どーしよ」
目の前に広がるのは我が家の寝室。万年床には積み上がった衣類と、その上に鎮座するVRヘッドセット。枕元で薄く埃の積もったパソコンが唸り声を上げて、雑誌の山が突如崩れる。
部屋はあるのだ、部屋は。しがない一人暮らしだけれど、それなりのお金は貰っているから、割合良い部屋を借りているから。問題は、延べ2畳程度の
一応、キッチンだけは整理できている。最近は実家の母親とビデオ通話しながら料理の手ほどきを受けているため、
「とにかく、片付けないとだよね」
流石にこの惨状をエイミーに見せるわけにはいかない。軽率に誘ってしまった過去の自分を殴りたくなる。ホテル費用くらい出してあげれば良かったのだ。……でも、わたしだって友達と鍋パとかやりたいし。
いっそ専門の業者に頼もうかとも思ったけれど、他人にこの現場を見られるだけで悶死してしまうだろう。だから、自分の手で片付ける必要がある。
「ええと、とりあえずゴミ袋?」
近所のコンビニで買ってきたゴミ袋を広げ、いらないものを投げ込んでいく。
「うわ、この雑誌懐かし……。こんなのも流行ってたなぁ」
少し掘り返すと、太古の遺物が見つかる。ついつい手を止めて読み返しそうになりつつも、鋼の意志でそれを止める。解きまくった懸賞パズルの雑誌も、歯を食いしばって捨てていく。
「ルービックキューブだ……」
モザイク模様の十二面体が現れる。ついつい動かしそうになるけれど、テーブルの上に載せておく。エイミーが来たときに、余興としてやってみるくらいがちょうど良いはずだ。
「こんな部屋、レッジには見せられないね」
何の気なしに呟いて、自分でぎょっとする。そもそも、オフ会は都内のどこかでやるということしか決まっていないし、わたしの部屋でやるわけじゃない。それなのに、なんてことを考えているんだろう。
わたしは自分で自分を誤魔化すように、次々とゴミ袋を縛っていく。
「ゴミ捨て場が付いてるマンションで良かったよ」
曜日に関係なく捨てられるおかげで、掃除が捗った。ゴミ袋をまとめて、抱えて運ぶ。なかなか重労働だけど、仕方ない。自分の怠慢が招いたものだ。
粗方ゴミ袋に詰めて外に出したら、次は段ボールだ。通販が便利すぎて、段ボールが一部屋占有してしまっている。未開封のものも多いから、カッター片手に開封していく。
「美顔器とか買ってたっけ……?」
我ながら軽率に買いがちだ。ポチった覚えのない商品を取り出して、段ボールを折り畳んでいく。小柄なわたしにとって、少し大きな段ボールはそれだけで強敵だ。いくつか纏めて紐で縛って、背負って運ぶ。
「あら、涼原さん」
「おうぇっ!?」
油断しきっていたわたしを呼ぶ声に飛び上がる。亀の甲羅のように段ボールを背負ったまま振り返ると、隣の部屋のおばさんが驚いた顔で立っていた。
「こ、こんにちは……」
「こんにちはぁ。珍しいわね、涼原さんがこんな時間にいるなんて。それもゴミ捨てしてるのは、初めてじゃない?」
「へへ……」
リアルで人と喋る機会が労働中くらいしかなくて、気持ちの悪い声しか出てこない。おばさんは気にしていない様子で、あらあらと手を振る。そうして、ひょいとわたしの背中から段ボールを持ち上げた。
「小ちゃいのに大変でしょう。私も手伝ってあげるわ」
「そんな、悪い……」
「いいのいいの! 老人は暇なのよ。代わりにおしゃべりに付き合ってちょうだいな」
名前も知らないおばさんはそう言って、先に歩いて行ってしまう。わたしは慌てて別の段ボールの束を抱えて追いかける。
「あなた、いつも朝早くに出かけて夜遅く帰って来るでしょう? お休みの日も出かけてる様子がないし」
「す、すみません」
「いいのいいの。私もダメね、つい詮索しちゃって」
言いながら、おばさんは段ボールの束を軽々と投げる。老練な動きで射出された段ボールは、堂々とゴミ捨て場の頂上に乗る。わたしは自分の持ってきた分を山の麓に立てかけた。
「組合の集まりにも来ないから、心配してたのよ」
「そっ——。すみません」
そんなものがあったことすら知らなかった。慌てて謝ると、おばさんはいいのいいのと手を振る。
「若いし忙しいみたいだし、こういうのは老人に任せてればいいのよ。ああいうのは孤独死しないかお互い見張ってるだけなんだから」
「はは……」
ご老人のブラックジョークは反応に困る。
「いつも静かだから、急に騒がしくなって驚いたのよ」
「すみません。ちょっと部屋を片付けないといけなくなって」
「あらあらあらあら! ちょっと、彼氏でも呼ぶの? ウチ、3人くらいは暮らせるものねぇ」
「そ、そうじゃなくて! その、友達が来るんです」
「あらー、いいじゃない!」
おばさんと一緒にエレベーターに乗り込み、部屋に戻る。まだまだ捨てるべきものは多い。
「せっかくだし、お邪魔じゃなければお掃除手伝うわよ? きっといろんな汚れがあるでしょ。カビ取りとか得意なの、私」
「ええっ?」
たしかに、雑誌の下に何かわからない黒いシミとか、一生取れない汚れもある。物を退けただけでは掃除完了とは言えないのは事実だった。だからこそ、専門業者を検討していたのだ。
けれど、おばさんは部屋に入って見渡すなり、自分の部屋へ取って返して、マスクと三角巾とエプロンとゴム手袋という重武装で戻ってきた。
「各種洗剤、雑巾、歯ブラシ。一通り持ってきたわ」
「すご……」
「若い頃は特殊清掃でブイブイ言わしてたのよ」
おばさんはそう言ってマスクの下でニヤリと笑う。とても頼もしかった。
もはや、彼女に頼らず自力で掃除を続けるという選択肢はなかった。おばさんの指示で貴重品だけ掘り出して一箇所にまとめ、その間に彼女はお風呂場の掃除をしてくれた。わたしが粗方の分類を終えてお風呂場を覗くと、見違えるほど明るくなった部屋でおばさんが立っていた。
「どう? すごいでしょう」
「本当にすごいですね……」
「たとえここで殺人が起きてても、全ての証拠を隠滅して見せるわ」
「それはちょっと分かんないですけど」
とにかく、おばさんの実力は身をもって実感した。その頃には、彼女の性格も分かってきて、信頼もできていた。これまでずっと、壁一枚隔てただけの隣同士で暮らしていたのに、近くにこんなにも面白い人がいたとは思わなかった。
おばちゃんのどこか適当な話に相槌を打ちながらだと、作業の手も止まらない。わたしは、自分で驚くほどスムーズに掃除を続けていた。
「あら、涼原さん。料理するの?」
キッチンを見たおばさんが意外そうな声で言う。わたしも意外だろうなと思いつつ頷く。
「最近ちょっと自炊しようと思ってて。実家の母から色々習ってるんです。基本的に和食というか、名も無き料理なんですけど」
「あらー、良いじゃない良いじゃない! それなら、毎月やってる料理教室に来てみない?」
おばさんがそう言って一度自分の部屋に戻る。再びやってきた彼女は、手に一枚のチラシを持っていた。
「ここの組合でやってるのよ。ほら、一階の共用部にキッチンスペースあるでしょ。あそこで、毎月イタリアンとか作ってるの。三階の藤原さんが、昔イタリアで修行して、都内の大きいホテルでチーフやっててね」
「そ、そうだったんですか!?」
「他にも色々あるわよ。和食もあるし、中華もあるし。あ、手芸教室とかサンバとかも」
「し、知らなかった……」
一階と二階に色々と施設があるのは知っていたけれど、入ったことはない。そこで何が行われているかなんて、考えたこともなかった。
愕然とするわたしに、おばさんが笑う。
「気になったら来てみてね。私、大体の教室に参加してるから。見学も歓迎よ」
「あ、ありがとうございます」
茶目っ気たっぷりにウインクしてみせるおばさんに、お礼を言う。仕事とFPOの合間に、たまにはそういうのに顔を出してみても良いかもしれない。
「あ、あの……」
「何かしら?」
「やっぱり、お、お嫁さんになるには裁縫とかもできた方がいいですかね?」
「あらーーーっ!」
パンッ! と背中を叩かれる。おばさんの嬉しそうな声に、わたしは恥ずかしくなって俯いてしまった。
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