第863話「自分との戦い」

 気がつくと、どこまでも広がる澄んだ世界に立っていた。足元は鏡のような水面で、足を動かすとかすかな波紋が広がる。空は突き抜けるような青で、穏やかな雲が漂っている。


「ここが特殊サンドボックス領域か」


 周りを見渡しながら、体の状態を確認する。ウィルスプログラムの侵蝕を抑え、それを撃退するために作られた仮想空間。仮想現実上で、もう一段深い仮想空間というのもなかなか面白いものだ。


「レティたちの話じゃあ、ここで自分と戦うってことらしいが——」

『どうやら、そう簡単な話でもなさそうですね』


 俺の言葉尻を拾って繋げる声があった。

 振り返ると、誰もいなかったはずの場所に、白髪赤目の少女が立っていた。機体のタイプはフェアリーで、濃紺のワンピースを着ている。つまるところ、ウェイドの色違いだ。


「君がコシュア=エグデルウォンか?」

『おおよそ、その見解で正しいでしょう』


 統合管理室にいた頃とは随分と趣を異にした姿で、彼女は答える。白い前髪は長く、左目を隠しているが、右目が曖昧に笑っている。


「その姿は?」

『おそらくアンチウィルスプログラムの影響でしょう。シード02--スサノオのデータベース内にあった機体モデルが適応されました』

「ウェイドが作ったやつだな。多分、そのうち現実でもおんなじ姿になれるよ」


 今の彼女は、実際には大きな虹色の水晶玉だ。それを海底にある〈白き深淵の神殿〉へと持ち込まなければ、俺たちの仕事は終わらない。コシュア=エグデルウォンは楽しみですと口を曲げる。


「しかし、最後の問題はちょっと意地悪だったんじゃないか? 円周率を全て書けってのは」

『私に言わないでください。汚染術式を作ったのは別の者ですから』


 流石に、問題の答えは解答欄に書き切れる分量にしてほしかった。

 ともあれ、目下のところ気になるのは、どうして俺のサンドボックスに彼女がいるのか。だいたいの検討はついているが、一応聞いておく。


「君は俺の味方か? 敵か?」

『味方ですよ。私も現在、貴方の体に結合してしまったことで汚染術式の侵蝕を受けていますから』


 コシュア=エグデルウォンはノータイムで答える。こちらが納得できる理由付きだ。


「となると、やっぱり俺は俺の予想通りことを運んだみたいだな」

『ええ。〈大鷲の騎士団〉の精鋭に自身の八尺瓊勾玉を破壊させ、そこを“空席”にする。そこへ無理矢理“私”を押し込み、取り込んだ』

「結果、俺は神核実体の生産する潤沢なエネルギーを思う存分使えるようになった」

『そういうことです。外では貴方の仲間が懸命に策を練っているところでしょう』


 ほとんど壊滅していた第一拠点直上ではなく、潜水部隊が待機している海岸で力尽きたのはまだ幸いだった。水辺ということで“俺”がどのように動くのかある程度予測しやすかったのも大きい。

 今のところ、現実では俺の予測通り、おおむね順調に戦闘が始まっているらしい。


「しかし、君は随分とこちらの事情に詳しいな。第零期と第一期じゃあ勝手も違うだろうに」

『管理者ウェイドが標準的な知識パッケージをこのモデルデータに仕込んでおいてくれました。おかげで、貴方がた機械人形の基本構造や現在の開拓団の指揮系統など、おおよそ管理者レベルの上級NPCが知るべき情報は全て把握しています』

「うーん、さすがウェイドだな。できる管理者だ」


 コシュア=エグデルウォンがある程度情報を手に入れたことで、話もしやすくなった。今回のMVPはウェイドかもしれないな。目が覚めたら菓子折りでも持っていかないと。


「できれば、もっと色々話したいんだがな。ドワーフたちとの関係とか、汚染術式の来歴とか」

『申し訳ありません。今の私にはお答えすることはできないようです』


 槍を構え、ナイフを握る。コシュア=エグデルウォンを背中に隠し、前を睨む。

 水面が波打ち、その下から透明な体が現れる。バチバチとノイズを走らせながら、色が定まっていく。黒髪、黒目、細い四肢。まごう事なき俺自身。そして、その傍らに立つ小柄な少女。


「管理者までコピーするのか……」

『この世界では調査開拓員も管理者も、ただのデータの集合ですからね』


 偽レッジが武器を構える。平和主義な本人に対して、向こうは随分と好戦的だ。その血の気の多い様子に、若い頃の自分を重ねてしまい、やれやれと肩を竦める。

 その時、おもむろに向こうの偽エグデルウォンが両手を広げた。ちょうど万歳をするような、一見すると可愛らしい動きだが——。


「っ!」

『ひょわっ!?』


 エグデルウォンを抱えながら後方へ飛び退く。次の瞬間、俺たちが立っていた足元から黒蛇が飛び出し、鋭利な牙の並んだ顎でそこを飲み込んだ。そのままの勢いで天へと昇り、消えていく。


「そっちも随分好戦的だな!」

『わっ、私に言わないでください!』


 その後も偽エグデルウォンが腕を振るたび、指揮に合わせて音楽が奏でられるように次々と黒蛇が飛び出してくる。


「こっちもできるか?」

『ぬぅ、やってやりますよ!』


 黒蛇の飛び交う中を飛びながら、小脇に抱えたエグデルウォンが自棄気味に叫ぶ。そうして、唸り声を上げて腕を振った。


『やぁっ!』


 その瞬間、偽者コンビの足元から純白の蛇が現れた。赤い瞳を輝かせ、その長い身体で二人を締め付けようとする。しかし、寸前で偽レッジが偽エグデルウォンを抱え、その包囲から脱した。


「やればできるじゃないか」

砂場サンドボックスとはよく言ったものですね。環境プロパティをハックして新規オブジェクトを生成し放題ですよ』

「よく分からんが、バックアップは任せたぞ」

『お任せあれ!』


 コシュア=エグデルウォンが元気に胸を叩く。黒い蛇がうねりながらこちらへ迫る。


「風牙流、第一技、〈群狼〉ッ!」


 それを真正面から受け止める。勢いよく飛び込んできた黒蛇の眉間を風の槍で貫く。奴は額から赤黒い血を噴き出し、もんどり打って倒れる。その隙を逃さず肉薄し、喉元をナイフで掻き切る。

 しかし、蛇の生死を確認する前にその体はノイズに包まれて消え、また新たな無傷の黒蛇が現れる。


「蛇を殺すのは無駄か」

『所詮は向こうの私がコピペしている二次データです。いくらでも蘇りますよ』

「了解。なら直接本丸を叩くべきだな」


 いきなり本番のタッグ戦だが、エグデルウォンも聡明だ。打てば響くように意思疎通がスムーズだった。やはり彼女の賢さは第零期先行調査開拓員の中でも随一だったのだろう。


『あ、あの……。ここは貴方の機体内部にある仮想空間なので、貴方の思考はこちらにも共有されていますから』

「おう……。そういうことだったのか。——なら一々言わなくても連携取れるな」

『ポジティブですねぇ』


 衝撃の事実に驚きながら跳ぶ。黒蛇が遅れて突っ込んできて、その上から白蛇が覆いかぶさる。ちょうどいい位置に現れた白蛇の頭を蹴って、偽者たちの所へ向かう。


『ひええっ』

「どうした?」


 黒蛇の首を落とし、群れを掻き分けながら奥へ進む。ぶんぶんと槍を振り回していると、エグデルウォンが小さく悲鳴を上げる。振り向いて様子を確認すると、彼女はこちらに不気味なものでも見るような目を向けてきた。


『貴方、本当に頭一つだけですか? 思考が複雑すぎます!』

「ええ……。普通に敵の動きを予測しながら戦ってるだけなんだが」

『0.3秒前まで24通りの未来予測は異常です!』

「そんなこと言われてもなぁ」


 向こうも俺たちと全く同じ戦力なのだ。だからある程度の動きはお互い分かるとしても、選択肢は無数に存在する。常にある程度の可能性を考えながら行動しなければ、すぐに足元を掬われるだろう。


『少なくとも、七段階のフェイントを混ぜた攻撃なんてそうそう飛んでこないはずですしぴゃあっ!?』

「言ってると飛んでくるからな。気をつけろよ」


 向こうの俺が投げてきた六本の植物槍を捌き、本命である背後からの奇襲を蹴り飛ばして対応する。エグデルウォンは涙目だったが、これくらいは予想しなければならないと身を持って分かってくれたらしい。


「そうだ、エグデルウォン」

『なんですか?』


 迫る“昊喰らう紅蓮の翼花”の爆風を“咽び泣く黒涙の鈴花”で相殺しながら、背中にしがみ付いているエグデルウォンに声をかける。彼女はあまり余裕のなさそうな声をこちらに返してくる。俺は彼女の思考が分からないが、なんとなく予測はできた。


「蛇をコピーする要領で、俺たちをコピーできるか?」

『…………はぁ?』


 頓狂な声が耳元でする。ちらりと振り返ると、コシュア=エグデルウォンは右目を剥いていた。


「いやぁ、俺一人だとどうしても手数が足りなくてな。そもそも、俺は攻撃より防御の方が得意なんだ」

『言っていることの内容は分かりますが、意味は分かりません』

「俺が七人いたら、確実に俺を倒せるってことだよ」

『——本当にただの調査開拓員なんですか?』


 まだ付き合いも浅いというのに、エグデルウォンから疑念の目を向けられる。俺はただ、一番確実そうな方法を提案しただけなのに。

 向こうが“剛雷轟く霹靂王花”を投げてきたので、すかさず“千刃草”で切り刻む。ふん、原始原生生物だからといってあらゆる方面に無敵とは限らないのだ。弱点を突けば、現生の原生生物でも十分対応可能である。


「それでどうだ、できそうか?」

『——無理です。今もサンドボックスのハッキングを進めていますが、第零期の基本プラットフォームとは異なるようで、そこの解析が難航しています』


 少し考えた後、彼女ははっきりと断言する。当然といえば当然だろう、むしろ今のようにハッキングできている時点で驚異的だ。なにせ、こちらの環境は彼女が眠っている間にもT-1たちが絶え間なく改修を続けてきたものなのだから。


「ある程度、現行の基盤情報があればいけるか?」

『ま、まあ、もしそんなものがあるのなら——』

「じゃあ、今から伝えるよ」

『はっ!?』


 再びエグデルウォンが甲高い声を出す。


「昔ちょっと、自分の体がどうなってるか調べてな。その時は機械眼の仕様を中心に調べてたんだが……」


 かつて、第一回〈特殊開拓指令;白神獣の巡礼〉の際に行ったプロビデンス作戦。そこで必要に迫られ、俺たち機械人形の内部を少し調べていた。ハードウェア的な情報がほとんどだが、それに付随する範囲でソフトウェア方面にも少し手を伸ばしている。その時の知識は、まだ頭の中にある。


「最大で60種同時に考えられるが、どれくらい読み取れる?」

『平然とヤバいこと言ってますね……。——45、いや52で』

「了解。一言一句聞き漏らすなよ」


 黒蛇の群れが、動きの鈍った俺たちに迫る。


「風牙流、五の技、『飆』ッ!」


 それら全てを吹き飛ばしながら、俺は渦巻く思考の流れを解き放った。


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Tips

◇ “咽び泣く黒涙の鈴花”

 現在は滅びた原始原生生物。第零期先行調査開拓団によって蒔かれた“生命の種”から生まれた初期の原生生物。

 内部に大気を溜め込む性質のある、気密性と剛性の高い花をつける。花の内部は最低でも100気圧を超える。そのため、万が一花弁の気密性が損なわれた場合、周囲に甚大な風圧被害を齎す。

 花の内部に存在する黒色の雄蕊は硬質で、極度に緊張した花弁内部と接触することで甲高い鈴のような音を鳴らす。

 一時期は地上のほぼ全てを覆い尽くし、最大の繁栄種として栄華を誇っていた。しかし、気候変動や他種族の台頭によって絶滅する。


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