バレンタイン記念SS

 護衛の竹村から主人が帰路に就いたと連絡を受け、杏奈は他の使用人たちを集めて玄関で出迎えの準備を整える。

 主人のスケジュールは杏奈もある程度把握していたが、今日は少し遅い時間だった。彼女も若い年頃の少女だから、どこかに立ち寄っていたのかもしれない。

 使用人たちが並び、しばらくして扉が開く。一斉に頭を下げる杏奈たち使用人の前に、黒服の護衛たちに守られた主人が現れた。


「ただいま、杏奈。皆もありがとうございます」

「お帰りなさいませ、お嬢様」


 いつものように労いの言葉が掛けられ、杏奈は更に深く頭を下げる。使用人の1人にも細かく気を配ることができるのが、主人の良い所だ。


「……お、お嬢様。その荷物はいったい?」


 顔を上げた杏奈は、体格の良い屈強な黒服たちが近所の庶民的なスーパーのレジ袋を提げていることに気がつく。嫌な予感が脳裏を過る。そんな杏奈に対し、黒髪の令嬢は和やかな表情で口を開いた。


「今日はバレンタインデーでしょう? 私も何か作ってみたくなりまして」


 帰りが遅かったのはそういうことか。

 杏奈は事情を察して少し気が遠くなる。表情が変わらないように気をつけながら、護衛たちからずっしりと重いレジ袋を受け取った。


「また、ずいぶんと沢山……」

「何があれば良いのか分からなくって。とりあえず竹村たちにも手伝って貰って、色々と買ってきました。車に他の荷物も積んであるので、持ってきて貰えますか」

「か、畏まりました……」


 普段はとても優しく素直な女性だが、最近は突飛な行動に出て周囲を驚かせることが多い。そんなところが、この主人の少し困った所だ。

 杏奈は自室へ向かう主人に従い、部屋着に着替えた彼女と共にキッチンへ向かう。広い厨房では、料理長の佐山以下大勢の料理人たちが、次々と運び込まれてくる段ボールの山に右往左往していた。


「お、お嬢様!? この荷物はいったい!」


 佐山が目を白黒させながらやってくる。彼に対しても、杏奈の主人は先ほどと同じことを答えた。


「今日はバレンタインデーでしょう? ですから、私もチョコレートを作ってみようと思ったの」

「そ、それは……。旦那様が今日のために有名な洋菓子店の者を大勢呼んでいるのですが」


 佐山の困惑した言葉に、杏奈も頷く。

 今日この日のために清麗院家の当主が世界中の有名店からチョコレート職人を呼んでいた。彼らが作る珠玉の品々が1人の少女のために供されるのだ。

 当然、それを彼女ひとりが食べられるはずもない。本館の隣にある大ホールで大規模な品評会として催され、来賓も多く呼ばれているはずだ。ついでに終了後ではあるが、使用人たちにもお零れがあるのが例年のことである。


「もちろん、そちらも楽しませて頂きます。でも開演まではまだ時間があるでしょう。その間に私も作れないかしら?」


 可愛らしく首を傾げて尋ねるお嬢様に、佐山たちも否とは言えない。

 幸い、パティシエたちが腕を振るっているのは大ホールにある厨房だ。本館の厨房は余裕がある。


「しかし、我々は料理が専門です。凝った菓子は教えられませんが……」

「大丈夫ですよ。私も最初から難しいものは作れると思っていませんから。それにほら、レシピもいくつか買いましたし」


 そう言って、彼女は次々と搬入されてくる段ボールの山を指さす。杏奈はその一角に書店のロゴが印字されたものがあるのを見つけた。使用人たちがそれを開封すると、中からミチミチに詰められた様々な洋菓子のレシピ本が大量に現れた。


「お、お嬢様!? いったいなにを作るつもりなんですか」

「さあ、何が作れるのか分からなかったので。この中から私でも作れそうなものを選んで貰えませんか?」

「はあ……」


 主人の言葉に佐山は再び唖然とする。

 彼女は普段こそあまり派手な生活を好まず、庶民的な感覚を持ち合わせているようだが、たまに爆発したように豪快なことをする。


「あの、料理長」


 その時、段ボールの開封作業をしていた料理人が佐山を呼ぶ。


「カカオの実が50kgほどあるようです」

「ええ……」


 佐山が振り返れば、段ボールにカカオの大きな実がみっしりと詰め込まれている。むしろどこで売っていたのだと彼は不思議でならなかった。


「あれ? チョコレートはカカオから作るのでは?」

「まさか実から作るつもりだったので?」


 きょとんとする少女に、佐山はくらりと立ち眩む。

 少女の隣に控える杏奈は、彼に向かって必死に謝罪の念を送った。


「……とりあえず、製菓用チョコレートを溶かして加工してみるところから始めましょう」

「分かりました。あ、道具も一通り買ってきましたよ」


 品評会までに間に合うだろうか。そんな不安を抱きつつ、佐山はひとまず動き出す。直後、金物屋がそのまま引っ越してきたのかと思うほど大量の調理器具が届けられ、彼は小さく悲鳴を上げた。


「ではお嬢様、まずはチョコを溶かしましょう」

「分かりました。えいっ」

「チョコは湯煎と言って――お嬢様っ!?」


 火柱が立ち上がり、厨房の天井が焦げる。

 チョコの香りがたちまち部屋中に広がった。


「なになに、こっちでもチョコレート作ってるの?」

「お嬢様がチョコ作りに挑戦なさってるんですって」


 その匂いを嗅ぎつけて、手の空いた使用人たちがやってくる。元より使用人というのは噂好きが多い。すぐに人が人を呼び、厨房の扉の外には多くの使用人が詰め掛けた。


「チョコレートには洋酒を入れるという話を聞きました。試してみますね」

「お嬢様!?」


 高級なヴィンテージワインが惜しげも無く投入され、酒好きな使用人たちが悲鳴を上げる。


「味噌を入れると良いという話も聞きました。えいっ」

「お、お嬢様!? 困りますお嬢様!」

「それはカレーの隠し味では!」


 以前、彼女が厨房でカレーを作ったという話は、すでに他の使用人たちも知るところだ。独特なセンスを持ったお嬢様が次々と生産した個性的なカレーは半ば伝説と化している。


「あー! お嬢様、いけませんお嬢様!」

「なんでハンマーの扱いだけ妙に上手いんですかお嬢様!」

「お嬢様! お嬢様!?」


 次々と使用人たちの悲鳴が上がるなか、それでも製菓の工程は進んでいく。佐山たち料理人の強力なアシストを受け、少女はなんとかそれらしいものを作り上げた。


「こ、これが生チョコレートというものですか。こうやって作るのですね」


 しっとりと柔らかい、ココアパウダーを塗したチョコ菓子を見て、少女は瞳を輝かせる。

 厨房には粉が舞い、どこかで砂糖の焦げた匂いがするが、なんとかそれらしいものが完成した。


「おめでとうございます、お嬢様」

「杏奈もありがとう。手伝わせてしまってごめんなさいね」

「いえ、更に被害が拡大するよりはマシなので」


 頭から砂糖を浴びたような風貌の杏奈は疲れた声で答える。周囲の料理人たちは、チョコが完成したことよりもようやく嵐が収まったことに涙していた。


「杏奈、口を開けて」

「はい? むぐっ!?」


 油断していた杏奈の口に、少女の細い指が滑り込む。目を丸くした杏奈は、口内で甘く溶けるものを感じた。

 彼女の主人は濡れた指先を拭きながら、いたずらが成功した子供のように無邪気に笑う。


「どうですか? 私からのバレンタインチョコレートです」

「と……とっても、甘いです」


 呆然とし、頬を赤らめながら杏奈はなんとか答える。

 不意打ちにも程があるだろう。これだから、この主人は――。


「ちょ、押さないで。ああ、ああっ!」

「うわあああっ!?」


 杏奈がふっと笑いかけたその時、厨房の扉が大きな音を立てて開く。外から雪崩れ込んできたのは、耳を押し当てていた大勢の使用人たちだ。


「あ、あなた達、何をしているの!」

「申し訳ありません!」


 杏奈が驚き叱責すると、使用人たちは慌てて謝罪する。よりにもよってお嬢様の目の前で、このような見苦しいことをするとは。杏奈は頭が痛くなる。


「ふふふっ」


 杏奈が憂鬱に沈んでいると、彼女の背後で少女が笑った。彼女は欠片も気にした様子はなく、むしろ楽しそうに口元を隠して肩を震わせている。


「お、お嬢様?」

「せっかくですし、皆さんのぶんも作りましょう。他にも色々作りたいですし、材料もまだまだありますよね」

「それは……。そうですね、お手伝いします」


 主人の寛大な心と、優しい心意気に、杏奈は改めて打ち震える。こんなお嬢様だからこそ、杏奈はこうして付き従っているのだ。


「そういうわけなので、佐山たちもよろしくお願いします」

「あっはい」


 杏奈が振り返って佐山たちに声を掛ける。

 再び嵐がやってくることに気がついた佐山以下料理人たちは、遠い目をして作業を始めたのだった。


_/_/_/_/_/


「バレンタインかぁ……」


 ピンク色に包まれる町を見て、わたしは初めて今日がその日であることに気がついた。

 洋菓子店には長蛇の列ができていて、コンビニには期間限定のチョコ菓子がいくつも並んでいる。馴染みのスーパーすら、チョコ菓子や製菓用品をずらりと並べていた。


「今から準備しても遅いんじゃないの?」


 思わずそんな言葉が出たのは、私がこの日とはとんと縁が無いからだろうか。

 最近は自炊の習慣もついてきて、レパートリーも着実に増やせている。とはいえお菓子を作るとなるとまた別の道具も必要だろうし、そもそも料理とは勝手が違うだろう。

 会社で義理チョコを大量に準備して配っていた時期もあったけど、あれもここ数年はやっていない。みんなでお金を出し合って安いチョコを沢山買うより、それぞれが好きにした方がいいと、上司からお達しが出たからだ。

 そして、現実には渡す相手もいない。


「いやあの、仮想現実にはいるとか、そういう訳じゃないんだけど。……FPOはバレンタインイベとかやってないんだよねぇ」


 誰に言い訳をしているのか。私は賑やかな町並みを眺めながら歩く。

 FPOは世界感を大事にするためか、そんな製菓業界の陰謀による浮かれたイベントなど開催していない。一部の料理系バンドがユーザーイベントは開いているとは思うけど。


「そもそも、あっちでチョコ作れないしね。スキルないし。作ろうと思ったらレッジと一緒じゃないとダメだし」


 何がダメなのか。それを明らかにはしない。


「プレゼントはわたし、なんて言ったりして」


 リボンを付けて、大きなプレゼント箱に入って。ネヴァあたりに頼めば、ノリノリで用意してくれそうだ。でもそんなの死んでもできない。恥ずかしすぎるし、普段のクールなイメージが崩れてしまう。


「うー!」


 ダメだ、町のピンク色に毒されて、頭までピンクになってしまう。

 私はもわもわした思考を振り払い、早足でスーパーに駆け込んだ。今日は作り置きのおかずがあるから、食後のビールとおつまみだけ買うつもりだ。


「……。まあ、たまにはね」


 いつものビールに手を伸ばし掛けて、やめる。

 私は空のカゴを持ったまま、少し売り場を移動した。


「うわ、スーパーでこんな高そうなの売ってるんだ」


 特設のコーナーに積み上げられた綺麗な化粧箱。どれもリボンが付けられて可愛らしい。中には私も知っている有名なパティスリーや、デパ地下の高級なものも並んでいた。

 私はしばらく全体を見渡して、一口サイズのチョコが六つ入ったものをカゴに入れる。


「これくらいでいいよね。あんまり食べ過ぎると肌も荒れるし」


 そんなことを言いつつ、売り場から離れる。

 チョコにビールは少し似合わない。そう考えて、私はワインの並ぶコーナーへと足を踏み入れた。


「ワインなんて何にも分かんないけど、あんまり安いのは美味しくないんだよね」


 売り場をざっと見て、適当にそれっぽい奴を手に取る。

 塩っ気も欲しくなるかと思って、クラッカーとポテトチップスもカゴに入れると、かなり量が多くなってしまった。


「……まあ、今日中に食べないといけないわけじゃないし」


 そんな言い訳をしつつ、私は商品をレジに通す。エコバッグに詰め込むと、少し窮屈になってしまった。


「バレンタインか……。浮かれてるなぁ」


 夜の町を歩きつつ、キラキラと眩しいネオンを眺める。足取りは少し軽くなっていた。


_/_/_/_/_/


「ええっ!? 先輩、チョコ食べないんですか?」


 ジムの営業時間が終わり、従業員だけのトレーニング中に、隣で一緒にランニングマシンで走っていた飯田さんが突然大きな声を上げた。

 切っ掛けは、今日がバレンタインデーだったという話から。うちのジムでも会員に配るため、カウンターに籠が置いてある。


「チョコって砂糖と油の塊じゃない」

「最近栄養学やってるからって……。たまにはいいじゃないですかぁ」


 眉を顰める私に対し、飯田さんは唇を尖らせる。

 それはたしかに、私も人並みには甘い物が好きだ。けれど、そのあとのことを考えれば積極的に食べたいとまでは思わない。


「ていうか、件の彼氏さんには作らないんですか?」

「かっ! 彼氏なんていないってば!」

「ああ、まだオトモダチでしたね。そういえば」


 ニヤニヤと笑みを浮かべ生暖かい視線を向けてくる後輩に、思わずランニングマシンの速度を上げてやろうかという気持ちが湧いてくる。流石に、ジムのトレーナーがやっていいことじゃないから自重したけど。

 この後輩は何を勘違いしているのか、私に気になる人ができたと思っている。別に、レッジはそういうのじゃない。


「そういう飯田さんは何かあげるの?」


 飯田さんは現在、彼氏と同棲中だ。常日頃から耳にたこができるくらい惚気話を聞かされているから、仲は良好なのだろう。

 実際、彼女は当然とでも言うように頷いた。


「今年もしっかり作りましたよ。まあ、毎年のことなんで、そろそろレパートリーが品切れで大変ですけど」

「へぇ。何を作ったの?」

「ルビーチョコのトリュフです。中はホワイトチョコレートなんですよ」


 飯田さんはマシンから降りて、携帯の画像を見せてくれる。ころんとした可愛らしい、一口サイズのチョコレートだ。ピンク色が綺麗で、割ると白いチョコとの二層構造になっている。

 お店で売っていても違和感がないくらい、とっても美味しそうなチョコレートだ。前々から思ってたけれど、飯田さんは案外女子力が高い。


「へぇ。凝ってるわねぇ」

「溶かして鋳固めるだけですよ。簡単簡単」

「鋳固めるって……」


 まるで鍛冶でもしているかのような言い方に、思わず苦笑してしまう。けどまあ、溶かして形を整えるだけでも、思いは伝わるのかも知れない。


「それよりも先輩、ほんとにチョコ食べないんですか?」

「そのつもりだけど。今日はずいぶんしつこいわね。何かあるの?」


 普段は何か誘ってきても断ればあっさり諦める飯田さんが、今日は妙に食い下がってくる。そこに違和感を覚えて問い詰めると、彼女は可愛らしく笑って頷いた。


 トレーニングを終え、汗を流して着替える。ひとけのなくなったジムの施錠の前に、私は自販機コーナーに向かった。


「おまたせ」

「いえいえ!」


 先に自分の担当場所を片付け終えていた飯田さんが椅子から立ち上がる。もっと気楽にしてくれていいんだけど、先輩と後輩関係性がまだ抜けきっていないみたいだ。


「すみません、先輩」

「別に良いわよ。気にしなくても」


 そう言って、私は自販機でコーヒーを淹れる。ジムの中にあるこの自販機は、会員や職員のため無料で使えるようになっている。ジムの営業時間は終わったけど、福利厚生の一環ということでいいだろう。


「飯田さん、カフェオレ?」

「あ、はい! ありがとうございます」


 後輩のぶんも淹れて、二つの紙コップを持って行く。

 テーブルの上には、小綺麗な包装紙に包まれた平たい箱が置かれていた。


「これが例のチョコ?」

「はい……」


 後輩は神妙な顔で頷く。そうして、微かに震える手でゆっくりと丁寧に包みを剥がしていった。


「あ、開けちゃった……」

「これが一万円もするのねぇ」


 それは飯田さんが奮発して買った高級なチョコレートの詰め合わせだった。1人で食べる勇気がでないからと言って、私を誘ってくれたのだ。


「うわーん! 綺麗だよぉ。食べたくないよぉ」


 綺麗に並んだ小粒のチョコレートたちを見て、飯田さんが悲鳴なのか歓声なのか分からない声を上げる。


「そんなに言うなら、全部引き取ろうか?」

「ダメです! 私が最初です!」

「はいはい」


 すっと手を伸ばせば、彼女は慌てて箱ごと引き寄せる。最初の一粒は自分で選びたいみたいだった。


「うー、どれにしよう。どれも美味しそうだなぁ」

「チョコなんてどれも同じじゃない?」

「そんなことないですよ!」


 飯田さんはぷんぷんと怒るけれど、私にはいまいち分からない。カカオと砂糖とミルクの配合率が違うくらいじゃないのか。


「送る人を想って作ったチョコには、愛が籠もってるんですよ」

「これ市販品よね?」

「こっちには渋沢が宿っています」

「それは逆に食べづらくない?」


 その後も飯田さんは色々と言いながら、ようやく一つ摘まみ取る。ぎゅっと目を瞑って、一息に口に運ぶ。


「……ふぅ」


 私はすっかりぬるくなったコーヒーを飲みつつ、彼女の反応を窺う。


「あまーーーい!」


 念願の高級チョコを食べた飯田さんの第一声は至極当たり前な言葉だった。


「めちゃくちゃ美味しいですよ、先輩! ほら、食べて下さい」

「ありがと、じゃあ頂くわ」


 鼻息を荒くして箱を押しつけてくる飯田さんに笑いながら、遠慮なく一つ貰う。可愛らしいハート型のチョコレートだ。

 口に入れ、舌の上で溶かしていく。すると、パキッと割れて中から洋酒がとろりと流れ出してきた。口の中が途端に良い香りでいっぱいになる。


「美味しいわね」


 思わず、そんな言葉が零れた。


「でしょでしょ! 美味しいですよね。流石渋沢様!」

「それはあんまり言わなくて良いから」


 夜のジム。施錠も終わり、2人だけしかいない休憩室で、誰にも邪魔されずチョコを摘まむ。

 たまには甘い物もいいかもしれない。


「明日から、トレーニングきつくするわね」

「ええええっ!?」


 ただし、余分な油分と糖分は許されない。


_/_/_/_/_/


 うちの道場は毎年、バレンタインがやってくる。ただでさえ常日頃から稽古に明け暮れて、甘い物が慢性的に枯渇している男たちのために、私とお母さんがチョコを配るのだ。

 ちなみに、お母さんが製造係で私はラッピングしか許して貰えていない。


「はい、一列に並んでね。私に勝った人から順にお母さんからチョコ受け取って」

「お嬢!? 今年、こんなシステムなんですか?」


 道場の真ん中でそう宣言すると、稽古終わりの門下生たちが一斉にざわつく。


「実質的にバレンタイン中止のお知らせじゃないか!」

「糖分が恋しいよー。女将さんの愛が欲しいよー」

「バレンタインは基本的人権に含まれるはずだ!」


 好き勝手なことを言う門下生に、私の寛大な心も限界を迎える。軽く足を浮かせて勢いよく床を叩くと、存外大きな音がして門下生たちが水を打ったように静まった。


「去年、男共がチョコに殺到してお母さんを困らせたからでしょう。そんなにチョコが欲しいなら、実力で奪い取りなさい」


 前回のバレンタインは悲惨だった。

 甘味に餓えた男共が、我先にと争ってお母さんが用意していたチョコに殺到したのだ。結果、食べられずに床に転がったものも多く、お母さんが薙刀を振り回す事態に発展した。それを収めるために、私と父さんがどれほど手を焼いたことか……。


「そういえば坊ちゃんはどうした?」

「真ちゃんのところだろ」

「いいよなぁ、モテる若者は」


 彼らの言うとおり、弟は真ちゃんに呼び出されて龍々亭に向かっている。あの朴念仁は何も気付かず勉強会という建前を信じているみたいだけれど。


「なんで俺たちは命を賭して勝ち取らにゃならんのだ?」

「女性からのチョコはそれくらい価値があるんだよ」

「にしても難易度高すぎるだろ……」


 ブツブツと言う男たちに、だんだんとこめかみが痙攣してくる。私は大きく息を吐いて、彼らに向かって口を開いた。


「安心しなさい。私は片手で戦うわ」

「核ミサイルに竹槍で挑めって言われてもなぁ……」

「全力で行かせてもらいましょうか」

「片手でお願いしますっ!」


 素直な門下生は好きですよっと。


「まあ、そうね。チョコを行儀良く並んで受け取れるなら、何人で掛かってきてもいいわよ」

「そ、それならまだなんとか……」

「よし、やるぞ!」


 私が譲歩してあげると、男共は一気にやる気を出す。そこまでしてチョコが欲しいかと思わないでもないけど、まあいいだろう。やるからには、全力で行く。


「うおおおおおおっ!」


 熊のような男が雄叫びを上げて駆けてくる。その迫力に紛れて、小柄な奴が回り込んでくる。戦略としてはまあありかもしれないけれど……。


「気配が消えてないわよ」

「ぐわあああっ!?」


 小柄な門下生すらブラフにして、忍び寄ってきた隠密部隊の男を床に叩き付ける。次いで小さいのを投げ飛ばし、熊を突き飛ばす。騒ぎに紛れてやってきた後続も、次々と退けていく。


「いやーーー!」

「ぐわーーー!」

「ぬわーーー!」


 道場に野太い悲鳴が響き渡る。

 まったく、この男たちは普段どんな稽古を積んでいるのか。まったく歯応えがない。

 私は彼らを鼓舞するため、内緒にしていたことを公開する。


「良いことを教えるわ。チョコの中に一つだけ、私の手作りチョコがあるのよ」

「ええ……」


 途端にぴたりと攻撃の手が止む。

 困惑した顔の門下生たちは、どう動くべきか迷っているようだった。


「おい、お前行けよ」

「嫌だよ。まだ死にたくない」

「確率は低いんだろ? 早めに行った方がよくないか?」

「真面目な話、ロシアンルーレットは厳しいって」


 何やらコソコソと話しだす男たち。内容は聞こえないけれど、しょうもないことを言っているのはよく分かる。


「……ふぅん、そういうこと。ならいいわ。お望み通り、チョコが食べられない体にしてあげる」

「え、ちょ、お嬢!?」

「お嬢、そういうことじゃ、ぎゃあああっ!?」


 床を蹴り、門下生たちの所へ飛び込む。手当たり次第に千切っては投げ、千切っては投げ。たまには受身の稽古もしてあげた方がいいだろう。


「おーい、誰か一人くらい勝てたか? って、うわっ。なんだこれ。生きてる奴いるか?」


 様子を見に父さんがやって来て、ようやく落ち着く。気がつけば、床には門下生たちが乱雑に倒れていた。息はしているから、生きてはいる。


「父さん、受身の練習ちゃんとやってる?」

「そのはずなんだがなぁ……」


 屍のような門下生たちを見渡して、父さんは首を傾げる。明日からはもっと稽古を厳しくしてもいいんじゃないだろうか。


「あれ、父さん。それ」


 私は父さんが手に持っている箱を見つける。簡単にラッピングしたそれは、とても見覚えのあるものだ。


「ああ、母さんから貰ったんだ。いいだろう?」

「仲良いわねぇ」


 父さんは自慢げに蓋を開けて中を見せてくる。入っているのは、二つのチョコレートだ。


「あれ、それって――」

「チョコにありつけない奴らを肴に、早速頂こうと思ってな。とりあえず一つ……」


 私が言うよりも早く、父さんがチョコを口に運ぶ。

 父さんはもぐもぐと口を動かし、チョコを飲み込む。


「うん。うまっず――!?」


 そう言った直後、父さんは顔面を蒼白にさせる。ばたんと勢いよく床に倒れる。さらに全身がぶるぶると震えていた。


「お父さん!?」

「師範!?」

「うわああ、大変だ!」


 父さんが倒れたのを見て、門下生たちも跳び上がる。

 私は父さんの所へ駆け寄り、その手を握る。


「と、桃華……。まさかこれ……」

「うん。私の手作りだよ。熊の肝入りチョコレート」

「おま、それは、なしだろ……」


 ぱたり、と力尽きたように父さんが倒れる。


「まさか気を失うほど美味しかったなんて」

「お嬢!? 絶対そうじゃないですよ!」


 門下生たちが理解しがたいものを見るような目を私に向けてくる。彼らも私の手作りチョコレートに興味津々らしい。

 私は、お母さんの目を盗んで作れたチョコレートが少しだけだったことを心底悔いた。


_/_/_/_/_/


 昨日のうちに焼いておいたチョコクッキーを、小さい袋に詰めていく。リボンを付けて、可愛く整えれば完成だ。


「あら、志穂。今日はまた随分早起きね」

「ママ。おはよ」


 そうこうしているうちに、パジャマ姿のママがやってくる。髪もボサボサで、目を擦って、とてもじゃないけど他の人には見せられない。


「あら、お菓子作り?」

「うん。学校に持っていくんだ」

「そういえばバレンタインデーかぁ。……セーレイって女子校よね?」


 テーブルに用意した朝ごはんを食べながら、ママは首を傾げる。


「友チョコだよ。みんなも持ってくるから、おっきい鞄で行かなきゃ」

「お嬢様学校でもそんなのするのねぇ」


 意外そうな顔で、ママはコーヒーを飲む。

 私も苦笑しながら頷いた。清麗に通うお嬢様は、みんな普段はお箸より重い物を持ったことがないような人たちばかりだ。当然、お菓子は買うものであって作るものじゃない。

 でも、今年は少し事情が違った。


「この前、料理の特別授業があったでしょ。あれでお嬢様の間でもお料理ブームが巻き起こってるの」

「へぇ。私もお金持ちの料理食べてみたいなあ」


 トーストにジャムを塗りながら、ママは軽く笑う。

 ママは普段からいろんな人とお食事もしてるし、高級な料理も沢山食べてると思うんだけど……。

 ちなみに特別授業で料理を教えてくれた佐山さんはとても教えるのが上手だった。まるで事前に予習でもしていたみたいに、料理になれていないお嬢様がどんな失敗をするか前もって予測して、大きな被害を未然に防いでいた。

 あれがプロの料理人というやつなんだろうと、感心したのを覚えている。


「そうだ、ママ。はいこれ」


 わたしはラッピングを終えた小袋を一つ、ママに渡す。


「あら、ママにもくれるの?」

「違うよ。運転手の久川さんに」

「ちぇー」


 ちゃんと渡してね、と釘を刺すと、ママはこくりと頷いた。久川さんには前もお世話になったし、たまに顔を合わせることもあるから。義理チョコというか、友チョコのついでだけど、渡しておこうと思った。


「叔父ちゃんにも渡せたら良かったんだけどなぁ」

「それは……ちょっと難しいかもね」


 ふと零すと、お母さんが困ったように笑って言う。

 現実の叔父ちゃんに荷物を届けるのも難しいし、納得はしている。でも、少し残念でもあった。せめてゲーム内で何かプレゼントしてもいいかもしれない。


「っとと、もうこんな時間!? ごめん、志穂」

「いいよ。洗い物はやっとくから、ママは急いで」

「ごめーん!」


 時計を見たママは慌ててパンを口に詰め込んで立ち上がる。気がつけばそろそろ久川さんがやってくる時間だ。

 部屋に戻ったママはぱっきりとしたスーツに着替えて戻ってくる。うん、いつもの格好いいママだ。


「ママ、お弁当!」

「いつもありがとう。じゃ、行ってきます」

「いってらっしゃい」


 玄関でママを見送る。家の前にはすでに黒い車が止まっていて、ママは急いでそれに飛び乗った。

 わたしは車が動き出したのを確認して、携帯のメッセージアプリを立ち上げる。


「素直に渡せればいいんだけどなぁ」


 そんな言葉を呟きつつ、わたしは精一杯のメッセージを送信した。



「あら?」


 久川の持ってきてくれた車に飛び乗り、パソコンを開いてメールの確認をしていると、携帯が通知音を鳴らした。いつもの仕事関係かと思ったけれど、そこには意外な名前が記されている。


「志穂?」


 娘の名前。何か忘れ物をしただろうかと不安になりながら、アプリを立ち上げる。


“ハッピーバレンタイン

 いつもありがとう”


 二行だけの短い文章。

 それを読んではっとする。

 私はパソコンを脇にのけて、彼女から受け取ったばかりの可愛い巾着袋を手に取る。そして恐る恐る、それを開けていく。


「……ふふっ」


 そこには、可愛いハート型のチョコレートクッキーが入っていた。久川に、と託されたものはただの丸いクッキーだ。わざわざ特別に作ってくれたらしい。


「どうかなさいましたか?」

「ええ。ちょっとね」


 ミラー越しにこちらを窺う久川に笑って頷く。


「あなたにも頼まれてる物があるの。うちの子から、ハッピーバレンタインって」

「これは。ありがとうございます」


 丸いクッキーの入った小袋を掲げてみせると、久川も強面の顔を綻ばせる。

 彼女の優しさはこの男にも分けられた。けれど、本命はきっと私だ。そんな優越感に浸りながら、私は再びノートパソコンを開いた。

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