第694話「仲の良い夫婦」

「一ッ! 二ッ! 三ッ!」

「一ッ! 二ッ! 三ッ!」


 緑豊かな山の中に、男たちの野太い声が木霊する。道着姿の筋骨隆々な彼らは、一列に並んで重りを付けた棒を振っていた。


「先端を揺らすな! 全部自分の腕の延長だと思え」


 屈強な門下生たちを指導するのは、袴姿の壮年の男性だ。手には木刀を携え、動きの緩んだ者がいないか厳しく目を光らせている。

 延々と同じ動作を繰り返し、その身に染みつかせる。時間感覚は麻痺し、全身から汗が吹き出してもそれを拭うことは許されない。単純な動きの連続というある意味では最も過酷な稽古を、男たちはもう一時間以上も継続していた。


「止めッ!」


 稽古の終了は唐突に訪れる。師範、楓矢の声が響き、門下生たちは一斉に動きを止めた。多少慣れた者はぐったりとしながらも二本の足で立っているが、まだ空眼流の門を叩いて間もない者は、足下から崩れ落ちていく。


「多少は体力が付いてきた者もいるようだ。次からは重りを倍に増やしてもいいか」

「ひえっ。勘弁して下さいよ……」


 疲労困憊の門下生たちを見て、楓矢が零す。それを聞いた者は顔面を蒼白にして口を開けた。

 今の段階でも米俵を2つ付けているような重さなのだ。これ以上となるともはや人間の能力を超えている。


「桃華はできたぞ? あれは今、お前らの3倍の重さで最長8時間継続した記録を持ってる」

「師範、人間とバケモンを比べないで下さいよ」

「妖怪には妖怪の、人間には人間の力加減ってモンがあるんすよ」

「そもそも身体スペックが違いすぎるんだよ」

「腕の太さで言ったら俺たちの方が何倍も太いはずなんだけどなぁ」


 楓矢の言葉に、門下生たちが一斉に口を尖らせて抗議する。師範である楓矢も素晴らしい肉体と技術を持っているが、彼の娘は更に突出している。この中の誰もが、彼女を自分たちと同じ人類とは見なしていなかった。


「失礼ね。種族は一緒でしょ」

「げえ、お嬢!」

「うわでた」


 そこへ、話題の人物が眉間に皺を寄せて現れる。


「おお、桃華。帰ってきたか、ってなんだそれは」


 ちょうど夕方の稽古の終了時刻だ。素晴らしい時間感覚だと感心しながら楓矢が振り返ると、巨大な熊と目が合った。僅かにのけぞりつつも声を上げなかったのは、彼の胆力の証左だろう。

 口を開け、舌をだらりと垂らした熊の向こう側から、澄んだ少女の声が返ってくる。


「山駆け稽古してたら見つけたから」

「いや、うん。良く倒したな」


 巨大な熊は全身に古傷があり、優に数トンはありそうな立派な体をしている。恐らくはこのあたりで幅を利かせていた有力者だろう。

 それがふわりと投げられ、地面に置かれる。その下から現れたのは、長い黒髪を一束に纏めた色白な少女である。手弱女という表現の似合う線の細い容姿だが、着ている道着と袴は年季が入っている。


「武器は何も持ってないんだよな?」

「山駆けって要は不整備の山ん中を延々走るだけだからな。全身に重りは付けてると思うが……」

「なんで素手で熊を倒せるんだよ」

「あれ、お嬢が三日前から見当たらなかったのって……」

「ずっと山に居たからだぞ」


 首筋の汗を拭う少女は可憐だが、彼女に目を奪われる男たちが思うのはそんなガラスのように脆い幻想ではない。

 彼女こそが楓矢の娘にして愛弟子、ここにいる門下生全員が束になっても敵わない空眼流の申し子、御影桃華なのだ。


「流石に三日間、木の実と生の鹿肉だけだと飽きてくるわ。これで熊鍋でも作ろうかと思って」


 ニコニコと笑みを浮かべて言う少女に、門下生と楓矢が揃ってざわつく。


「いや、ご苦労。お前も疲れてるだろうからしっかり休みなさい。この熊は母さんに任せよう。な?」

「この程度で動けなくなるほど柔じゃないわよ。それに山駆け中に思いついた料理があるの。熊の毛皮まで大胆に鍋に入れるダイナミックなレシピで――」

「お前ら、これを台所に運べ! 場合によっては武力行使も許可する。失敗した場合はまた一週間は寝込むことになるぞ!」

「押忍ッ!」


 手と手を合わせて夢見る乙女のような表情で語る桃華を抑え、楓矢が叫ぶ。鬼気迫る声に門下生たちも鉛のような体を奮い立たせ、巨大な熊を数人がかりで担ぎ上げる。


「重ッ!?」

「なんだこの重量。戦車か?」

「お嬢はなんでこれを一人で運んで来れたんだよ……」

「いいから急ぐぞ。師範が抑えてるうちに台所まで運ぶんだ!」


 年長の門下生が急かし、男たちは熊を神輿のように担いで長い階段を駆け下りていく。


「何するの!? ちょっと、私が狩った熊なんだけど!」

「いいから、あとは俺たちに任せろ。て言うかまだ料理禁止令は解けてないだろ!」


 熊を奪還しようとする娘を、楓矢は全身全霊の力をこめて拘束する。あの熊も、ちゃんとした料理として美味しく食べてやるのが弔いになるはずだ。


「うぅ……。私の熊が」

「母さんたちがしっかり料理してくれるから、安心しろよ」


 膝を突いて悲しむ娘に、楓矢も少し憐憫の情が湧く。彼女も遊びでトンチキな料理を作っているわけではない。少しでも滋養強壮に効くものを門下生たちに食べさせてやりたいという、優しい理由からだ。時には優しさが人を殺すということも学んで欲しいが。


「ふっ、甘いわね!」

「なにぃ!?」


 楓矢が苦笑して僅かに力を緩めた瞬間、桃華が不敵な笑みを浮かべて拘束から抜け出す。その意表を突いた行動に、楓矢は驚きながらも感心する。


「お嬢! 堪えて下さい!」

「俺たちを助けると思って!」

「ええい、あの熊は私のものよ! 私が熊丸ごとマッスル鍋をご馳走してやるんだから!」

「お嬢ーーーー!」


 木刀や木剣、人に向けてはいけないタイプのガスガンなどを携えた門下生たちは、武力によって暴れる少女の鎮圧を試みる。


「その程度のもので止めようとは、私も侮られたものね!」

「ぐわーーーっ!?」


 しかし、嵐のように駆ける桃華によって、屈強な男たちは一斉に吹き飛ばされる。果敢に挑む彼らを、一人の少女が千切っては投げていく。


「ふはははっ! あなた達にも熊120%鍋をご馳走してあげるわよ!」

「困ります、お嬢! 止めて下さい!」

「優しさが明後日の方向を向いてるんです!」


 必死に止めようとする男たちを投げ飛ばし、桃華は連れ去られた熊を追って階段を駆け下りていく。


「ふはははっ! うわあっ!?」


 だが、その途中で足下に張られた極細の糸に気がつかず転倒する。階段を転げ落ちれば、常人は無事では済まないが、彼女は尋常の人間ではないため問題はない。


「誰よ、こんなところに罠をしかけたのは!」


 華麗に受身を取って、当然のように無傷で立ち上がる桃華。怒りを吹き出す彼女に返ってきたのは、言葉ではなく四方八方からの縄だった。


「うわーーーっ!?」

「……大人しくしてて。みんなのためにも」


 七割がたの縄を避けつつも、その行動すら見越した縄によって絡め取られた桃華の前に、黒衣の少年が現れる。周囲の茂みからは、同じく忍者のような風貌をした男たちが続々と飛び出してきた。


「くっ。隠密部隊め!」


 それは、空眼流の中でもある一分野を専門的に修練している者たちだった。かつての忍者の流れを汲む彼らの代表が、桃華の弟だった。

 全身を太い縄で雁字搦めにされた桃華は悔しげに唇を噛む。武闘派な彼女に比べ、隠密部隊と称される彼らは人の拘束などにも長けている。彼女が抜け出せる隙などあろうはずもなかった。


「熊は母さんが調理するから。姉さんは大人しくしてて」

「むぅ……」


 静かだが強い語調に、桃華も唸るしかない。まず、この拘束から抜け出すことができないのだからどうしようもない。

 彼女は深いため息をつき、降参の意を示した。





「ふぅ、さっぱりした。三日もお風呂入ってないのは、女子としては心苦しかったわ……」


 桃華が自宅に戻り、三日間ぶっ通しの稽古で付いた汚れを落とした頃、大広間では飯当番たちが慌ただしく夜の準備をしていた。


「お嬢、お疲れさまです」

「熊肉ありがとうございます!」


 湯上がりの桃華を見つけた門下生たちが、腰を直角に曲げて感謝を伝えてくる。彼女はそれに手を振り、自分が吹き飛ばした門下生たちが無事かどうか確認した。


「兄貴たちは受身も上手いっすから。擦り傷程度で済んでますよ」

「なら良かったわ。ちなみに台所は?」

「厳戒態勢っす。絶対に入らないで下さい」


 にこりと笑みを浮かべたまま強い語調で言われ、桃華は肩を竦める。そこまで言われるのなら仕方が無い。

 彼女は大人しく広間の中に入り、自分の定位置に腰を降ろした。

 そこには、すでに道着から着替えた楓矢もいる。


「さっぱりしたようだな」

「うん。流石に三日間はちょっと疲れるね」

「ちょっとで済むのも大概なんだがなぁ」


 料理が運ばれてくるまでの間、桃華は父との会話を楽しむ。とはいえ、その大部分が稽古や空眼流の技術に関する談義ではあるのだが。


「しかし、まさか熊を狩ってくるとは」

「山裏の畑の方に行きそうだったし、駆除対象でしょ」


 あっさりと言う娘に、楓矢は曖昧な笑みで答える。そういう話ではない。


「まさかこっちでも熊が出てくるとはなぁ。タイミングがいいのやら……」

「うん? どうかしたの?」


 小声で何か呟く父親を見て桃華が首を傾げる。楓矢は慌てて顔を上げ、首を振る。


「いや、こっちの話だ。なんでもない」

「そっか。……そういえば父さん、最近お母さんと仲良くなった?」


 疑問を浮かべつつも、桃華が話題を変える。

 近頃、彼女の両親は生活に変化があったようで、夕食のあとは揃って自室に閉じ籠もる。その後一時間程度は出てこない。

 少し前から父親だけ瞑想用の庵に籠もることが増えていたが、最近は母親も一緒だ。


「うん? ああ、まあ、色々とな」

「ふーん」


 曖昧に答える父親に、桃華は片眉を上げる。


「……弟か妹が増える時は早めに言ってね」

「ばっ! そういうんじゃない!」


 ぼそりと娘が呟いた言葉に楓矢は跳び上がる。確かに周囲には夫婦の時間と言っているが、そういうものではない。

 そもそも、桃華たちでさえ、楓矢と香織がそれなりの年齢でようやく授かった宝なのだ。


「お待たせー!」


 親子間の微妙な雰囲気を壊すように、障子が開け放たれる。現れたのは、大鍋を抱えた門下生と野菜や肉を山盛りにした大皿を持つ着物姿の女性だ。


「来た来た! って、やっぱり毛皮は取っちゃったのね」

「当たり前だろ……」


 綺麗に解体された赤い熊肉を見て、桃華が少し肩を落とす。

 大鍋が次々と卓上コンロに載せられていく。すぐに広間中に良い香りが充満し、厳しい稽古を終えた門下生たちの腹が一斉に叫び出す。


「ともあれ、三日ぶりの人間的なご飯だわ」

「たんと食べろ。お前が狩ってきた肉だからな」


 桃華たちの前にも鍋が置かれる。たっぷりの野菜と共にグツグツと煮える熊肉は見た目にも美味しそうだ。


「まさか熊を取ってくるとは。タイミングも良かったわ」

「お母さんまで。やっぱり何かあったの?」


 追加の具材を載せた大皿を運んできた女性――楓矢の妻であり桃華たちの母である香織が言葉を零す。やはり二人の間で何かあると察した桃華が追及するが、彼女もまたそれをはぐらかす。


「むぅ。二人で何やってるの?」

「ふふふ。内緒よ、内緒。はい、お兄ちゃん」

「おう。ありがとう」


 香織が取り皿に鍋の中身を移し、楓矢に渡す。


「……お兄ちゃん?」


 いつの間にか桃華の隣に座っていた少年だけが、両親の会話に違和感を覚える。


「どうかした?」

「……いや、なんでもない」


 しかし、彼は深く追及しないことにした。きょとんとする姉に対し、首を振る。

 両親であろうと、プライベートな領域を侵害するのは褒められたことではないのだ。そして、今最も重要なのは、姉に悟られずに取った大量の熊肉を、どう守り切るかということだ。


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Tips

◇カイザーの赤身肉

 厳しい森の中で鍛え上げられた硬い肉。臭みが強いが、適切な処理を施せば美味しく頂ける。食べると力が湧き出し、活力が漲る。


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