第686話「二人ここから」

 楓矢がヘッドセットを外すと、次第に四肢の感覚が現実へ戻っていく。手足の痺れが徐々に消えていき、力が入るようになる。床に手を突いて上半身を上げると、側に立つ女性と目が合った。


「香織……」


 きっちりと襟を整えた和服姿の彼女は、楓矢の妻であり桃華たちの母だ。いつもは柔和な笑みを崩さない彼女が、今日は目つきを鋭くしている。

 楓矢は思わず膝を揃え、額を床に近づけた。


「こ、この度は――」

「何を言ってるんですか?」

「……あれ?」


 てっきり罵詈雑言の嵐が飛んでくる――場合によっては薙刀や剣山まで――と思っていた楓矢に対し、香織は怪訝な顔で首を傾げる。

 彼女はぽかんとする楓矢に向かって、急におろおろとし始めた。


「ごめんなさい。私、こういうピコピコしたものは知らなくて。お邪魔しちゃったかしら」

「え、ああ。いや、それは大丈夫だが……」


 その言葉を聞いて、楓矢も察する。

 香織は普段から電子機器やゲームなどといったものに触れておらず、苦手意識すら持っている。今回、こうしてヘッドセットを着けた楓矢に声を掛けるだけでもおっかなびっくりだった。

 しかし、そんな彼女がわざわざやってくるとは。それも、普段は立ち入りが許されていない瞑想用の庵に入ってくるとは、何か重大な事件があったのかもしれない。楓矢は顔つきを真剣なものへと変えて、事情を伺う。


「どうしたんだ。何かあったのか?」

「ええ。実は今日、萩原さんとお茶をしてきたんだけど」

「はぁ」


 脈絡のない話題に、楓矢は曖昧に相槌を打つ。

 しかし、少し遅れて思わず目を見開く。

 萩原さんといえば、近所の中華料理屋龍々亭の店主だ。娘たちの幼馴染みが娘にいて、楓矢はついさっきまでその少女と会っていた。


「真ちゃんが最近、VRゲームを始めたらしいのよ。お店のお手伝いはしっかりしてるんだけど、それ以外の時間はずっとゲームに熱中してるみたいで」

「そ、そうか……」

「なんでも話を聞いたら、ゲームの中で仲良くしてくれてる男の子がいるらしくって」

「ふーん……」


 相槌を打ちながら、楓矢は庵の扉を確かめる。

 小さな小屋の唯一の扉は、香織の背後にある。逃走経路としては心許ないが――。


「真ちゃんがその男の子の写真を見せてくれたみたいで、萩原さんピンときたんだって」


 楓矢の危機察知能力が警鐘を鳴らしている。

 いつの間にか香織の気配が花のようなそれから、鬼神の如きものへと変わっている。


「っ!」

「あら、まだ話は終わってないわよ」


 扉へ向かって駆け出そうとした楓矢を、香織ががっちりと掴む。普段は茶道や華道を嗜んでいる香織だが、薙刀術の使い手でもある。その速度は凄まじく、日頃から鍛錬を重ねている楓矢ですら逃れられない。

 まずい。そんな思いが楓矢の脳裏を駆け巡る。

 龍々亭は彼が若い頃からある古い店だ。彼も若い頃から、香織と結婚する何年も前から日常的に通っていた店だ。そこの一人娘で、現在は女手一人で娘を育てながら店を切り盛りしているあの人は、楓矢の幼馴染みでもある。つまりそれは――。


「この男の子、楓矢さんの若い頃にそっくりらしいわね」

「ひっ」


 香織が懐から取り出した型落ちのタブレット型端末。その液晶に映し出されていたのは、刀を振りコックビークを切り伏せているカエデの姿だった。

 どうやら、狩りの合間にフゥが撮ったもののようだ。


「楓矢さん」

「……はい」


 凍えるような冷たい声に、楓矢は投降の意思を示す。

 もはや逃れることはできない。

 時代錯誤な親同士の取り決めによって出会った許嫁。それでも彼女と共に紡いできた思い出は本物だった。二人の間に生まれた待望の子供たちも可愛い。香織に似て溌剌で実直な娘に、香織に似て器用で優しい息子。二人に空眼流の全てを伝えることは、いまだできていない。父祖の代より連綿と紡いできた長い歴史が、こんなことで呆気なく途切れてしまうとは、不甲斐ない。


「どうして私も誘ってくれなかったんですか!」

「はい……。……はい?」


 首を斬られる覚悟で土下座をする楓矢は、自分の耳を疑う。今、この奥様はなんと仰った?


「あの、香織さん?」

「ずるいじゃないですか、真ちゃんだけ。私だって楓矢さんの若い頃の姿なんて見たことないのに!」

「ええ……」


 それはそうだ。

 楓矢が香織と出会ったのは、二人が高校を卒業してからのこと。その頃には楓矢も血の滲むような鍛錬で、かなり体格が良くなっていた。

 御影家は空眼流の一門ということもあり、写真などの記録を残す習慣があまりない。そのこともあり、香織は楓矢の若い頃――FPO内のカエデのような姿は見たことがない。

 そのことに対して、香織は常々不満を抱いていたようだった。


「今のゲームってとってもリアルなのね。本当に楓矢さんが若返ったみたいでびっくりしちゃったわ」

「あ、うん。すごいよな」

「萩原さんもお礼が言いたいって。真ちゃんのことこっそり支えてくれてたんでしょ。正体も明かしてないのよね」

「あ、はい」


 楓矢は唖然としつつ、一つ察する。

 真の母親と香織は、FPO内で真と楓矢が共に行動していることをかなり都合良く解釈しているようだ。つまり、ゲームに不慣れな真のことを楓矢が影ながら支えているといったように。

 本来は全くの偶然なのだが。


「でも、私にくらい一言言ってくれても良かったんですよ」

「すみません」


 とにかく、穏便に事が進んでいるようなら良かった。そう楓矢は胸を撫で下ろす。別に浮気をしていたわけではないが、妻にも隠れてコソコソとゲームをやっていたのはどこか居心地が悪かった。むしろこうしてバレてしまった方が良かったのかもしれない。


「萩原さん、これからも娘をよろしくですって」

「わかりました」


 力が抜けきって、簡単な返答しかできない楓矢だが、香織はそれを気にする様子もなかった。彼女は小さな端末に映るカエデの姿を見て、ニコニコと笑っている。


「それで楓矢さん」

「今度は何だ?」


 ひとまず嵐は過ぎ去った。

 楓矢はいつもより少しはしゃぐ香織に口元を緩めながら応じる。


「私もヘッドセットと、ゲーム買ったの。次からは一緒にやりましょ」

「……はい?」


 そこへ再び投げ込まれた特大の爆弾。

 それに気がついた楓矢は、その意味を理解するのに数秒の時間を要した。


「か、香織が? ヘッドセットとFPOを買ったのか?」

「ええ。萩原さんに教えて貰って」


 香織一人では通販もままならないが、人の手を借りれば十分にできてしまう。何より、萩原さんはつい先日娘にそれらを買い与えたばかりなのだ。


「か、仮想現実だぞ。怖くないのか?」

「そりゃ怖いわよ。でも、楓矢さんが一緒にいてくれるなら平気だもの」

「そっかー」


 いつもなら嬉しい言葉だが、今回ばかりはそんな情緒に浸っている余裕はない。別に香織がFPOを始めることが嫌なのではなく、混乱が勝っているのだ。


「毎月頂いてるお金も、お酒以外には使ってなかったから。良い機会だと思って」

「そうですか」


 そこまで言ってくれるのなら、楓矢としても断れない。

 香織は日頃から家のことをやってくれていて、彼としてもいつか息抜きをしてもらいたいと思っていたのだ。それがFPOの世界でできるのなら、背中を押してやるのも夫の務めかもしれない。そう考えた。


「しかし、真ちゃんにどう説明すればいいんだ」


 とはいえ、懸念点が一つある。

 楓矢は真に対し、自身の正体を現していない。フゥにとっては突然やってくる香織について、どのように言えばいいか分からなかった。

 しかし、香織は問題ないと胸に手を当てる。


「私は楓矢さんの妹ということにしてください。兄妹でゲームをするのは、珍しいことじゃないんでしょう?」

「そ、それはそうだが……。香織お前、俺より三歳年上――」

「妹ということで。いいですね?」

「あっはい」


 一際強い圧を受けては、武道家として鍛錬を積んできた楓矢も否とは言えない。素直に頷くほかなかった。


「……しかし、香織」

「何かしら?」


 にこにこと相貌を崩す妻に、楓矢は話しかける。


「その、俺が隠れてこんな所でゲームをやってたことについては、何かないのか?」


 彼の胸に支えているのはそこだった。

 疚しいことは何もないとはいえ、家族に隠れてゲームをやっていたのは事実だ。怒りを向けられても仕方のないことだと思っていた。

 しかし、それを聞かれた香織は今度こそきょとんとして首を傾けた。


「まあ、以前から楓矢さんが何かやっていたのは知っていましたから」

「ええっ!? そ、そうだったのか」


 今明かされる衝撃の事実に、楓矢は瞠目する。

 香織は当然と言うように頷いて言った。


「そもそも、配送ドローンから荷物受け取ったのは私ですよ」

「えっ。……そ、そういえばいつの間にか俺の部屋に段ボールが置いてあったな」


 楓矢はそのことを思い返し、今更ながらにおかしな点に気がついた。

 物流技術の発達した現代では、このような山奥の田舎でも配送ドローンによって荷物は届けられる。とはいえ、それは玄関先までの話だ。

 楓矢が道場で指導をしている間に荷物が届き、それを香織が受け取り部屋に運んだのだった。


「それに妙にコソコソしながら電気の線なんか引っ張ってましたし。でも、どうせ聞いても分かりませんからね。それに楓矢さんが悪いことしないのは知ってますから」

「あ、ああ……」


 妻の圧倒的な信頼を見せつけられ、楓矢は何も言えなくなる。これならば、素直に最初から話しておけば良かったと、今更ながらに後悔した。


「あと、楓矢さんが浮気がバレた後、どうなるか知らないほど愚かじゃないと思ってますから」

「あっはい」


 凄味のある笑みを再び向けられ、楓矢は知らず背筋を伸ばす。

 普段は大和撫子を体現したような女性だが、桃華の母親でもあるのだ。


「それじゃあ楓矢さん。早速ですけど、機械の組み立てを頼んでもいいかしら」

「もちろん。この際だし、俺も家の寝室に移ろうか。ここはマットを敷いていても背中が痛くなるんだ」


 楓矢は立ち上がり、ヘッドセットとコード類を片付けながら言う。隠す必要がないのなら、柔らかいベッドの上でプレイした方が現実の体にも負荷が掛からない。

 門下生や子供たちには、夫婦の時間とでも言っておけば邪魔も入らないだろう。


「ふふっ。なんだか新鮮ね。若い時もこんなことはしたことなかったし」

「そうだなぁ」


 楓矢には空眼流があり、香織もまた歴史の深い良家の生まれだ。若い頃、何かそれらしいことをしたような覚えはなかった。

 少し遅れてやってきた青春だと思えば、これもまた存外悪くない。

 そう言って、二人は若い男女のように笑い合った。


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Tips

◇プレイ時の現実環境について

 FPOにログインする際は、安全な環境を整え、リラックスした体勢を取って下さい。ベッドやマットレスなどを用意することで、より快適な仮想現実を楽しむことができます。

 万が一現実世界で異常が発生した場合は、自動で強制ログアウト措置が取られます。また、VR接続機器に搭載されている外部通信機能を用いることで、現実世界と音声のやり取りをすることもできます。

 その他詳しいプレイ時の推奨環境に関しては、公式HPの[VRゲームプレイガイド]をご確認ください。


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