第653話「荒れる海原」
「――ほぉぉぉわあああっ!」
「はええええええっ!?」
氷の洞窟に悲鳴が反響する。
凍り付いた海のなか、荒々しく削られた坂道を、白月としもふりは滑るように駆け抜けていた。
「れ、レティ! 行き止まりだよ! ぶつかるよ!」
「まあまあ、そう慌てないで。――『穿岩衝』ッ!」
涙目で声を震わせるシフォンの肩にぽんと手を置き、エイミーが空中を鋭く殴る。その衝撃が氷を砕き、洞窟を更に延伸させた。
「まさか海を凍らせて、そこを砕きながら進むとは……」
「ふふん。これなら潜水装備もいらないでしょ」
レティたちの機転に感心していると、次々とアンプルを砕きながらラクトが胸を張る。
これだけの大規模なアーツを維持しているのだ。彼女のLPは今も急速に削られているうえ、“地走蜘蛛”を自爆させてしまったためその回復ができない。クールタイムが終わり次第アンプルを湯水のように使っているが、僅かに回復が追いついていない。
「ラクトは大丈夫なのか?」
「目的地到着までは頑張るつもりだけど……」
ここから先は時間の勝負だ。
ラクトのアーツが解けてしまえば、その瞬間俺たちは海の藻屑となって消える。彼女のLPが果てるよりも早く、〈白き深淵の神殿〉へと到達しなければ。
「あれ、そういえば花猿はどうなったの?」
氷窟を駆け抜けるしもふりの上で、シフォンがきょとんとする。そういえば、あの厄介なデカブツはジャンプ台を飛び越えたあと姿を現していない。“地走蜘蛛”の自爆程度で倒れたというのも考えづらいし、と首を捻ったその時だった。突如、洞窟が大きく揺れる。
「おおおっ?」
「強い衝撃……! なにがあったんですか」
混乱のなか衝撃に耐えていると、俺の方へTELが飛んでくる、発信者はアストラだ。
『レッジさん、元気ですか?』
「なんとかな。それよりもさっきの衝撃は――」
『主力部隊の一斉砲撃です。花猿の相手は俺たちに任せて、レッジさんたちは先に向かって下さい』
「なるほど。そういうことだったか」
その言葉を聞いて安心する。
アストラたちが花猿の相手をしてくれているのなら、少しは余裕も出てくるだろう。
『ああ、それと〈
激しい戦闘音を背後に轟かせながら、アストラが言葉を付け加える。なんだろうと首を傾げると、彼は軽やかに笑みを交えながら語った。
『機術方面で、全力のバックアップを行う。機術回線の解放を願う。だそうです』
「なるほど?」
よく分からないまま、後ろで背中にしがみついているラクトの方を見る。アストラからの通話はそれを最後に途切れた。
「ラクト、機術回線の解放をしてくれってさ」
「おお! 分かった。ありがとうね」
アストラから受け取った伝言をそのまま伝えると、ラクトはすぐに目を輝かせた。そうして、早速その作業を始める。
「『機術回線解放』『機術構成再構築』『外部供給受入』」
「おお、なんだなんだ」
突然のテクニック連発に驚く。ただでさえLPが少ない状況だというのに、ずいぶんな大盤振る舞いだ。
「〈機術技能〉スキルの上位テクニックでね、輪唱アーツをやると習得できるんだ」
「輪唱アーツっていうと、メルたちの……」
全員が優れた機術師で構成された〈
「わたしも一回、それに混ぜてもらったことがあるんだ。そうしたら、こういうテクニックが解放されてね」
ラクトが話している最中にも大きな変化がおこる。
底の見えていたLPが、徐々に回復へ転じていったのだ。
更に周囲の様子も変わっていく。荒々しく削られていた氷が滑らかに整えられ、歪だった道は真っ直ぐに再構成される。背後からは追い風が吹き、左右に道を照らす炎が等間隔で現れた。
「これ、メルたちか……」
「そういうこと。あとはリザの『聖域』もね」
次々と巻き起こる変化に、思わず声を上げる。
いつしか氷窟は精緻に整えられた廊下に変わり、左右には柱がずらりと並ぶ。氷の燭台に載せられた炎が青い壁面をオレンジに照らしていた。
「ありがたいね。あとでお礼を言わなきゃ」
「そうだな。そのためにも、ちゃっちゃと仕事を終わらせよう」
神殿へと続く長い道を駆け抜ける。
白月としもふりの足取りも軽く、俺たちは更に加速した。
_/_/_/_/_/
〈ミズハノメ〉が浮かぶ海上は、様相を一変させていた。
一人の少女によって青く凍り付き、巨大な穴が開いている。その穴の縁に立っているのは、大剣を片手で構える金髪碧眼の青年だった。
「さあ、レッジさんに宣言した手前、負けるわけにはいかないな」
彼――アストラの眼前に蹲るのは、山のように巨大な緑の猿だ。〈
レッジの放った“地走蜘蛛”によって足止めされ、それを撃破し追いかけた所で、深奥部から自殺による死に戻りで駆け付けたアストラたちに阻まれた。
主力部隊の一斉攻撃で身体の7割を消し飛ばされ、現在は回復に専念しているが、その内には憤怒の激流が渦巻いていることだろう。
「重装盾は隊列を整えろ。支援は全て防御力に。攻撃は牽制程度でいい。近接は武器を納めて、物資の運搬に専念。アイは広域支援を」
急激に膨れ上がる植物の怪物から目を離すこと無く、アストラは周囲に指示を下す。日頃から訓練された騎士団員たちは冷静に動き回り、着々と態勢を整えていく。
「メインアタッカーは銀翼が担う。それ以外の全員は、その補助を行え」
ある意味では冷酷な指示だ。
〈大鷲の騎士団〉の前身である銀翼の団は、バンドシステムが実装されるよりも前に結成されていたグループだ。そこに所属する五人は、いずれもFPO内で別格の実力を持っていた。
彼らが本気で動くということは、彼ら以外の全て――騎士団最精鋭の第一戦闘班でさえも足枷にしかならない。肩を並べることすら許されない。
「ニルマ、アッシュ、フィーネ。準備は?」
「できてるよ」
「いつでも」
「この五人で動くのも久々ねぇ」
アストラの横に並ぶ三人。“獣帝”ニルマ、“灰燼”アッシュ、“崩拳”フィーネ。彼らの本気が見られると聞いて、危険地帯にも関わらず多くのプレイヤーが集まっていた。
実況系バンド〈ネクストワイルドホース〉をはじめ、多くのカメラも殺到し、まるで祭りのような騒ぎだ。
「アイ、そろそろだ」
「了解。――音楽隊、大規模演奏。『勇ましき騎兵の軍歌』ッ!」
アイが大きく戦旗を振る。そのはためきに合わせて、弧状に並んだ楽士たちが各々の楽器を奏で始める。始まるのは腹の底から震えるような、力強い旋律。全身から力が湧きだし、末端まで漲っていく。
「さて、勝てるかね」
双刀を引き抜き、アッシュが薄く口元に笑みを浮かべる。それに対して、アストラは気負う様子もなく頷いた。爽やかな表情で、白い歯を覗かせる。
「レッジさんと比べれば、雑魚もいいところだよ」
その時、オーロラのような光の帯が円上に広がる。巨大な氷の舞台を包み込み、無数の祝福をその内側に立つ全ての者に与えた。
銀翼の団、“秘玉”のリザによる大規模支援術式。攻撃力大幅上昇、防御力大幅上昇、ダメージ大幅カット、LP回復速度大幅上昇、各状態異常耐性大幅アップ、視力大幅強化、特殊看破能力付与、脚力大幅上昇、腕力大幅上昇、八尺瓊勾玉炉心性能大幅上昇。ありとあらゆる支援を受け、奇跡の力がその場に満ちていく。
「いこうか」
「おう」
「りょーかい」
次の瞬間、アストラ、アッシュ、フィーネの姿が掻き消えた。
「まったく、はしゃいじゃって……」
残されたニルマが仕方なさそうに肩を竦めた次の瞬間、花猿の巨体が爆発した。
三方向から同時に放たれた極大の衝撃は、花猿の身体を覆う強靱な蔦の鎧を木っ端微塵に破壊する。フィーネの拳が、アッシュの双刀が、そしてアストラの大剣が一度だけその身体を撫でた。ただそれだけで、激甚なダメージが花猿のその周囲へと広がった。
「ぐおおお!? 無茶やってるね! ワシらのことも少しは考えてくれないかな!」
悲鳴を上げるのは氷舞台を維持しているメルたち機術師組だ。瞬時に破壊状況を確認し、補修に入る。しかし、それよりも早く、三人の破壊者による蹂躙は始まっていた。
「遅えなあ、欠伸が出るぜ」
無数の蔦が鋭く突き出される。空中を落下しながら悠々とそれを避けるのは、襤褸切れのようなローブを纏った青年、アッシュだ。彼は最小限の動きで身を傾け、易々と全ての攻撃を捌いていく。その合間にも刀が燦めき、次の瞬間には空間そのものが抉れたかのように全てが木っ端微塵に切り刻まれていた。
「怒攻鬼流、第一打。『
アッシュ一人に集中していれば、その横腹に穴があく。たった一つの拳で花猿の身体を貫いたのは、〈格闘〉スキルを極めた女性、フィーネだ。
彼女は持ち味である破壊力を存分に生かし、花猿の巨体を次々に消し飛ばしていく。そしてまた、彼女も殺到する蔦の攻撃を全て避け、微笑すら湛えていた。
迫り来る蔦を真正面から拳で突き、その衝撃で弾き飛ばす。時には蔦を掴み、強引に引きちぎる。暴力の権化のような、パワフルな戦い方で花猿を圧倒している。
「さあ、ドラちゃんも行くよ!」
ニルマの声が高らかに上がる。それに応じて、花猿の頭上に影が落ちた。
「な、何だあれは!」
「龍……? いや、機獣か!」
気がついた観衆たちがどよめく。
雲の向こうから勢いよく落ちてきたのは、巨大な鋼鉄の龍――特大の機獣だった。
「ドラちゃん、『メガビーム』だ!」
無邪気なニルマの指示を受け、巨大な蛇型の龍は顎を開く。本来ならば舌のある場所に見えるのは、都市防衛設備にすら匹敵するような、巨大な銃砲だ。
細長い体躯が、尻尾の先から順に青く輝き始める。それが喉元まで至ったその瞬間、機械龍の口から極太の青い光線が放たれた。
花猿の脳天を貫き、そのまま縦に両断する。青い光線は植物を焼き切り、花猿の体積の大部分を消失させる。
それでも、花猿は倒れない。大地を流れる強大なエネルギーを際限なく吸い込み、再生する。
「さあ、ドラちゃん!」
空から落ちてきた龍は、そのまま長い身体を花猿に絡みつかせる。鋭い爪で身体を裂き、喉元に噛み付いて至近距離から光線は放つ。
巨獣と巨獣の戦いは、まるで映画のワンシーンのようだ。
これでは、例え参加しろと言われてもできるわけがない。後方でやきもきしていた戦闘職たちは、身を以て実感した。
盾役の後ろから、銃士や弓師、機術師たちが援護射撃を行っているが、彼らの圧倒的な暴力の前では豆鉄砲にすらならない。銀翼の団が揃った時の暴力は、明らかに別格だった。
「死なない猿というのも面白い。レッジさんと戦う時に備えて、練習台になってもらおう」
何より、一番の化け物は彼だった。
揺らめくオーラを身に纏い、野獣のように目を輝かせている。心の奥底から、純粋に闘争を楽しんでいる。
白銀の大剣を軽々と掲げ、一足で遙か高くにある花猿の視点まで跳び上がる。
「ふっ!」
彼が大剣を横に薙げば、それだけで花猿の首が落ちる。
花猿が伸ばした腕は肩口から離れ、無数の蔦は滑らかに断ち切られる。行動系スキルを持っていないにも関わらず、揺れ動く花猿の体表を駆け回り、頭頂から爪先までを微塵切りにしていく。
アッシュも、フィーネも、ニルマの機獣も、全て根本的にはリザと同じ。ただ一人の強者であるアストラが気持ちよく戦うための舞台装置でしかない。
彼のあまりにも強すぎる剣技の前では、他の全ては誤差でしかなかった。
「さあ、立ち上がれ! 俺を倒すなら、そんなもんじゃ足りないぞ!」
死角から忍ぶ完璧な奇襲の蔦を、彼は振り向きすらせず断ち切る。そのままの勢いで花猿の眼窩に嵌め込まれた巨大な果実を潰し、蔦の一本を掴んで首を回る。
自身の蔦に首を締められ、花猿が藻掻く。それに構わず力をこめ、強引に首をねじ切る。
瞬く間に再生を始める新たな首に大剣を突き刺し、そのまま体内に潜り込む。
「全然手応えがないじゃないか! もう少し、あの人を見習うんだな!」
内側から剣を振る。花猿の身体が膨張し、破裂する。
白い光が傷を焼き広げ、目にも止まらぬ剣が全てを切り刻む。
その余波だけで氷の舞台は破壊され、機術師たちが悲鳴を上げた。
「巨大化だけで、芸がない。分裂とか未来予知とか全方位飽和攻撃とかやってみせたらどうだ」
完全に乗っている。アストラの楽しげな声は周囲に響き、それを聞いた全ての者が喉の奥で唸る。流石にその要求は、難しいだろう。
「レッジさんなら、やってくれるぞ!」
それはどうだろう、とその場の全ての人が思う。
とはいえ、強く否定できないのも事実であった。
「さあ、死なないなら戦え! 俺を殺してみせろ!」
荒々しい挑発だった。
その言葉を理解しているのか否か。花猿は更に攻撃を熾烈にする。暴れ回る蔦は周囲の盾役たちも巻き込み、少なくない被害をもたらす。
「もっと本気を出せ! まだやれるはずだ! 死に物狂いで、力を振り絞れ!」
アストラの声に応じて、花猿の動きは激しさを増す。
周囲に甚大な被害を出しながら、彼らの戦いは続く。オーディエンスを薙ぎ払い、実況中継カメラを粉々に砕き、氷の舞台に深い亀裂が走る。
花猿とアストラが接触するたび、衝撃波が周囲に広がる。〈ミズハノメ〉は防壁の維持に全リソースを注ぎ込み、生産者たちがありったけのアイテムを消費しバリケードを維持する。
「泣くな、逃げるな、甘えるな! お前の死力を尽くして、俺に立ち向かえ! 恐れることは許さない。俺と戦い続けろ――!」
目を焼くほど白く輝く大剣が、花猿の脳天を割る。
ブチブチと音を立てて蔦が千切れ、巨体は何度目かの重傷を経験する。その直後だった。
「うおおおおおっ! ……あ?」
勢いを欠片も衰えさせず次撃に繋げようとしていたアストラの動きが唐突に止まる。彼だけでなく、銀翼の団全ての攻撃がぴたりと止まる。
そして、花猿も動きを止めていた。
「おい、ちょっと……嘘だろ」
それを見て、アストラが声を震わせる。
目を大きく見開き、花猿の巨体を見上げる。
「聞いてないぞ。それは。死ぬなんて……、聞いてないぞ!」
怒りすら籠もった慟哭。
彼の眼前で、緑の巨猿がゆっくりと、氷の舞台へ倒れ込んだ。
「死んだら、戦えないじゃないかっ!」
氷の上に膝を突き、アストラは拳で地面を叩く。
奇妙な静寂が舞台に広がっていた。
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Tips
◇『機術回線開放』
〈機術技能〉スキルレベル80のテクニック。機術の管理権限を解放し、他術師からの操作を受け付ける。非常に不安定な状態に陥るが、術者の技量によっては大規模かつ強力な術式へと発展させることも可能になる。
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