第646話「汚れ穢れた犬」
新年特別SS「あるメイドロイドの一日」
あけましておめでとうございます。
流石に新年一発目からきついので、クッションも兼ねてSSを一本公開します。本年もよろしくお願い致します。
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メイドロイドの朝は早い。
バンド〈大鷲の騎士団〉が本拠地〈
RCF型NPC-22、通称“タマさん”は、いつも通り地上前衛拠点シード01-スサノオ標準時刻06:00に覚醒した。休眠用ポッドから身を起こし、そのまま外に出る。愛用のブラシで全身の毛並みを入念に梳き整え、ヒゲの先までピンと張る。メイド服に袖を通し、胸元に銀鷲のブローチを取り付ける。
完璧に身だしなみを整えたタマさんは、暗い部屋の中を見渡した。
『――覚醒指令。1班から10班までのメイドロイドのみなさま、おはようございます』
『おはようございます、メイド長』
凜としたタマさんの声を受け、ずらりと並んだ円筒形のポッドが一斉に開く。上半身を起こしたのは、機体も性別も様々な、この建物のメイドロイドたちである。
『これより、朝の業務を開始します。シフト表の通りに行動してください』
『了解致しました、メイド長』
タマさんの指示で、メイドロイドたちは一斉に動き出す。ポッドの側に丁寧に畳んで置かれた制服を着込み、一分の乱れもなく列を成して部屋を出ていく。
最後の1人がドアをくぐったのを確認し、タマさんもそのあとに続いた。
『メイド長、一階西三番廊下の清掃が完了しました』
『では、一階東五番廊下の応援に回って下さい』
『メイド長、修理用資材が規定値を下回りました』
『では、
『メイド長、修練場のレベル1訓練用人形くんの耐久値が二割を下回りました』
『では、修理技能を持ったメイドロイドを派遣します』
タマさんの業務は広大な〈
上級メイドロイドである彼女が、実際に箒や金槌を握ることは滅多にない。彼女は、それを行う下級メイドロイドたちを掌握することが任務なのだ。
「あっ、タマさん。修練所の応急修理マテリアル補充しててくんない?」
『かしこまりました。午前中に用意します』
「タマさーん、農園のストレージいっぱいだから食堂の方に移動させといてくんない?」
『かしこまりました。午後三時までに完了します』
タマさんに話しかけてくるのは部下のメイドロイドたちだけではない。この〈
タマさんは上級メイドロイドということもあり、
『もうこんな時間ですか』
午前中、メイドロイドは〈翼の砦〉の清掃と修理に専念している。地上前衛拠点シード01-スサノオの中でも一際広大な面積を占める、広大なガレージであるため、メイドロイドが数十人居ようと日々のメンテナンスが追いつかないのだ。
ガレージ内部が汚れ、痛むことは、一介のメイドロイドとして看過できることではない。彼女は上級メイドロイドとしての威信に賭けて、膨大な数に及ぶメイドロイドたちのシフトを組み、常に清潔で美麗な建物を維持していた。
とはいえ、メイドロイドたちも無限に働き続けられるわけではない。活動中は様々なデータを処理しており、断片的な情報、いわゆるキャッシュデータが蓄積してしまうのだ。それを放置していれば、徐々にパフォーマンスにも影響し、やがて業務にも支障をきたすことになる。
『――休息指令。1班から10班までのメイドロイドは休息室にて休眠状態へ移行せよ。覚醒指令。11班から20班のメイドロイドのみなさん、おはようございます』
遠隔の一斉連絡を行い、〈翼の砦〉の各所で働くメイドロイドたちを総入れ替えする。
通常の下級メイドロイドならば12時間の連続稼働に耐えられるが、
なお、タマさんは上級メイドロイドであるため、通常の連続稼働時間は24時間。よって12時間ごとの休憩を行っている。
『おはようございます、メイド長』
稼働していたメイドロイドたちが休眠し、代わりに別のメイドロイドたちが動き出す。午後シフトである彼女たちの仕事には、掃除や修理以外のものも含まれていた。
『メイド長、食堂の食材が規定値を下回りました』
『では、農園ストレージにあるものを運んで下さい』
『メイド長、練習用木刀70本の生産が完了しました』
『では、修練場ストレージへ運んで下さい』
建物のメンテナンスが終わった代わりに、この拠点で活動する調査開拓員の支援が行われる。簡単な低級アイテムの製造や、物資の補充、中央制御塔とのやり取りなどだ。
「タマさん、なんか2,3時間くらいでできる指令ないかな?」
『条件に該当する現在公開中の指令のリストを送付しました。ご確認下さい』
「タマニウムが足りないよー。もふもふさせてよー」
『どうぞ。存分にもふもふしてください』
午後になれば、フィールドで活動していた調査開拓員たちが戻ってくる。もう一仕事したい者には新たな依頼を見繕い、疲れた者は存分に労る。
タマさんはこのガレージを拠点とする騎士団員全てに対する奉仕者であった。
『ッ!
ぴこん、とタマさんの茶色い毛並みの耳が揺れる。
彼女は騎士団員全てに対する奉仕者ではあったが、最も優先するべき御方は揺るがない。彼女は無数に積み上がっていた全ての雑事を一旦堰き止め、足早に歩き出す。
建物内を縦横無尽に駆け回る特別なエレベーターに飛び込み、五階の専用個室で待っている
見苦しくない程度に、最大限の早さで足を動かす。この時ばかりは、自分が猫型ライカンスロープであることに感謝する。多少乱暴に走っても、足音がうるさく響くことはない。
タマさんは一枚のドアの前で立ち止まり、一瞬で息を整える。まるで、偶然近くに居たのでこれくらいの早さで来ましたよ、とでも言いたげな澄ました顔で、ドアをノックする。
『
「うん。入って入って」
ドア越しに返答がある。その声を聞いただけで、知らずヒゲが震え、尻尾が揺れる。はしたないと自分を戒めながら、彼女はゆっくりとドアノブを捻った。
隅々まで整理整頓が行き届いた、広い部屋。ただ一人の御方のためだけに用意された、専用の個室。ここに入ることが許されているのは、
「来てくれたわね。待ってました」
『遅くなり、申し訳ありません』
恭しく一礼すると、
おそらく、いつもと同じ用件だろう。彼女は数日おきに決まって同じことを求めてくる。
赤みがかった金髪を揺らし、そっと睫を伏せる。
「では、早速」
『どうぞ』
タマさんは大きく胸を開き、両腕を左右に広げる。
そこへ彼女の
「すぅぅぅぅぅぅ! はぁぁぁぁぁぁ」
アイはタマさんのもふもふとした胸元に鼻先を押しつけ、思い切り深呼吸を繰り返す。過呼吸になるのではと心配になるほどだが、当の本人は幸せの極地といった表情で堪能している。
これのために、タマさんは毛並みを入念に整え、ほこりを徹底的に排除してきた。全てはこの
「はふぅ。やっぱりタマ吸いは最高ね。やめられないわ」
小柄なタイプ-フェアリー機体であるアイは、タマさんよりも身長が低い。普段の攻略活動では一長一短だが、この時ばかりは絶大なメリットがある。
タマさんの柔らかな毛並みを全身で感じることができるのだ。
「はぁ。良かった……」
『恐悦至極でございます』
たっぷり十分以上のタマ吸いを行ったアイが、つやつやとした表情でソファに身を沈める。タマさんはつんと澄ました顔だが、尻尾がゆらゆらと揺れていた。
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メイドロイドの朝は早い。
二つのガレージを所有する〈白鹿庵〉の管理を一手に担うFF型NPC-253、通称“カミル”はいつも通り、地上前衛拠点シード01-スサノオ標準時刻04:00に覚醒した。
『ふわぁ。ねむ……』
大きな欠伸とのびをしたカミルは、くしくしと目を擦る。いらないと言ったのにいつの間にか主が買っていたベッドから滑り降り、サイドテーブルに置いてある愛用のブラシで荒れ放題の髪の毛を整える。
いらないと言ったのにいつの間にか主が買っていたネグリジェを脱ぎ、お気に入りのメイド服に着替える。
窓の外を見れば、朝靄の立ち込める薄暗い海岸が見える。波の静かな音が響く中、彼女は早速別荘の掃除を始めた。
『やりますか!』
掃除道具を駆使して、隅々まで清めていく。隅の埃も微かな染みも許さない。テキパキと動いているうちに、思考もだんだんとクリアになっていく。
それほど広い建物でもない。起床から二時間もすれば、十分に掃除は終わる。ちょうどその頃になると、カミルの隣のベッドで眠っていたもう一人のメイドロイドも起きてくる。
『ふわぁ。おはようなのじゃ……』
『おはよう。さっさと着替えて仕事するわよ』
『ふむぅ。おいなりさんが食べたいのじゃ』
白絹の寝間着を着た黒髪の少女、T-1。本来は開拓司令船アマテラスの中央演算装置〈タカマガハラ〉を構成する三体が一つではあるが、諸事情があってカミルの下でただのメイドロイドとして働いている。
指揮官としてのT-1であれば、カミルは会話すらままならないほど緊張してしまう。しかし、目の前でおいなりとつぶやきながら着替えているのはメイドロイドのT-1だ。遠慮なく先輩として指導することができるし、それが許されている。
『掃除は終わらせたから、農園の水やりをするわよ。そのあとはお野菜と薬草と毒を〈ワダツミ〉の市場に持っていって、ついでに売却予定のアイテムを売りさばくわ。午後からは〈ウェイド〉のガレージで倉庫の整理があるからね』
『ぬぉぉぉ。そんなにいっぺんに言われても分からぬわ!』
『分かりなさいよ! 昨日も言ったでしょ!』
いつもの黒い着物に装いを変えたT-1の尻を叩き、追い立てる。向かうのは別荘の裏手に整備された農園だ。彼女が農園のスプリンクラーを動かしている間に、カミルは更に繊細な植物をそれぞれ世話する。
『じゃ、ちょっと行ってくるわ』
『気をつけるのじゃぞー』
欠伸混じりで操作盤を動かすT-1に見送られ、カミルは化学防護服を身に着けて隔離エリアへと入っていく。そこにあるのは取り扱いの難しい危険度の高い植物たちだ。
迫り来る蔦を掻い潜り、降り注ぐ毒液を避け、酸の水たまりを越えていく。それぞれの植物の状態を確認し、状況に応じて肥料や水を加えてやる。
彼女自身に栽培のスキルはないが、主の指示通りにやるだけだから難しいことはない。
『ふぅ。やっぱり暑いわね……』
全ての植物を確認し負え、隔離エリアを出たカミルは防護服を脱ぐ。赤い前髪がぺったりと額に張り付いていた。
『野菜は全部、リュックに詰めたのじゃ』
『やるじゃない。他のも詰めてさっさと行くわよ』
リュックサックを背負ったT-1を軽く褒め、彼女自身も同じものを背負う。これがなければ大量のアイテムを運搬することができないのだ。
カミルはT-1と共に別荘地を抜け、〈ワダツミ〉の市場へと向かう。その一角に、主が契約している無人販売所があった。
『結構売れてるわね。回収して、補充して……』
この無人販売所はそこそこ人気があるようだ。8割ほどの商品がすでに売れて、代金が置かれている。
カミルはそれを回収し、リュックサックに詰めてきた商品を並べる。全てを置くことはできないが、夕方に来ればいくつか売れているだろう。後でその隙間に置けば問題ない。
『のう、おいなりさんを食べていかぬか?』
『ダメに決まってるでしょ。さっさと行くわよ』
店先に稲荷寿司を並べた露店を見つめて涎を垂らすT-1を一蹴し、カミルはすたすたと歩き出す。T-1は悲しそうな顔でそれを追いかけ、二人はそのまま〈ワダツミ〉から〈ウェイド〉へと移動した。
二人はメイドロイドではあるが、主から都市間の移動を許されている。フィールドに出ることはできないが、公共交通機関を利用することはできるのだ。
土蜘蛛ロープウェイで崖を登り、高速装甲軌道列車ヤタガラスで地上前衛拠点シード02-スサノオへと入る。
瀟洒で垢抜けた町並みの一角、喫茶〈新天地〉二号店の裏手に、〈白鹿庵〉のガレージは存在する。登録上は本拠地ではあるが、最近は倉庫としての利用がほとんどだ。
『やっぱり埃が溜まってるわね』
『そうかのう?』
扉と窓を全て開けて、風を通す。
カミルは窓枠に薄く積もった埃を指で拭って顔を顰めるが、T-1は小首を傾げるのみだった。
『掃除するわよ』
『ぐええ……』
予定にはないが、やるべきだろう。
カミルは早速箒を取り出し、バケツとモップをT-1に押しつける。主は月に一回点検してくれれば十分だと言っていたが、やはり3日に一度くらいの頻度でしたい。これは彼女の気持ちの問題だった。
昼頃から数時間かけて、みっちりと掃除を行う。痛んだ床板を張り替え、窓ガラスを曇りがなくなるまできっちりと磨く。ドアノブから照明の傘に至るまで、見逃すようなことはしない。
掃除が終わった頃には日が傾き、T-1も疲労困憊の様子だったが、カミルは晴れ晴れとした表情だった。
『ふぅ、はぁ。やっと終わったのじゃ』
『何言ってるのよ。今から本題に入るのよ』
悲鳴を上げるT-1を叱咤激励し、カミルは倉庫にしている部屋に入った。普段は使わない素材系のアイテムをこちらに収納し、代わりに必要になったものを持ち出すのだ。
持ち出すものは主や〈白鹿庵〉所属の仲間から注文されるものがほとんどだが、一部カミルやT-1が個人的に必要になったものもある。とはいえ、それも最終的には〈白鹿庵〉のために必要なものだが。
『こ、今度こそ終わったのじゃ……』
『じゃ、〈ワダツミ〉に帰るわよ』
『ひええ』
もはや這々の体のT-1を掴み、カミルは帰路に就く。しかし、ガレージの表に建つ〈新天地〉の前を通ると、突然声を掛けられた。
『あれ、カミルちゃん!』
『ミモレ!?』
声を掛けてきたのは、カミルによく似たFF型NPCの少女だった。青色の目を丸くして、メイド服の裾を上げて〈新天地〉の店内から飛び出してきた。
彼女の名はミモレ。カミルの姉にあたるNPCで、過去には迷惑も掛けた。〈ウェイド〉の〈新天地〉でウェイトレスとして働いており、その件もあってたまにカミルもアルバイトとして手伝っていた。
『来てたなら、一声掛けてくれれば良かったのに』
『別に、用はなかったもの』
『そっか』
つんと唇を尖らせそっぽを向くカミルに、ミモレは薄く微笑む。彼女もカミルの性格についてはよく知っていた。
恐らく、気恥ずかしくて理由なく顔を見せるのは嫌だったのだろう。〈白鹿庵〉のガレージからは直接ドア一枚で繋がっているというのに、わざわざ遠回りして出入りしていた。その割には、正面の窓から見えるように通りを歩いていたのだから、本心はどこにあるのか。
『ミモレか。元気そうじゃの』
『T-1さん。いつも妹がお世話になってます』
『アタシがお世話してるのよ!』
ミモレもT-1のことは存じている。様々な事情を全て理解しているとは言いがたいが、彼女をもう一人の妹のように思っているようだ。
『カミルもしっかり働いてるみたいで、安心したわ』
『もうずっと働いてるでしょ。舐めないでよ』
『ふふ。そうでしたねー』
むっとするカミルに、ミモレはニコニコと笑みを深める。彼女の生意気な性格も、事情を知っていれば可愛らしいものだ。
『ミモレも仕事があるんでしょ。さっさと戻りなさいよ』
『それもそうね。じゃ、また会いましょう』
ミモレが手を振る。いかに上級NPCとはいえ、長々と持ち場を離れて雑談に興じていられるわけではなかった
『ふんっ』
カミルはT-1の手を引いてその場を去る。
『達者でのー』
T-1が代わりにミモレへ手を振り返し、二人はそのまま来た道を戻っていった。
〈ワダツミ〉に着いた頃には、周囲は暗くなり町の明かりが目立ち始めていた。市場は変わらぬ活気に溢れていたが、その中にはフィールド帰りの戦闘職の姿が増えているようだった。
カミルとT-1は再び少し売れていた露店の商品を補充し、別荘地を目指す。その道すがら、カミルはふいにT-1へ手を差し出した。
『ほら』
『うむ? ぬあっ!? お、おいなりさんじゃ!』
彼女の手に握られていたのは、小ぶりな稲荷寿司が詰められた箱だった。昼間、T-1が視線を向けていた露店のものだ。
いつの間に買ったのかとT-1が目を見張るが、カミルは詳しいことを伝えようとしない。
『いいから食べなさいよ』
『よ、よいのか? 毒など仕込んでおらぬじゃろうな?』
『アタシをなんだと思ってるのよ! ……〈ウェイド〉のガレージの掃除は予定になかったから、臨時ボーナスよ』
『おおっ! ありがとうなのじゃ!』
適当な理由を付けてやると、T-1は無邪気に喜んで箱を掲げる。
こんなに単純な奴が指揮官でいいのだろうか、とカミルは少し心配になった。そして、ちらりと盗み見る彼女の目の前に、T-1が箱を差し出した。
『……なによ?』
『ひとりで全部食べるのも勿体ないからのう。半分こするのじゃ』
『…………。あっそ』
T-1の黒い瞳をまじまじと見つめた後、カミルはそっと稲荷寿司を一つ掴む。
メイドロイドは必要なエネルギーを休息中に補充できるため、本来食事は必要ではない。とはいえ、それを言うのは無粋だろう。
長い経験の中で、彼女もそんなことが少しずつ分かってきた。
『む? 別荘に明かりが付いておるな』
『ほんとね。誰か起きてきてるかも』
海に面した別荘の窓から、黄色い明かりが漏れている。〈白鹿庵〉の誰かが目を覚ましているようだ。
『早く行くのじゃ!』
『分かってるわよ。そんなに走るな!』
ぱたぱたと駆け出すT-1の後を追って、カミルも走る。その足取りは不思議と軽く、海風の撫でる頬は赤く温まっていた。
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広い円形闘技場の中央に、体長1メートルほどの黒い獣が立っている。四本の足で石の床を踏みしめ、長いマズルから闇色の牙を覗かせている。
何よりも特徴的なのは、全身から滲み出る黒い霞だ。それによって輪郭は曖昧で、動きも予測しづらい。前に出たレティは油断なくハンマーを構えていた。
「“汚穢のクソト”、なんだかばっちぃ名前ですね」
目の前の獣を鑑定したレティが顔を顰める。
恐らく、これも黒神獣の一種であるはずだ。
「さっさと倒しますよ!」
「分かってますよ!」
レティとトーカが共に駆け、瞬く間にクソトの眼前に迫る。
「あ、姉さ――」
隣でミカゲな何か言い掛けたが、もう遅い。
2人は幾重もの強化を自身に施し、最大火力を叩き込む。
「彩花流、肆之型、一式抜刀ノ型、『花椿』ッ!」
「咬砕流、一の技、『咬ミ砕キ』ッ!」
鎚と刀が交叉し、互いに合わせるようにして間に黒獣を挟み込む。逃げ場を失った黒い犬型の獣は、絹を裂くような断末魔を上げて潰された。
「オラァ! って、あれ?」
「もう終わり、ですか?」
気合いを入れて勢いよく攻撃を始めた2人は、驚くほど呆気ない決着にぽかんと口を半分開く。
クソトは何の反撃もせず、ただその身を潰され、石の舞台にどろりと溶け広がっていた。
「これだけで終わるはずがありません。気をつけて!」
緊張の糸を切られたレティたちに、アイが鋭く注意を呼びかける。その時だった。
「うぐっ!?」
「ぎゅえっ!」
床に溶けたクソトの亡骸がボコボコと泡立つ。ドロドロと粘度の高い液体となって、動き始めた。その直後、側に立っていたレティとトーカは一斉に手で口と鼻を覆い、くの字に身体を折り曲げながら後退した。
2人の反応に首を傾げていた俺たちも、すぐにその理由を身を以て知る。
「おええ……!」
「くっさ!」
鼻の奥に染み渡るような汚臭が立ち込めたのだ。
青い顔をするレティたちと共に、舞台の壁際まで後退する。それでも臭いから逃れることはできず、阿鼻叫喚の地獄が広がった。
「し、死ぬ! 鼻が曲がって死んじゃいます!」
特にレティは大変そうだ。
犬型ほどではないにせよ、彼女もライカンスロープなので鼻が良い。今回はそれが仇になったようだ。
レティが涙目でのたうち回っている間にも、クソトは動き続ける。ボゴボゴと黒い粘液を激しく動かし、再び形を作り始める。
「っ! あの大きい獣はそういうことでしたか」
鼻を摘まんだまま、トーカがクソトを睨み付ける。
彼女の目の前でクソトは再び四足獣の姿となった。しかし、先ほどよりも一回り大きくなり、牙や爪も鋭くなっている。
俺たちの前に、4人の獣人パーティが戦っていたあの獣は、クソトが何度か甦った後の姿だったらしい。
「ぐへぇ。し、死ぬかと思いました……」
幸い、クソトが完全に姿を固定すると異臭も収まる。
レティはぐったりとした表情だったが、鎚を支えにしてよろよろと立ち上がる。そうして、ルビー色の瞳を鋭くして黒獣を睨み付けた。
「絶対に許しません。完膚なきまでに叩き潰してやりますよ!」
「ちょ、レティ!?」
意気軒昂に叫ぶと、彼女は猛然と走り出す。
止める間もなく彼女は再びクソトへと接近し、高く鎚を振りかざした。
「『ヘビィクラッシュ』ッ!」
ぐちゃり、と水っぽい音がする。
レティのハンマーはクソトの頭蓋を粉砕し、周囲へ散乱させた。それを見届けて、彼女はすぐさまこちらへ退避してくる。クソトの身体が再び、グチュグチュと泡立ち始めたのだ。
「あんまり考えなしに攻撃するな。また強くなるだろ」
「強くなったらなっただけ叩き潰すだけですよ!」
鼻息を荒くしてレティが吠える。
「ぐ、ぐえええ」
「ぺっぺっ! 口の中まで苦いよぉ」
再び異臭が闘技場に充満する。
今度は先ほどよりも更に濃密な、腐った雑巾のような臭いだ。普段は凜々しい女性陣が、悲惨な表情でのたうち回っている。
当然、俺も例外ではない。
「ほら、やっぱり大きくなったぞ!」
そうして、クソトは再び復活する。
体長は3メートルに及び、足は太く筋肉質に。荒く息を吐く口からは鋭利な牙が伸び、全身の毛並みも豊かになっている。依然として濃い黒色の霞が全身から立ち上がり、発熱しているようにも見えた。
鋭い爪で地面を掻き、品定めをするかのように俺たちを睨んでいる。
「何度だって倒してやります! 最後に立つのはレティでぐべっ!?」
「……ちょっと待って」
立ち上がったクソトを見て、駆け出すレティ。しかし、突如飛んできた糸が足に絡まり、彼女は派手に転倒する。顔面から倒れ込んだレティの前に立ちはだかったのは、黒い覆面をしたミカゲだった。
「ミカゲ!? 危ないじゃないですか!」
「落ち着いて。攻撃するだけじゃ、アイツは倒せない」
耳をピンと立てて怒るレティを、ミカゲは平坦な口調で諫める。
「レッジ、アイツの動き、止められる?」
「任せとけ。『強制発芽』!」
ミカゲの呼びかけに応え、懐から種瓶を取り出して犬に向かって投げつける。中に入っているのは“絡み蔦”という植物だ。
放物線を描いて飛んだ種瓶が、クソトの鼻先に当たって砕ける。中の種が栄養液を吸収し、爆発的に蔓を伸ばした。それは瞬く間にクソトの四肢を固く縛り付ける。
「とりあえず、5分くらいは大丈夫かな」
「滅茶苦茶な性能してますね……」
アイが驚いて言葉を零すが、俺としても少々予想外だ。
何故かは知らないが、クソトは積極的に襲い掛かってきてはいない。絡み蔦で縛られても、唸るだけで藻掻く様子も見られなかった。
「それじゃ、説明してもらいましょうか」
足に絡まった糸を外し、立ち上がりながらレティが口を開く。彼女の追及にミカゲは一つ頷いた。
「アイツは多分、攻撃を加えれば加えるほど強くなる。いわゆる、呪詛返しをする敵、だと思う」
呪詛返し。それは、呪術の一つだ。
他者から呪いを掛けられた際、その力を術者に返し身を守るというもの。ミカゲは、あの獣がそれを行っているのだと推測していた。
「呪詛返し、ですか」
「うん。攻撃を受ける、つまり恨みが向けられる。それを自分の強さに転化して、相手にぶつける」
だから、クソトは甘んじてレティの攻撃を受けていたのだ。彼女たちを倒す武器を得るために。
「それじゃあ、どうすればいいんですか?」
攻撃できなければ、倒せない。この中で最も高い物理攻撃力を誇るレティは口を尖らせる。
それに対して、ミカゲは一枚の白い紙片を取り出して答えた。
「ダメージだけを通して、“怨嗟”を吸収する」
ミカゲが手に持っているのは、形代と呼ばれるような人の形を模した紙片だった。彼は身を翻し、蔦に絡まったままのクソトへと向き直る。
「其の身に残る澱を祓え。其の身に溜まる泥を除け。其の身に籠もる陰気を流せ。其の身に宿る穢れを拭え。『呪授滅身形代封』」
手で印を切り、形代を投げる。それは紙とは思えないほど真っ直ぐに飛び、クソトの鼻先にぺたりと張り付く。
その瞬間、シュウシュウと音を立て黒い煙が立ち上った。クソトは悶絶し、今までとは一変して激しくのたうち回る。
白い形代が、徐々に黒く染まっていくのが見えた。
「ミカゲ!」
「これでいける、と思う」
それを聞いて、レティとトーカは今度こそ一気呵成に飛び掛かる。
「往生せいや! ですよ!」
「『一糸乱斬』ッ!」
2人の攻撃。
鋭い切り口から、赤黒い血が勢いよく吹き出す。今度こそ、クソトは激痛に絶叫した。
それに手応えを感じたレティたちは、間断なく次の攻撃を繰り出す。
絡み蔦も仕事をして、クソトは一方的に嬲られ続ける。
そのたびに黒獣の身体は削がれ、徐々に小さく萎んでいく。2人の攻撃は熾烈を極め、汚臭の恨みも相まって留まることを知らない。
結果、クソトは一切の反撃を許されないまま、黒い靄となって消えてしまった。
『ガ、ガガ。……いまーす! ……一……門、汚穢……ソト討伐……ッ!』
再び、ぎこちないアナウンスが鳴り響く。これも奇妙だが、まずはミカゲだ。
「ミカゲ。もしかしてクソトの事を知ってたのか?」
あまりにも鮮やかな問題解決だった。
前のパーティはそのことが分からず、ああしてクソトに倒されていたのだ。それを彼はこちらに被害が出る前に看破した。
周囲の視線が集まる中、ミカゲは言い淀む。
「知ってたわよ。一応ね」
代わりに声を上げたのは、三術連合の1人、占星術師のアリエスだった。彼女に続き、ぽんも口を開く。
「三術連合は各地の情報資源管理保管庫での文献調査もしています。その時、“汚穢のクソト”の名を見つけていました」
「そうだったのか……」
とはいえ、彼らもそれとこんな所で出会うとは思わなかったらしい。ミカゲが対処法を覚えていたのは、ただの偶然だ。
「つまり、次に出てくる敵の事も分かるってことですか? ――例えば、“叛逆のサカハギ”とか」
硬い声でアイが言う。
彼女の視線の先、舞台の中央で再び黒い靄が集まっていた。それは徐々に形を取り始める。
それは、太い体躯の荒馬だ。毛並みは闇のように黒く、獰猛にたてがみを振って、蹄で地面を掻いている。
「“叛逆のサカハギ”。反転と裏切り」
ミカゲがその名と性質を伝える。
「じゃあ、私が行きましょうか」
それを聞いて手を上げたのは、白い手甲を嵌めて口元に笑みを浮かべたエイミーだった。
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Tips
◇“汚穢のクソト”
[閲覧権限がありません]
――権限承認。閲覧制限を解除。
第一級封印指定対象。吸収還元術式融合個体。高度情報極微細粒子凝集個体。敵性情報修正術式侵蝕率76%。情報再修正術式適応状況、なし。現在、〈最重要奪還目標地域;看守のコシュア=エタグノイの監獄闘技場〉にて禁錮中。簡易輪廻循環システムにより、状態安定。予定禁錮期間、無期限。
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