第94話「下層からの歓迎者」
細かな白泡が無数に立ち上がり、複雑な水流にかき乱される。
髪が乱れ、視界が横転する中で、彼女たちは懸命に腕を動かし光を目指して藻掻く。
「――ぷはっ!」
荒く波の立つ水面から顔を出し、レティは新鮮な空気を肺の中に詰め込んだ。
「ラクト、エイミー! 無事ですか」
「な、なんとか」
「ごぼっ、げほっ……。うええ……」
着水の衝撃で三人のLPは半分以上削れていた。
ラクトに至っては残り一割も無く、殆ど棺桶に身を埋めかけていた。
「やっぱり滝から落ちても無事でしたね」
棒状のまま硬直したスケイルフィッシュに身体を預け、額に張り付いた前髪をかき上げながらレティが言う。
見上げれば、遙か彼方から勢いよく膨大な水が降り注いでいる。
彼女たちはその長大な距離を落下し、辛くも一命を取り留めていた。
「この子がいなかったら溺れてたわね」
エイミーはスケイルフィッシュの白い腹に胸を乗せ、ぐったりとして言う。
スケイルフィッシュはHPを全損し事切れていたが、それが浮きとなって彼女たちは荒波に揉まれながらもなんとか酸素を取り続けられていた。
「とりあえず、陸に上がらない?」
顔を青白くさせたラクトの言葉で、三人は怪魚の身体にしがみついたままちゃぷちゃぷと岸まで泳いでいった。
「しかし、滝壺とは言っても流石の広さですね」
滑らかな砂の堆積した岸に上陸し、レティは振り返る。
左右に長く広がる瀑布の下に穿たれた滝壺は、もはや小さな湖と言って良いほどの面積を誇っている。
「レッジはどのあたりに流れ着いたんだろう」
ラクトは不安げに首をふり、周囲を見渡す。
視界の届く範囲には彼が居た形跡を見つけられない。
「とりあえずマーカーの方角へ進みましょう。LPは大丈夫ですか?」
「うん。3割くらいかな」
「流石に回復が早いわね」
最大量の代わりに生産速度の強化を行っているラクトの勾玉は、レティやエイミーとは比較にならないほどのスピードでLPを回復していく。
少し休めば、慎重に進むことくらいはできるようになるだろう。
「とはいえ物資がないことには代わりないし、あくまでも慎重にね」
「上層と違って、新しい原生生物もいるでしょうし」
満を持して解放された新たなフィールドだ。
新種の原生生物が上層のスケイルフィッシュだけということはないだろう。
「そうだ、通信はできますか?」
「ちょっと待って。……だめね、悪化してるわ」
エイミーがディスプレイを操作して項垂れる。
上層の頃は、レッジ以外のフレンド登録をした人と連絡が取れる状態にあった。
しかし現在は、彼らも例外なく灰色の文字で表示され発信することもできない。
「……ねえ、ちょっと思ったんだけどさ」
LPを回復するため、〈アーツ技能〉の『スリープ』を使っていたラクトが目を開いて言う。
「スサノオから離れすぎたから圏外になった説、みたいな」
「ええ、そんなことありますか?」
遠慮がちなラクトの意見にレティは眉を寄せる。
しかしエイミーは顎を引き、興味深そうに頷いた。
「なるほど……。上層までがギリギリ圏内だったのかしら。だから下層にいるレッジとは連絡が取れなかったってことね」
「スサノオ、ていうかツクヨミってそんな貧弱なんですか?」
「ツクヨミも通話の中継ばっかりやってる訳じゃないでしょうし、むしろ副業なんでしょう」
「なんかがっくりしました」
レティは夜空を見上げ、準静止軌道上に列を成している筈の衛星たちに思いを馳せる。
「もう夜ですね。早いところレッジさん見つけて帰りましょう」
「そうだね。わたしも回復したし、出発できるよ」
「戦闘は出来ないけど、守るくらいならなんとかなるわよ」
レティとラクトは攻撃力こそ高いものの、防御力は貧弱の一言で断じられる。
こうした未知の領域での行動、それも物資に乏しく消耗の激しい状況下では、より一層エイミーの守りが頼もしかった。
エイミーは鈍色の盾を構え、堂々と胸を張る。
彼女が先頭に立ち、一行は夜の迫る水辺を歩き出した。
「ううう、なんかすっごい声聞こえるんだけど……」
「環境音でしょ。気にしてたらキリが無いわよ」
レティのジャケットの裾を掴み、ラクトが肩を小さく縮める。
暗い森の奥からは、木々のざわめきと滝の轟音に混じって猛獣の咆哮のようなものが聞こえていた。
「レティはよく平気でいられるよね」
「耳が良すぎると、逆に鈍感になりますからね」
尊敬の眼差しを送るラクトを見て、レティは達観した顔で答える。
凪のように穏やかな表情でテンポ良く歩く姿は、彼女なりの現実逃避なのだった。
「けど明かりがないのは不便ね。視界が悪いと奇襲に対応できないわ」
既に日は完全に沈み、周囲は墨のような暗闇に染まっている。
レッジが居ればランタンの明かりで視界も確保できたのだが、彼を探す状況ではそれも叶わない。
「そういえばレティ、〈野営〉スキル持ってるのよね」
「ランタン持ってませんよ。〈野営〉も下げてないからあるだけですし」
期待の籠もったエイミーの視線を避けて、レティは気まずそうに言う。
こういう事態に陥ると分かっていたなら彼女もランタンをインベントリに入れて来たが、普段は重量を節約するためスサノオのストレージに置いてきている。
「そっかぁ、なら仕方ないわね……」
そもそも夜という時間帯にフィールドへ出るプレイヤーは少ない。
視界的に不利ということもあり、危険性が昼間とは比べものにならないほどに上がってしまうからだ。
「ぴっ!?」
ぞろぞろと列を成して水際の砂地を歩いていると、突然ラクトが短い悲鳴を上げる。
即座にエイミーが防御態勢を取り、レティがハンマーを構えるが、生物の気配はない。
「ラクト、どうかしましたか?」
「な、なにか物音がしたような気がして……」
そう言ってラクトは不思議そうに周囲を見渡すが、自然の立てる音のなかに生物の気配は感じられない。
ラクトは恐怖心からくる過剰反応だと判断し、二人に謝った。
「ごめんなさい。先に進もう」
「ここはレティたちも初めての場所ですから。常に警戒はしておきましょう」
レティはしゅんとするラクトの髪を撫で、優しく慰める。
その時、突然エイミーが視線を鋭くして腰を落とす。
双盾を構える彼女にレティ達が気付くのと同時に、前方の暗がりから巨大な影が現れた。
「さっそく歓迎されてるわね」
「物音の正体はこいつですか」
レティもハンマーを構え、ラクトもアーツの準備をする。
その獣はゆっくりと四つ足で歩き、彼女たちのもとへと近づいてくる。
影の中から露わになった姿を見て、彼女たちは大きく目を見開いた。
「ワニ、ですか」
「大きいわね。丸呑みにされちゃいそう」
それは逞しい身体をしならせて、彼女たちを見下ろす。
深緑の鱗は濡れて月明かりを反射し、のこぎりのような牙が口の隙間から覗いている。
「倒せますかね」
「分かんないけど、逃げられもしなさそうね」
エイミーの言葉と同時に、ワニは弾かれたように動く。
大きく顎を開けて飛びかかるワニを、エイミーは真正面から受け止める。
「『ガード』! く、受けきれないわね」
盾を噛まれたエイミーが苦悶の表情を浮かべて言う。
鋼牙の双盾では激しいワニの攻撃を受け止めきれず、若干ではあるがダメージが貫通していた。
「うぉぉお、『破砕打』!」
ワニがエイミーの腕を噛んでいる隙を突き、レティがハンマーを振り上げる。
白い腹の中心を捉えた渾身の一撃は、しかし分厚い脂肪の層によって阻まれる。
「ちぃっ」
「『
そこへラクトのアーツが飛来する。
精密に狙いを定めて放たれた氷の矢は一直線に空を切り、ワニの眉間に突き刺さる。
流石のワニにもそれは届いたようで、巨体が大きく仰け反る。
「く、全然ダメージが入らない!」
しかし、ワニは体勢を崩すだけに終わる。
低コスト低威力のアーツとはいえ、ラクトの予想よりも遙かに少ないダメージしか与えられていなかった。
「これは、ちょっとダメね」
歯形の付いた双盾を振ってエイミーが言う。
こちらに決定的な矛はなく、あちらの攻撃を受け止められる盾もない。
状況は圧倒的に不利だった。
「逃げるわよ」
「追いかけてきませんかね」
「このまま戦っててもジリ貧だし、足が遅いことに賭けましょう」
そう言ってエイミーは盾を構える。
荒い鼻息を立てて猛るワニが、勢いよく彼女に向かって突進し、
「『スタンガード』!」
エイミーはワニの下顎に潜り込むように移動して、思い切り盾をたたき上げる。
固い衝撃は的確にワニの脳天を貫き、視界を明滅させる。
「いまよっ!」
エイミーのかけ声で、彼女たちは走り出す。
ワニが目を回している内に少しでも距離を稼ぐ。
「く、もう回復したわね」
しかし野生の能力は力強く、エイミーの見積もりよりも早くワニは正常な視界を取り戻す。
その上、更に彼女たちにとっては不幸な事に、ワニは驚くほど機敏な動きで彼女たちに追随していた。
「っ、このままでは追いつかれます!」
「ラクト、私の背中に」
「ごめんっ」
エイミーはラクトを背負い、レティと共に懸命に走る。
一日で二度も原生生物に追われることになろうとは。
彼女たちは己の不運を嘆く。
「――ッ」
その時だった。
彼女たちを追うワニの更に背後から、鋭い煌めきが飛来する。
『ガァアアッ!?』
ワニは背中を海老反りにして跳ね上がる。
レティ達は思わず振り向き、ワニがブルブルと身体を震わせて倒れている様子に驚く。
「な、何が起こったんです!?」
「分かんない。でも今がチャンスよ」
たじろぐレティの肩を引き、エイミーは走り出す。
そうして彼女たちは小刻みに痙攣するワニを置いて森の暗がりへと消える。
「……」
そんな彼女たちを、後方の木陰から覗く視線があった。
人影は離れていく三人の背中を眺めながら、物憂げに小さく息を吐く。
微かな吐息は風に紛れ、彼女たちには届かない。
そうして影は音もなくブレ、次の瞬間そこには無人の暗い森だけが広がっていた。
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Tips
◇スケイルフィッシュ
全身を硬い鱗で覆った巨大魚。呼吸機能が発達しており、短時間であれば陸上でも活動ができる。筋肉の塊でもある太い身体は少ししならせるだけでも破壊的な力を周囲に及ぼす。高所恐怖症。
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