第219話 失ってはいけないもの
ある日、五林町教会にて。
薫と武蔵がくだくだしていた日のお話。
「あ~……、うーあー……」
「……どうした薫、獣みたいな声出して」
「別にー……なんでもねぇよー……」
「いや、絶対なんかあるじゃろ」
「ないってー……」
と言いつつ、唸り声を上げ続ける薫。
椅子の上でゴロゴロしながら唸るその様子は、悲しいくらいに堕落の極みだった。
「……暇なのか?」
「まあなー……。ヤケッパチも宇水もアウラも居ねえんだもん。やることが何にもねえんだ……」
「それでここに来たのか?」
「ああ、他に行くとこねえし」
背もたれに足を掛け、ぐでぐでする薫。
武蔵はそんな薫を見てわざとらしく「はぁ」とため息をこぼす。
「やれやれ……。神聖な教会を公民館のように使われても困るんじゃがな」
「……」
「どうした?」
これまたわざとらしく嫌味を言ったのだが……薫は怒らず黙ってじっと武蔵を見ていた。
「なあ、前から気になってたんだけどよ」
「なんじゃ?」
「お前さ、結局何者なんだ? 宮本武蔵って名乗ってるけど、マジで武蔵なのか? それならどうやって今日まで生きてきたんだ? なんで教会で神父してるんだ?」
「おお……まとめて質問してきたな」
はははと笑いながら武蔵はそっぽを向くが、薫はそれでも武蔵を見続けていた。
「……誤魔化せない感じじゃな」
「別に、お前が言いたくねえってんなら言わなくてもいいけどよ」
「言いたくない、って訳でもないんじゃけどな。まあ話せる範囲で話すとするか」
武蔵はそう言いながら薫の横に腰を下ろした。
「と言うか、お前昔から儂に疑問感じてたのか」
「普通感じるだろ。カソック着た髭面のジジイに『儂、武蔵』って言われて素直に信じる馬鹿いると思うか?」
「それもそうじゃな。……さて、お前は儂が何者なのか知りたいのじゃろ?」
「ああ」
「それなら答えは一つ。やはり儂は宮本武蔵じゃよ」
「……」
胸を張って自信満々に武蔵は答えるが……もちろん薫は呆れ顔である。
「なら、お前どうやって今日まで生きてきたってんだ? その言葉を正直に信じたら、お前今400歳以上ってことになるぞ」
「……そうじゃな。どうやって生きてきた、そう言われても一言で説明するのは難しいな」
「……?」
「簡単に言えば『失ってはいけないもの』を捨てた代償とでも言えばいいかの」
「失ってはいけないもの?」
武蔵の言葉の意味が理解出来ず、訝しげに武蔵を見る薫。
そんな薫の表情は気にせず武蔵は話を続ける。
「本当に、いろいろあったんじゃよ。昔儂は『失ってはいけないもの』を捨てた。刹那の快楽と欲に負けてな。その結果、今も無様に生き続けているという訳じゃ」
「……なんなんだよ、『失ってはいけないもの』って」
「分からんか?」
ニヤッと笑い、薫を見る武蔵。
しばし薫は考え込むが……なかなか思いつかない。
「なんだ? 友人とかか?」
「それは『失いたくないもの』じゃろ? 『失ってはいけないもの』とは違うさ。それは絶対に捨ててはならないものじゃ。武士以前に、男以前に、人ととしてな」
「……?」
「『誇り』じゃよ。何があってもこれは捨ててはならない」
「誇り?」
誇り、とはどういうことなのか。
言われた所で結局薫には理解出来なかった。
「なんだ? つまりお前は昔、誇りを捨てたって言うのか?」
「ああ、捨てた。欲に負け誇りを捨て、失った。それは絶対に、絶対にしてはいけないことだったと気づいた時には、もう全て遅かったがな……」
「……何がったのかは知らねえけどよ。それが、誇りを捨てたことが一体お前の不死身とどういう関係になるんだよ?」
「……それは、また今度な」
「はあ!?」
結局、一番気になるところをはぐらかされ不機嫌そうな顔をする薫。
武蔵はそんな薫を見て少し笑いつつ、昔のことを思い出していた。
―遥かな過去―
負けたくなかった。
負けたくなかった。
勝ちたいのではなく、負けたくなかった。
それが卑怯なことは少なからず自覚はしていた。
でも、そんなことはブレーキにはならない。
歪んた自尊心は止まること知らず、子供のように騒ぎ続ける。
負けたくない。
負けたくない。
誰にも負けたくない。
勝てなくてもいい、勝たなくていい。
でも負けたくはない。
誰にも、絶対に、負けたくない。
醜く、悍ましく、そして……少しだけ虚しく。
彼はそう叫び続けた。
しかし、そんなことを叫びながら努力はしなかった。
鍛錬も、修行も、特訓も、練習もしない。
ただ『結果』だけを求めた。
努力はしたくない、だから勝てなくもいい。
だけど負けたくはない。
結果として、その醜い叫びはなんと叶えられることになった。
世界には願いを叫び、そして叶えられない者が多くいるなか。
この醜い願いは叶えられることになった、なってしまった。
彼が、改心するほどに大きな代償と引き換えに。
次回 220話「月満ちる夜、再び……」
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