第34話 約束

 机の上に置いた時計の長針が6を指したのを見ると、やりかけの問題集をぱたりと閉じた。最低限の荷物を小さめの手提げ袋に詰め込み、藍色のキャスケットをかぶって部屋を出る。


「薫、どこ行くの」リビングから母が顔を出したが、靴に足を入れながら適当な返事をする。

「ちょっと行ってくる」

「何時くらいに帰るの」

「そのうち」


 8月末だというのに暑さはまだまだ厳しく、焼けつくような日差しが肌を刺す。帽子を目深にかぶって自転車にまたがるとぐっとペダルを踏み込んだ。今日の行き先は母校の柴川中学校ではなく、その向こうにある柴川小学校だ。


 早いもので、コンクールから既に1週間が経とうとしていた。コンクールの反省を終えるとすぐに文化祭の練習へとシフトしていたが、どこか気持ちが入らないのは否定できなかった。


「明日4時、小学校前で」

「は?」


 昨日の部活中、すれ違いざまに一方的に告げられた私は、ぽかんとして悠の顔を眺めていた。自分の顔は自分では見られないが、さぞ間抜けな顔をしていたことだろう。


「っていうか、私、あんたと小学校違うんだけど」

「……確かに。じゃ、柴川小の前で」

「え、ちょっと」


 どういうつもりなのかは全くわからなかったが、断る間も与えられなかったため行かざるを得ない。部活三昧で私服に腕を通すのも久しぶりのことで、なんでこんなに悩む必要があるんだ、とため息をつく。半ばやけくそになり、ただ単に涼しいという理由で水色のワンピースを選んだ。


 3年間通い慣れたものの、数カ月ぶりに通る道を汗だくになりながら立ち漕ぎする。

 坂を上りきって中学校の前を通り過ぎるとき、かつて毎日練習に励んだ第2音楽室が見えた。中には誰もおらず何も音は聞こえてこないはずなのに、頭の中で雑多な音が流れるから不思議だ。

 中学校の前を通過し、坂を下って幼稚園を越えたところが柴川小学校だ。柴川中には市内の3つの小学校が集まるため、悠のように柴川小から来た人もいれば、私のように違う小学校出身の人もいる。

 自転車を押しながら悠の姿を探していると、校門の前に一際目を引く立て看板が置かれていた。「そういうこと、か」

 柴川っ子まつり。そうでかでかと書かれた文字には見覚えがあった。柴川小のPTAを中心に毎年開催されている地域の夏祭りで、柴川中吹奏楽部はそのオープニングとして演奏させてもらっていた。コンクール明けの2・3年生はもちろんのこと、4月に新しく入学した一年生がデビューする舞台でもある。例年だともう1週間ほど早かった記憶があるが、台風の影響で延期になっていたのだろう。


「よ!」ぼんやりと他人の流れを見ていると、耳元で急に声がしてその場で飛び上がった。

「なんであんたもいるの?」


 悪びれる風もなくにやにやとしている池下隼人はやとを軽く睨みつけた。少し離れたところで悠がこちらを見ながら気まずそうにしている。


「そりゃ、わいが悠を誘って悠が水谷を誘ったからやろ。あれ、ひょっとして、悠、俺も来ること言ってなかったんか」

「……ああ」

「意地悪なやつやな。あ、二人っきりの方が良かったか」

「全然! そんなことない! むしろ、その方がいいまである!」


 全力で首を横に振ると、髪先が顎や首筋に触れてこそばゆい。切りたて特有のやわらかさと艶やかさを感じて自然と口元が緩む。

 辺りには大勢の人が集まっており3人並んで歩くことは憚られた。悠が後ろを歩いていることを確認しつつ、指定された自転車置き場まで押して歩く。


「関西のときより髪短くなってへん?」

「うん。今日の午前中に切った。伸びてたからね」

「顔、小さなって二割増しくらい可愛くなったで」

「そりゃ、どうも」


 本当は県大会のあたりからずっと髪を切りたかったのだが、連日の練習で美容院に行く時間がなかったのだ。中途半端に伸びた髪を無理矢理ゴムでくくるものだから、時間が経つにつれて崩れてくる。何度もくくり直すたびに嫌気がさしていた。

 柴川っ子まつりの開会式は小学校の体育館で行われる。当然ながら観客はほとんどが小学生とその保護者が占めているため、私たち3人は完全に浮いていた。異物を排除するかのような視線を感じながら体育館の端の方で汗をぬぐっていたが、演奏が始まるとそんな些細なことは瞬く間に頭から消え失せた。


「ほんとに上手くなったね」


 お世辞でもなんでもなく、心の底からそう思った。もちろん、中学生らしい技術面での拙さを挙げればキリがないが、数カ月ぶりに聞いた彼らの成長は目覚ましく、OGとしては誇らしかった。

 人気アニメのテーマソングにCMで流れているJ-POPと続き、MCを担当する部員がマイクを片手に前へ出てくる。フルートの後輩で、私たちの引退後部長を務めている子だ。


「ありがとうございました。次にお届けする曲は『大いなる約束の大地~チンギス・ハーン』です。この曲は先日行われた吹奏楽コンクールにて演奏した曲で、わたしたち柴川中学校吹奏楽部は、見事関西大会で銀賞をいただきました」


 体育館の中が割れんばかりの拍手でいっぱいになる。拍手を受け深く礼をする姿に、「絶対関西行きます」と宣言した記憶の中の彼女が重なった。

 ホールで行われる演奏会と違い、奏者と観客の距離がとても近い。奏者として向こう側に座っていた頃、この打てば響くような観客の反応が嬉しかったことを思い出す。ぼくも中学生になったらあれやりたい、と舞台を指さす小学生が微笑ましい。中学生になったときにはそう言ったことを忘れているのかもしれないけれど、一人でも多くの後輩が入ってほしいと思う。


 30分ほどのステージが終わると、小学生たちは我先にと押しのけながら外へと消えた。おそらく、じきに始まる出店へと向かったのだろう。私の通っていた小学校ではこのようなイベントはなかったため、少しうらやましい。

 撤収の邪魔にならないよう、顧問に軽く挨拶をしてから小学校を後にした。自転車を押しながらだらだらと歩いていると、市内を流れる大きな川に出る。河川敷へ向かって一直線に走り出す隼人を見て、ため息をつきながら自転車を停めた。

 光を反射して輝く水面に目を細めつつ、私と悠で隼人を挟むように腰を下ろす。コンクリートで舗装されているため汚れを気にする必要はないが、ワンピースを通して熱さが伝わってきた。焼けつくような日照りは相変わらずだが、空には薄い雲がかかっていて、夏が終わろうとしているのを感じる。


「関西、見に来てたんだね」


 隼人は股を開いてしゃがんだまま近くに落ちていた小石を川に向かって投げる。ぽちゃんという音を立て、石はやがて見えなくなった。


「そりゃ、めちゃめちゃ悔しかったからな」

「あんたにとって、コンクールって何なの?」

「水谷っていつもそんなこと考えてんの?」

「そんなことないけど」


 隼人はうーん、と少し考え込みながら地面をいじっている。


「音楽で評価したり賞与えて優劣つけるのって意味ないからコンクールなんて要らんって言う人おるやんか。タイムとか点とかで決まるスポーツなんかと違って、審査員の主観で決まるところもあるし。でも、それ違うと思うねんな」


 隼人が大きく腕を振り下ろすと、放物線を描いた石は向こう岸の斜面に当たってから川に落ちた。


「特別やん。単純に。あんなに大勢の人が集まってお互いの演奏発表し合うのって、コンクールだけやろ」

「まあ、そうかも」


 複数の学校が合同で演奏会をすることはあるが、それが夏のコンクールほどの規模で行われることはない。


「自分たちの演奏、たくさんの人に聞いてもらいたいし、他の学校の演奏もめっちゃ聞きたい。だって、わくわくするやん。あの12分間には各学校の色が出るやんか。そのバンドそのものと言うてもいいかもしれん。課題曲やと、同じ作曲家が作った同じ楽譜を使ってるはずやのに、団体によって全然違う。上手いとか下手とか以上の違いがある。そりゃそうやんな、振る方も演奏する方も、血の通った人間なんやから。やから、面白い」


 な、と笑った顔は晴れやかだ。少し日焼けした顔に白い歯が眩しい。


「世の中には自分の知らん曲の方が遥かに多い。いろんな学校が集まるコンクールの場やから、こんなええ曲あったんか、っていう発見もあれば、聞き飽きた思てた曲に新たな発見もある。南大阪の第六とかはそのパターンやった。あの曲あんなにいい音するんやな」


 桑島先生の母校でもある南大阪高校は圧巻の演奏をし、全国大会へと着実に駒を進めていた。南大阪が今年自由曲に選んだ『第六の幸福をもたらす宿』は演奏される回数も多く、聞く側の耳も肥えた状態に違いないが、それでもホールを感動の渦に巻き込んだ。


「やから、あの特別な場で演奏して、それを聞いた誰かが何かを感じるんやったら、演奏して意味ないことなんか絶対にないねん。たとえそれがマイナスの評価やとしても」

「そっか」


 隼人から視線を外して対岸を見ると、大きな鳥が羽ばたくことなく悠然と空を舞っていた。


「まあ、いろんな人に聞いてもらおう思たら、県・支部・全国って勝ち上がる必要があるから、結局は結果が欲しいってことになるんやけど」

「私たちの演奏、どうだった? 正直にでいいよ。あんたの感じたこと、聞きたい」

「まあ周りのレベルが高いからな。全国行ったとことかと金のところとかと比べたら聞き劣りするな。でも、県大会のときとは同じ学校とは思えんかった。県のときは荒い部分も多かったし、なんかちょっと窮屈そうやってんな。そんときも悔しいぐらい上手かったんやけど。でも関西では緻密さもあったし、なんていうか、音ものびのびしてた」


 審査員から各学校に渡される講評用紙も当然ありがたいが、飾らない素直な友人の抱く感想も嬉しいものだ。


「あ、あと」

「なんなりとどうぞ」

「理玖ちゃんのかわいさに磨きがかかってたな」


 隼人は理玖の姿を思い出しているのか、恍惚とした表情を浮かべていた。期待した自分が馬鹿らしくなってくる。


「……そういうところよ」

「何が?」

「っていうか、彼女の名前なんで知ってんの?」

「本人から直にきいてん」

「……そういうところよ」


「数ヶ月単位じゃなくて数週間、数日単位で成長できるってことだな」


 それまで黙って聞いていた悠がぽつりと言った。


「そう! さすが悠。でも、短期間で劇的に成長できるからこそ、忘れそうになるんや。忘れたらあかんし、忘れるのが怖い」

「何を?」


 川の対岸よりもさらに遠くを見る隼人の表情は、先ほどとはうってかわって真剣で、それでいて寂しげだ。


「知ってるか? 1年や2年なんて、あっという間なんやで」


 はっとしてつばを飲み込むと、ごくりと喉が動くのを感じた。


「……わかってるよ。過ぎ去った時間はもう永遠に戻ってこない」

「やから、約束してほしい。来年、再来年、おまえらと一緒に関西大会に行く」


「は?」と言ったのは眉をひそめた悠だったが、私も全く同じ気持ちだった。


「いや、なんでこの流れでそうなるの?全く筋が見えないんだけど」

「なんかそういう明確な目標があった方がこの先何があっても頑張れるやろ。しかもお互いを認め合い高め合う他校のライバルであり仲間って、なんか熱い漫画みたいな感じでええやんか」


 隼人は普段の軽々しい調子で言い始めたが、その目は真剣そのものだった。


「約束してくれへんか」


 ふざけているわけではない隼人を見ていると、何かが自分の中で動くのを感じ「いいよ」と反射的に言っていた。


「約束する。立ち止まってる時間なんかないもん。袴田も、それでいいよね」

「できないな」

「え?」

「確実に守れる保証がない以上、それはできない。今年法蓮は県を通過できたけど、来年も再来年もできるとは限らない」


 その場でうなだれる隼人を放置し、ため息をついて悠を見た。


「いや、そこは熱くなるところでしょ。空気読みなさいよ」

「でも、努力はする」


 がばっと勢いよく顔を上げた隼人は立ち上がり、いつもの調子を取り戻したように言う。


「さすが。わかっとるやんか!」


「絶対忘れんなよー」と言い残し、手を振りながら嵐のように走り去っていく隼人と、河原にぽつんと取り残された私たち。日暮れが近づき傾きつつある太陽が私たち2人の長い影を映し出す。


「帰っちゃったよ」

「隼人ってすごいよな」

「うん」


 熱く語られた思いも、照れ隠しのように結果を求めた言葉も、眩しいほどにまっすぐで、その力強さに憧れを抱かずにはいられなかった。


「俺にはあんなこと絶対に言えない」

「私にも無理よ」


 熱くなったお尻を払ってもう一度その場でしゃがんだ。座ったままの悠を横から覗き込む。


「私が落ち込んでると思って誘ってくれたの? そんなに落ち込んでないから大丈夫。でも、なんか元気になった」


 こちらを見ようともしない悠を見ていると、意地悪な気持ちがむくむくと湧いてきた。


「無視するんなら私もあんたにお礼言わないからね」

「言う相手が違うだろ」

「誘ってくれたお礼よ」


 なぜだろう。微風に揺れる川の水面をもう少しだけ見ていたい気持ちになった。

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