第33話 帰路

 ホールの前でミーティングを軽く行い、2台のバスに分かれて乗り込む。冷房の効いたバスの座席に沈み込むと疲れが一気に押し寄せるのを感じた。身体は鉛のように重く、指先を僅かに動かすことすら億劫だった。

 感動の叫び、落胆のため息、歓喜の嵐、悔しさの涙。ホール内での記憶はまだ鮮明で、全てが終わったことが未だに信じられずにいる。


「エアコン、向き変えたかったら言うてな」窓際の席に座った菜々子が目尻を下げる。


 動き出した車内の空気には、様々な感情が入り混じる。今年が最後となる優奈先輩や瑞穂先輩は、満足そうな笑みを浮かべていた一方、1つ後ろの席に座った佳穂の目元は赤く、ぎゅっと歯を食いしばっているようだった。千秋先輩の顔は涙でぐちゃぐちゃだったが、あれはどちらの意味だろう。


「銀賞、か」


 ぽつりとこぼした菜々子の表情は複雑なものだった。基本的に笑っていることが多い菜々子だが、今はその笑顔が寂しく映る。見ていると胸が締め付けられるような気がして、無理矢理に明るい雰囲気を作った。


「まあ、悪くはないんじゃない? 初出場なんだし。そもそも関西大会自体、私らからしたら奇跡みたいなもんだよ」


 やっとの思いでそれだけ言うと、シートベルトをしたままぐっと腕を前に伸ばした。座席に固定されているため自由がきかないのがひどくもどかしい。


「……そうやね。でも、奇跡でも実力やよ。そのことを私らは誰よりも知ってる」


 ぐっと喉の奥が鳴る。これ以上話していると自分が抑えられなくなりそうで、投げやりに言って話を切り上げる。


「銀も実力だよ」


「寝る」と菜々子に言ったものの、目を閉じても眠れそうにはなかった。

 しばらくバスに揺られながら目を閉じていると、隣から規則正しい寝息が聞こえてくる。法蓮高校の出番は午後だったが、今日の集合時間はかなり早かった。舞台にはのらなかった菜々子も緊張の糸が切れて眠くなったのだろう。

 一旦シートベルトを外して立ち上がると、エアコンの風向きを調節する。薄手のカーディガンをかばんから取り出してそっと菜々子の肩にかけ、シートに深く身を預けた。

 手持ち無沙汰にスマホを取り出してイヤホンを指す。染みついた習慣というのは恐ろしいもので、コンクールが終わったというのに、参考音源が耳元で流れ始める。聞いているとひどく心が乱される気がして、慌てて再生を止め、頭にこびりつくメロディーを振り払う。

 誰かと話すことでもやもやとする感情を収めようとしたが、近くに座る多くの部員はすでに眠っているようだった。携帯電話のトークアプリを開き、目についた人物に宛てて送ってみる。『起きてる?』

 しばらくすると既読の文字がつき、短い文面が返ってくる。『圭太、いびきうるさい』

 無尽蔵の体力を誇り、スタミナお化けの異名を持つ富田圭太もさすがに疲れたようだ。もたれかかってくる圭太に顔をしかめる悠の姿が思い浮かぶ。彼のことだから、迷惑そうにしながらも圭太を起こすことはしないだろう。『ご愁傷様』

 先ほどと違い、すぐに既読の文字がつく。何も返ってはこなかったが、見てはいるようなのでこのまま話し相手になってもらうことにする。


『すごいよね』

『はじめての関西大会だよ。それで銀賞』

『私たち、よく頑張ったよ、ほんと』

『うれしい』


 なぜだろう、画面をせわしなく行き来する親指がほんの少し震えていた。何かに急き立てられるように文字を打っていなければ、どうかしてしまいそうだった。


『そういえば、銀ってはじめて。中2も中3のときも県で金だったでしょ』

『2年のときに自由の女神やって、3年で梁塵秘抄りょうじんひしょう。なつかしいな』

『すごくいい曲ばっかり』

『あ、もちろん今年の曲も好き』

『吹奏楽でオペラの曲やったのははじめてだったけどいいね。管ばっかりだから優雅さはオケより減るけど、エネルギッシュっていうか』


 相変わらず既読の文字だけが送信直後につく。


『3年生は文化祭で引退だけど、ここまで来れてよかった』


 言葉を重ねれば重ねるほど、ぽっかりと穴の開いたような虚しさだけが上へ上へと積み重なっていく。ふらふらと揺れる塔はやがてバランスを失い、一気に崩壊を迎える。


『わたし知らなかった』


 惨めな気持ちになりそうで、認めたくはなかった。


『今までで一番いい結果のはずなのに』


 最初からわかっていたはずなのに、結果発表のときからずっと気がつかないふりをしていたのだ。でも、胸の中でぐるぐるとうごめく感情にはもはや抗えそうになかった。


『悔しいってこういうことなんだ』


 浮かれていたわけではなかった。自分たちの力を過信していて足元をすくわれたのでもない。むしろ他校の演奏を聞いて、法蓮高校吹奏楽部はまだ発展途上なのだと突きつけられた。そのことに気がついただけでも大きな成長と言えるだろう。

 それでも、ただ自分たちの演奏だけを突き詰め、それだけが心の支えだったからこそ。


『悔しい』


 スマホを膝の上に投げ出し、ゆっくりと肺にたまった空気を外へ押し出した。お腹に力を入れて息を吐いていなければ、何もかもが緩んでしまいそうだった。

 画面をふと見ると新しい通知が来ているのに気づく。


『酔ってきたから寝る』


 垂れ流される戯言に付き合わせた罪悪感と心配とが混ざり合い、私の右手親指はスマホの画面を滑るように動く。『ごめん、お大事に』


『だから泣きたいなら泣けば』


 既読の文字がついた直後に送られてきた言葉に目を見開いていると、少しずつ文字がぼやけてきた。「ばっかじゃないの」

 尻すぼみになった最後の音は、空気を弱々しく揺らすことしかできず、唇から息だけが虚しく漏れる。スリープボタンを押し、携帯電話をかばんの中に投げ入れた。


「泣きたくなんかないし」


 後頭部をシートに押し付け、上を向いたまま目の上にハンドタオルをのせる。

 初めてコンクールの曲を聞いたあの日。仲間を連れ戻したあのとき。オーディション。メンバーから漏れた人も力強く背中を押してくれた。県大会。合宿。そして、ほんの1日離れただけなのにどこか懐かしさを感じさせる校舎。

 これまでの数ヶ月が一気に走馬灯のように駆け巡る。学校に帰るまでの間、私は声を殺してほんの少しだけ泣いた。

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