第32話 関西大会②
全ての高校の演奏が終わり、熱気のこもるホールから外へ出た。むわっとする空気が腕にまとわりつき、蝉の大合唱に少し気圧される。いくつもの高いビルが雲一つない空へ向かってそびえ立っているのを見ると、遠くまで来たことを改めて実感した。自販機で買ったお茶のペットボトルを開けて勢いよくあおると、冷たく心地よい感覚が喉を通り過ぎていく。
演奏を終えた達成感からすでに感極まっている女子生徒や、知り合いを見つけて手を振る男子生徒など、ホールの外もコンクール関係者であふれかえっている。
ホールの中へ戻ろうとすると、桑島先生がホール入口で男性と話しているのが見えた。ここからだと相手の顔を見ることはできないが、比較的小柄で歳は50代ほどといったところだろうか。脇を通るのも気まずいため、先生からは見えないように気をつけながらホールの壁にもたれかかった。
「ご無沙汰してます」
「最近どうだい」
「見てのとおりです」
「そういうところも高校のときと変わっていないようだね」
「先生もお変わりなさそうで何よりです」
「いやぁ、歳をとると指揮するのも大変だよ。そろそろ引退だ」
「私たちが高校生だった頃もそうおっしゃっていたので、まだまだ大丈夫ですよ」
はっと一人息を呑んだ。笑ったときにちらりと見えた顔には見覚えがある。先ほど圧巻の演奏で会場を沸かせた超強豪校、南大阪高校の指揮者だった。桑島先生はどうやら南大阪出身らしい。
「法蓮はうちより出番が前だったんで、演奏が聞けなかったんだ。桑島さんの振ってる姿、久しぶりに見たかったよ」
「機会はいくらでもありますよ。うちの生徒も頑張ってますから」
「どうせスパルタしてるんだろう?」
「先生ほどじゃありません」
にこりともしない桑島先生とは対照的によく笑う男性だ。コロコロと変わる表情は犬のようだ、と思う。
「それにしても、ここで会えるとはね。お父さんもさぞ鼻が高いだろう」
桑島先生は形の良い眉を寄せる。
「やめてください。父からしたら私は今でも異端児ですよ」
「まあもったいないという彼の気持ちも分からなくはないがね。
「やめにしましょう、この話は」
冷たい表情をしたまま桑島先生は首を横に振る。
「相変わらず頑なだね。まあいつかはお父さんのことも許してあげてほしい」
男性は、自分より高い位置にある桑島先生の肩を軽く叩き、桑島先生を連れてホール内へと消えた。
今まで知り得なかった情報が一気に押し寄せ、壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。盗み聞いた会話の記憶を消すようにお茶を一気にあおると、勢いが良すぎたのか咳きこんだ。
♪
「ずいぶん遅かったけど迷子にでもなってたの?」
中へ戻ると呆れたような顔で佳穂が言った。時おり思い出したかのように出る咳に涙目になりつつ、佳穂と悠の間の空いた席に腰を下ろす。悠の前を通る際、行く手を阻むようにわざとらしく投げ出された彼の足を踏みつけることも忘れない。他校の演奏中は散り散りに座っていた部員たちの多くはすでに集まっていた。
「ちょっとね」
ふーん、と言うと興味を無くしたように佳穂はプログラムをめくっている。緊張を隠し切れないのか、そわそわと足先が動いていた。
「前半の部の結果、佳穂はもう見た?」
「ううん、まだ」
県大会とは違い、関西大会は前半の部と後半の部に分かれており、後半の部が始まる前に前半の結果はすでに発表されていた。もちろん、関西代表として全国大会に進む学校が発表されるのは後半の部が終了してからだ。
鞄から取り出したスマホを佳穂と2人で凝視する。額同士がぶつかり鈍い音がしたが、はやる気持ちを抑えることはできなかった。
「
「同郷の者としては何となく応援したくなるね」
「挑戦者はどっちかっていうと私たちの方でしょ。演奏聞いてないから何とも言えないけど、毎年全国行ってるようなところとか、ダメ金常連校も大体金賞、か」
「危なげないというか、さすがというべきか」
後半の部も総じてレベルが高く、さすが支部大会だと思わずにはいられなかった。この中で優劣がつけられる。厳しい世界だ。
ある高校を指さして佳穂が嬉しそうに言う。
「あ、ここ、
なんの、とは聞かなかった。佳穂にとって全国大会というのは夢物語ではなく、現実のものなのだろう。今の私たちのレベルが低いとは決して思わないが、彼女ならもっと強豪校でもやっていけるはずだ。むしろ高校から声がかかってもおかしくはない。
「なんで法蓮にしたの?」
「え?」
佳穂は虚を突かれたように目を瞬かせ、私は顔の前で慌てて手を振った。
「いや、なんとなく。そういえば聞いたことなかったなって思って」
「そんなにこだわりがあったわけじゃないの。高校で部活はゆったりやれたらいいなって思って。あとは、まあ学力的に?
「……相変わらずちゃっかりしてるね」
「でも、どうしてだろう。やっぱり抜け出せない。好きなの。オーボエが好き。音楽が好き。吹奏楽が好き。この法吹が好き。好きだからこそ真剣にやりたくなってしまう。私、おかしいのかな」
「全然変じゃないよ。だって、私もそうだから」
結果発表が始まる旨のアナウンスが流れ、ホールの中は熱気と緊張で満たされた。白髪の初老の男性が舞台中央でマイクを握っている。各学校の代表は舞台の上でプログラム順に整然と並んでいる。法蓮高校の代表者は藤原先輩と首藤先輩だ。2人の姿を目で捉え、佳穂が伸ばしてきた手をしっかりと握り返す。
「それでは、これより結果発表に移ります。13番、——」
佳穂と絡めた指には力が入り、指先は赤色を通り越し紫色に近い。
全力は尽くした。あの12分間は、私たちの夏の結晶だった。あの12分間は、間違いなく今の私たちにできる最高の演奏だった。
だからこそ、願わずにはいられなかった。
左隣の悠はただまっすぐに前の舞台を眺めている。私の視線を感じたのか、ちらりとこちらを見たものの、何も言わずに前に向き直る。覚悟を決めた横顔は、あまりにもいつも通りで、だからこそ少し凛々しい。
「15番。法蓮高等学校」
私たちの演奏はどんな風に届いたのだろう。まぶたを閉じ、息を止めたその瞬間——。
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