第31話 関西大会①

 またたくように時間は流れ、関西大会の日がやってきた。前日の悪天候から一転、抜けるような空に太陽が眩しい。

 支部大会は別の県で行われるため、県大会のときとは勝手が異なることも多い。本番に最高の状態で臨むためにイメージトレーニングを重ねたのが功を奏したのか、大きな混乱も動揺もなく、私たちは薄暗い舞台に静かに待機していた。


 楽器のセッティングが済むと目が眩むほどのまばゆい光が私たちを襲う。薄闇に慣れた目は光を拒絶し、反射的に目を瞑った。


「プログラム15番。法蓮ほうれん高等学校。課題曲Ⅱ番に続き、自由曲、プッチーニ作曲、歌劇『マノン・レスコー』より。指揮は桑島くわしま頼子よりこです」


 いつも通り、練習と同じように。それがどれだけ高度でどれだけ大変なことなのか、そんなことは中学のときから嫌と言うほど知っている。憧れの関西大会。経験したことのないほど広いホール。不安や恐怖はないと言えば嘘になる。それでもやることはいつもと変わらない。

 膝の上に置かれた銀色のフルートがきらりと光るのが視界の端に映る。ゆっくりとまばたきをして息を吐き出した。

 桑島先生が観客に向かって礼をし、指揮台にゆっくりと上がる。微笑を浮かべながら全体を見回し、私たちに何も言わずに語りかけた。


 構えた指揮棒が振り降ろされたその瞬間、華々しく音が生まれた。

 クラリネットとサックスが融合し、明るく穏やかに奏でられる旋律に、洒落た装飾音符が彩りを加える。粒の揃ったスネアドラムがそっと寄り添い、方向性を持った低音の八分音符が音楽を前へ推し進める。爽やかな風を感じつつ腕を大きく振って歩き出したい。包み込むように朗々と響くテナーサックスやユーフォニアム。キラキラと輝くグロッケンやフルート。低音にメロディーラインが引き継がれて空気が引き締まる。幾つにも分岐した旋律がやがて一つに融合し、曲はトリオへと差し掛かった。

 木管楽器らしい柔らかい音。つつがなく進行するリズム。トロンボーンによるハーモニーは春うららかな日光のようだ。待ち構えていたかのように対旋律オブリガードを奏でる中音楽器たちは、意気揚々と晴天の下を歩く。

 全体的に小さくなったところからベースラインに押し上げられるように全体の音量が上がっていく。クレッシェンドの頂点でクラッシュシンバルが盛大に弾けたのを機に、曲はラストへと向かい始めた。木管楽器の速いパッセージやトリルが怒涛のように押し寄せる。金管は華々しく響きわたり、低音楽器の音は下がっていく。各楽器が奏でる数多の音はやがて一つに収束し、先生の手の中へと吸い込まれた。


 静かな水面にピアノが一滴の音を落とす。静寂の中、音の波紋が少しずつ広がっていく。木管楽器を主体とした、甘美で、それでいて消えてしまいそうな旋律がゆったりと流れる。打ち寄せては引く波のようなデクレッシェンド。うねる音に身を任せていると、囚人に身を落としたマノン、そして彼女を救えなかったデ・グリューの後悔が聞こえる。

 急転直下。再会した二人にまたもや危機が迫る。叩きつけるようなピアノソロ。シロフォンの硬い音に機械的なラチェット。食いつきは鋭く、徐々に緊迫感が増していく。

 すぐそこまで迫る追手。逃れられない運命。急き立てられるように細かい音が並び、それら全てを呑み込むかのように音楽が立体的に膨らんでいく。愛する人が連行された哀しみと己の無力さを嘆く叫び声。逃れることのできない運命の渦に巻き込まれた先にあるものは、果たして愛か。それとも破滅か。チャイムの音が最後の審判のように響き渡る。

 さあ、歌いましょう。桑島先生の指揮棒がゆるやかに空気を撫でた。音楽は二人が初めて出会った場面に遡る。こんなに美しいひとに会ったことはあろうか。こんなに燃えるような恋はあっただろうか。フルート、クラリネット、サックスをユーフォニアムが優しく包み込む。コントラバスの空気を震わすピチカート。生まれては消えるハープのアルペジオ。molto espressivoとても感情豊かに。甘く幸せに満ちたこの恋がいつまでも続くよう、願わずにはいられない。

 音の輪が同心円状に広がっていく。抜けるような高い音は華やかにきらめき、地の底から湧いてくるような低い音は力強く空気を震わせる。息を呑むような一瞬の休符のあと、フォルティッシモのユニゾンが突き抜けた。ホルンの咆哮とそれに応える中低音が響く。

 頭は冷たく冴えわたりつつも、体の芯は煮えたぎるように熱い。予め決めておいた場所で素早く息を吸うと肺が一気に広がるのを感じる。ハープのグリッサンドが我が物顔で駆け回り、ティンパニの打撃が質量を持ってずんとお腹に響く。澄み切った和音が空間と鼓膜と心を揺らし、やがて幻のように消えた。


 桑島先生の手がくるりと動くと、その瞬間に魔法が解ける。楽器を持ったままその場で立ち上がった。息を切らせ汗を流しながら、送られる拍手に目を細める。

 終わらない音楽がないように、終わらない12分間も終わらない物語もない。私たちはこれからどこへ向かうのだろう。この先にはどんな景色が広がっているのだろう。

 広いホールの中に、今もきらきらと輝く音の粒が見えたような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る