第30話 合宿②

 深い水の中から浮き上がるように目が覚める。枕元に置いたスマホを手探りで引き寄せると、画面上の文字は5時半を示していた。2日目の晩には花火などのレクリエーションも行ったが、それもあって疲れていたのだろう。昨晩布団に倒れこんでからの記憶が全くなかった。右横では舞香が大の字になり、左横では佳穂が丸まってすやすやと寝息をたてている。スマホの電源コードを引き抜いてズボンのポケットに突っ込むと、周りを起こさないようにそっと部屋を出た。


 山の中というだけあって、夏なのに朝はかなり気温が低い。Tシャツから出た腕をさすりながら階段を下りると、桑島先生がベンチに腰かけているのが見えた。


「おはようございます」

「おはよう。朝、早いのね。よく眠れた?」

「はい」


 先生と2人きりの状況に少し緊張しながらどうするべきか思案していると、桑島先生がほんのりと笑う。椅子に広げられていたスコアを片付け、隣を軽く叩いてみせた。


「水谷さんも座れば?」

「あ、はい。失礼します」


 先生は上下ともにジャージといういたってラフな姿だったが、それでも格好良く見えるのはなぜだろう。Tシャツに短パンという寝巻きそのままの姿で来てしまったことを後悔する。


「どう、合宿は」

「大変ですけど楽しいです」

「そう」


 満足そうな笑みを口元にたたえ、桑島先生は足を組んだ。


「指揮者って大変そうですね」こちらを怪訝そうに見る先生に対し、慌てて言葉を付け加える。


「あ、別に深い意味で言ったんではないんですけど、ほら、今だって先生は朝早くからスコアを眺めていたわけですし」


 先生の考えはその表情に乏しい顔からは全く読み取れなかった。何の気なしに出た言葉に問題があったのかもしれない。


「あなたたちが全然できてないからね」


 真顔の先生を見て、涼しいはずなのに背中に汗が流れるのを感じる。慌てふためく私を眺めている先生の口角が僅かに持ち上がる。「冗談よ」

 大きく息を吐き出し、胸を撫で下ろす。蛇に睨まれた蛙というのはこういう状況のことを指すのかもしれない。


「指揮台に立つのは、そうね、好きだから、かしら」

「音楽がってことですか」

「それもある。指揮台に立つといろんなことが見えるのよ。それも好きね」

「先生はいつから指揮をされてるんですか」

「本格的に振り始めたのは高校のとき。私も吹部だったのよ」


 まだ若く美しいとはいえ、普段の落ち着いた雰囲気からは先生の高校時代を想像することはできなかった。今なら少しだけ先生の過去について尋ねても許されるだろうか。


「先生にも高校生の頃ってあったんですか」

「そりゃそうじゃない。楽器はなんだと思う?」


 ある程度この世界にいると、骨格や雰囲気からその人が演奏する楽器は何となく想像がつくようになった。先生の口元を見て華やかな金管楽器が頭に浮かんだ。


「えっと、トランペットですか」

「そうよ」

「ペット隊にはプレッシャーですね」

「もちろん贔屓するつもりはないのよ」


 トランペットは吹奏楽において花形中の花形と言えるが、その華々しい響きゆえ失敗するととても目立つ。昨日の合奏ではひたすらトランペット隊が集中砲火を受けていた。端から順に一人ずつ吹かされる場面もあったが、先生が合格と言うまで誰一人として途中で挫けるようなことはなかった。


「あなたたちと音を通じて本気でやり取りするの、好きよ」

「やり取り、ですか」

「音楽を作るのはあなたたちであって私ではないから」

「そうなんですか」

「演奏する側がこうやりたい、って全力で出してきたのを無理矢理まとめるのが指揮者の役割だと思ってる。あくまでも教育の一端を担う部活動の顧問としては、だけど」


 足を組み替えて先生は前を向いたまま続ける。


「確かに私が一から十まで支配することはできる。でもそうするとあなたたちは受け身で、出来上がったものもあなたたちのものではなくなってしまう。全員の考えや音楽性が同じってことはないし、同じである必要もないと思う。没個性的になるのではなく、奏者一人一人の出す個性を破綻しないように方向性を揃える。それが私の役目。そうやってできたものはどんな結果であれ、かけがえのないものになる」


 どこか遠くを見つめる先生には、今も指揮台からの眺めが見えているのだろうか。


「結局のところ、私が本当に教えるべきことは技術云々じゃないのよ。わかる?」

「……わかるような、わからないような、そんな感じです」

「正直なのはいいことね」


 ふふ、と妖艶に笑う先生はいつも以上に美しかった。


「水谷さん、今はわからなくてもいつかわかってくれたら嬉しい」


 助詞が強調されたように聞こえたのは私の気のせいだろうか。


「あの、ひょっとして」


 口を開きかけたところで、「やっぱりいいです」と首を横に振った。

 コンクールの反省会を開くように仕向けたのは桑島先生なのかもしれない、とふと思った。先生のことだから現幹部のやり方を否定することなく、あくまでも技術向上のためという名目で部内の不和を緩和するように誘導した、というのもあり得る話だ。いや、幹部を中心とした先輩たちが桑島先生の下で無意識のうちに感化された、と言った方が正しいだろう。悠の指摘した違和感の正体は、決してマイナスのものではなく部員の成長の証なのかもしれない。


「先生、いつもより饒舌ですね」

「言ったでしょ、私にもあなたたちと同じような頃があった。水谷さんを見てるとなんだか懐かしくなってきたのよ」

「いつか先生のトランペット、聞いてみたいです」

「機会があれば、ね」


 短いズボンからのぞく太腿を叩き、力をこめて立ち上がる。合宿も残り半日。合宿が終わると関西大会はすぐそこだ。

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