第16話 届いてほしい

 自分の部屋のベッドに大の字に倒れこみ、部屋の天井を眺める。

 今の幹部のやり方が正しいのかはわからない。おそらくどんなやり方が正しいのかは誰にもわからないだろう。でも、今の幹部が引退しようとしまいと、そして部活の雰囲気が変わろうとそのままであろうと、紗英は部活を続ける限りつらい思いを抱えるのだろう。だからといって一度でも逃げてしまえば、逃げてしまったことで、彼女は自分自身を責め続けるのだろう、とも思う。

 紗英は部活を辞めたがっている。無理に引き留める必要もない。佳穂も言っていた、去る人は関係ない、と。むしろ追わない方が紗英のためにも部のためにもいいのかもしれない。

 ごろんと横向きになり、机の上の写真を眺める。コンクールの演奏直後のものだ。グレーのつるりとしたホールを背景に、中学生の私が部活の仲間とともに笑顔を浮かべている。

 中学の頃、私は部活に一生懸命取り組んでいた。いや、他の子と同じように頑張っているように見せていた、と言うべきだ。なぜなら私は、あの夏、少しも悔しくなかったのだから。どうせ頑張っても報われない。どうせ自分たちにはできない。そうやって、あきらめていたのだから。

 中学の後輩たちを応援する資格がないのと同じように、これまで頑張ってこなかった私には、紗英を応援する資格もない。このまま去り行く紗英の背中を見つめることしかできないのだ。

 でも、なぜ紗英は私に話してくれたのだろう。誰にも何も言わず辞めてしまってもいいはずなのに、どうして彼女は今も部活に来ているのだろう。本当は誰かに引き留めてほしいと思っているんじゃないか。紗英も言っていた、今度こそ音楽を楽しめるかもしれないと思った、と。

 今の幹部も、今の幹部に反感を持っている人も、そういった揉め事に知らんぷりを決め込んでいる人も、紗英も、そして私も、みんな吹奏楽が、音楽がやりたいから入ったのだ。部活に対する考え方は違えど、その根本は変わらないはずだ。全員が同じ考えを持つことは限りなく不可能に近いだろうし、別にそれぞれが違う考えを持っていてもいいんじゃないだろうか。もちろん秩序を守るために組織としての方針には従うべきだろう。でも、個人としての考えは持っていいだろうし、部活をする理由は、好きだから。これで十分じゃないか。

 ならば、やるべきことは一つだ。



「やっぱり、ここにいた。いつも朝早くから練習してるもんね」


 その次の日の朝、私は楽器を出すとすぐ、新館の裏でひっそりと練習をしていた紗英に声をかけた。楽器庫から離れた人目につかない場所を選んでいるのは、他の部員に練習を見られたくないからだろう。それに気がついていながら近づくのは、他人の領域に土足で踏み込んでいるようで気が引ける。


「2人でアンサンブルしてみよっかなって思って」

「いきなりどうしたの?」

「ま、いいじゃない。譜読み10分ね。紗英が上、私が下」

「え、ちょっと」


 半ば無理やり紗英に楽譜を押し付け、私は楽器に息を入れた。紗英は納得していないようだったが、しぶしぶ譜読みを始めた。

 中学の頃使った楽譜を捨てずに置いておいてよかった。曲は『星に願いを』だ。


「できた?」

「音は出る、と思う」

「テンポは大体これくらいかな」


 チューナーに内蔵された電子メトロノームを起動する。ぴこんぴこんという電子的な音も嫌いではないが、やっぱり原始的な振り子タイプの方が私は好きだ。


「好きに吹いて。紗英に任せるから」


 任せるって言われても、と紗英はごにょごにょ言いながらも楽器を構える。

 紗英の動きに合わせて深く息を吸い込む。主旋律を奏でる紗英にそっと寄り添い、その華やかさを引き立てる。最初は固かった紗英の演奏も曲が進むにつれ、伸び伸びとしてくる。時おり視線が交錯し、笑みを浮かべる代わりにゆっくりとまばたきして演奏で応える。もちろん、ほぼ打ち合わせ無しのため、ぽろぽろとこぼれる箇所を数え始めればキリがない。まだまだ未熟だ。だって私たちはまだ磨かれていない原石なのだから。


「ふふ、ひどかったね」

「薫、一体いきなりどうしたの?」

「でも、楽しかったでしょ?」

「その訊き方はずるいんじゃない?」

「私は楽しかったよ」


 今この瞬間、物理的には触れていなくとも、誰かと音楽で繋がっているという感覚。なんて素敵なことだろう。音楽は世界共通というが、本当にそうだと思う。

 たとえ言葉が伝わらなくとも、音楽で私たちは一つになれる。たとえ一人で演奏するとしても、演奏する人とそれを聞く人がいる以上、誰かと繋がっていることに変わりはないのだ。そして、音楽をやっている以上、私たちは一人ではない。


「2人でこんなに楽しいんだもん、もっと大人数ならもっと楽しいと思わない?」


 紗英が身体を固くするのがわかった。でもそれに気がつかないふりをする。自分のずるさを自覚しつつ、私はさらに踏み込んだ。「いつも早くからここで朝練してるよね」

 追い打ちをかけるようにたたみかける。


「なんでそんなに練習するの? 辞めたいんじゃないの? 辞めたら楽になれる。それはそうかもね。怖い先輩もいないし、トラウマに悩まされることもない」

「……」

「私にはもっと頑張れなんて紗英に言う資格はないし、辞めるって言うならそれを止める権利もない。でも、それと引き換えに失うものも多いんじゃない?」


 どうか、この気持ちが届いてほしい。


「もう少しやりたいって思うならさ、明日もこの時間ここに来てよ。一緒に練習しよう」


 私には鈴本先輩のように周りを動かす力はない。千秋先輩のように現状を変えたいとも変えられるとも思わない。佳穂のように強い理念を持って動くこともできない。紗英を応援することもできない。

 でも、一緒にやることはできる。隣でフルートを吹くことはできる。

 こんな口当たりのいいこと言って、紗英が部活を続ける決心をしたとしても、それが本当に彼女のためになるかはわからない。ひょっとしたら私の単なる自己満足かもしれない。

 でも、やっぱり、手を差し出さずにはいられないのだ。



 チューニングを終えた音楽室は、それぞれが思い思いに吹く雑多な音であふれかえっている。練習を諦めて管内の水を落としていると、桑島先生が入ってくるのが見えた。

 音が一瞬にして止み、全員が立ちあがる。先生が前に立つと藤本部長の号令がかかる。「よろしくお願いします!」


「では、自由曲、頭から」

「はい!」


 イタリアのジャコモ・プッチーニ作曲、歌劇『マノン・レスコー』。同名の小説を元にして作られたこの曲は、プッチーニの出世作とも言われている。流れるような美しい旋律と見事な和声が組み合わさり、情熱的な恋愛が表現された曲だ。

 若くして修道院に入る美しい女性、マノン・レスコーと、真面目な青年、デ・グリュー。2人は一目で恋に落ちる。金に目がくらみやすいマノンは一度デ・グリューと別れるものの、再会すると再びその恋は燃え上がる。2人は様々な困難を乗り越えようとするも、最後は何もない荒野でマノンが力尽きて幕が下りる。

 今回コンクールで演奏するのは、元々オーケストラ用に書かれたこの曲を吹奏楽用に編曲したものだ。冒頭、ピアノが愛の旋律を奏で、その後は間奏曲へと繋がる。この部分は売春容疑で投獄されたマノンの後悔を表しているらしく、美しくもどこか儚さを感じさせるメロディが情感豊かに紡がれる。もちろん、私たちの技術も表現もまだまだ足りていないが。


 紗英に一緒に練習しようと声をかけてから、既に2週間が経過していた。「他人に演奏を聞かれると萎縮してしまう」とのことだったので、まずは毎朝私と一緒に練習をすることになった。お互いの演奏を聞き合い、意見を言い合う。ある程度練習を重ねたらフルートの先輩方、また時には通りすがりの全然関係のないパートの人にも聞いてもらい、指摘してもらった。最初は緊張して全く吹けなくても、何度も繰り返せば慣れてくるのだ。荒治療だが、効果はあった、はずだ。音楽をしている限り紗英は一人ではないのだ、とは気恥ずかしくて口には出せなかったが、伝わっていればいいな、と思う。

 そして迎えた今日の合奏。以前、紗英が吹けずに練習が前に進まなくなったところだ。桑島先生は冒頭から始め、そして件の箇所を通り過ぎ、第2部が始まる前で止めた。

 息を詰めて先生の一挙一動を見つめる。紗英はやはり緊張しているようだったが、演奏自体はそれほど悪くはなかった、と思う。

 最前列に座る私たちにしかわからなかったかもしれないが、桑島先生がフルートの方を見て少し柔らかく微笑んだように見えた。


「Bからオーボエとクラの1番だけで」

「はい」


 桑島先生はすぐにいつもの無表情に戻り、練習は先へ進んでいく。

 ちらりと右を見ると、3つ隣に座る紗英と視線がぶつかる。私は膝の上でこっそり親指を立てた。

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