第17話 前途①

 季節は流れ、すでに6月も半ばになっていた。

 法蓮高校の夏服は、男女共に白いブラウスにグレーのズボンまたはスカート、というシンプルなデザインだ。ブラウスの丈が短く外出しなのはありがたいが、通気性は悪く、スカートは太腿に張りつくので、あまり涼しいわけではない。

 オーディションまで2週間を切り、コンクールまでもあと1ヶ月半となった。部活自体は今も変わらず6時半までだが、夜7時半まで自主練習することが許されていた。近隣住民の苦情を避けるため、窓もカーテンも閉め切った状態で練習するのでとても暑い。下校時間はすでに過ぎているため、当然冷房はつかない。頭上では廊下側と窓側、合わせて2つの扇風機がきしみながら回っているものの、涼しいはずがない。流れる汗をタオルでぬぐい、お茶をぐびぐびと勢いよく飲む。

 フルートの他の面々は、塾やレッスン、デートなどですでに帰っていた。自分以外誰もいない静かな部屋で、ひたすら自分の音と向き合う。耳を研ぎ澄ませ、ほんの少しの綻びも見過ごさずに修正する。私は特に、速いパッセージが苦手だった。課題曲は16分音符が多く、指定通りのテンポで吹けない箇所もあった。メトロノームに合わせて初めはゆっくり、そしてメトロノームの重りを少しずつ下げていく。


「速いところでも指にばかり気を取られないで」

「引かないで。むしろしっかり息入れて」


 パート練習や合奏で注意された箇所を思い出す。

 練習するときは「常に目的意識を持ちなさい」と桑島先生も繰り返し言っている。今なんのために練習をしているのか、どこをどのように変えたいのか、それを意識するだけで練習の質は自ずと変わってくる。

 突然勢いよく教室の扉が開け放たれた。


「時間やばくないか」


 驚いて譜面から顔を上げると、悠が器用に片手でコントラバスを支えたまま扉の脇に立っていた。


「え、もうこんな時間!」


 壁にかかった時計を見ると、すでに時刻は7時20分をまわっていた。楽器庫は7時半に施錠されるので、それまでには片づける必要がある。先ほどまで聞こえていたオーボエやファゴットの音もいつの間にか止んでいた。

 慌てて立ち上がったため座っていた椅子が後ろに倒れ、その周辺の机や椅子をなぎ倒す。

 悠はため息をついてコントラバスを廊下に横向きに倒して置く。


「机はこっちで並べるから、水谷は楽器なおせ」

「ごめん、ありがと」


 急ぎつつも楽器の内部にガーゼを通し、水分を完全にふき取る。本体を磨くのは家に帰ってからにしよう。カーテンを開け、窓が全て閉まっていることを確認する。


「ありがとう。楽器大きいし、先行ってて」

「ちゃんと鍵締めろよ」と言い残し悠は楽器を持ち上げ去っていく。


 人間の身長ほどもある、あんな大きい楽器をよく運ぶものだ。悠は今も男子にしては背が低い方だが、中学のころはもっと小柄だったことを思い出す。

 今でこそ吹奏楽に熱中しているものの、彼は最初から吹奏楽部だったわけではない。中1の冬、悠が入部する直前にコントラバスの1年が部活を辞めたため、あとを引き継ぐ様にコントラバス担当になった。楽器を始めたのは私たちより1年近く遅かったが、持ち前の真面目さにより、引退するときには途中入部であることを忘れさせるほど高い技術を身に着けていた。

 柴川中では部活動に入ることが義務づけられていたため、その前にも何かしらの部活には入っていたのだろう。運動部で先輩ともめたとかいろいろな憶測が流れていたが、悠は否定も肯定もしなかった。中学では一度も同じクラスにならなかったし、彼も前の部活のことをあまり語りたがらないため、その件に関しては私もほとんど知らなかった。


 古くなってはまりにくくなった南京錠に悪戦苦闘しつつ、教室の鍵を閉める。すでに27分だ。楽器庫に飛び込み譜面台やメトロノームを片付ける。


「これからはもう少し早く来てね」

「すみません」


 楽器庫の前で待っていた藤原部長に謝りつつ、外へ出る。夏至が近いこともあり、まだわずかに明るかった。


「水谷さん、ウチめっちゃ期待してるから」


 いきなり声をかけられ慌てて後ろを振り向く。鈴本先輩のやや茶色がかった髪も薄暗いせいで今は黒く見える。個人的に話しかけられることはあまりなかったので驚いた。


「あ、ありがとうございます」

「さっきもめっちゃ練習してたやん。ま、もうちょっと余裕持って行動してほしいけど」

「すみません」


 全体に対して声をかけるのではなく、今は個人的な会話だからだろうか、いつもよりその口調も素に近く、とっつきやすさが感じられた。


「ウチ、今年のメンバーやったら絶対に関西狙えると思う」

「あ、はい」

「なんやの、その腑抜けた相槌は。まあええけど。とりあえず、期待してるから」


 佳穂の言葉が脳裏で蘇る。あの人たちだって部活のこと真剣に考えてる、上に立つとみんなを引っ張る責任が伴う。元々はただの吹奏楽好きなのに。

 去り際に「一緒に関西に行こうな」と笑った鈴本先輩は、学指揮ではなく、ただの吹奏楽が好きな先輩に見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る