第15話 必要なもの

 体育館シューズが床とこすれるかん高い音。ボールが跳ねる鈍い音。あれらの音を楽器で表現するにはどうしたらいいだろう。脳内で架空の曲を演奏し始めたが、ばかばかしくなってすぐにやめる。


佳穂かほは体育好き?」


 4時間目の体育。選択科目でバレーボールを選んだものの、強い熱意があるわけでもなく、屋内だから、というとても消極的な理由だ。体育は3クラス合同で行われるため、他クラスながら同じ種目を選んだ、オーボエ担当の桜木さくらぎ佳穂かほも一緒だった。

 休憩という名目で、体育館の端の方に座り込む。


「あんまり、ってか嫌い。中学までは内申があったから、手を抜くのもばれないように気をつけてたけど」

「手は抜くんだね」彼女の言葉に苦笑いする。


 佳穂は吹奏楽の超強豪校、こま中学校出身だ。佳穂の実力は群を抜いており、部内でもトップクラスなのは間違いない。しっかりと芯が通った、深く、甘く、つややかで切ない音に、私は合奏中でも聞き惚れてしまう。いつも澄ました顔で軽々と吹きこなしているので、実は簡単なんじゃないかと錯覚してしまいそうなのが恐ろしい。同じ高音域を担当する者として、佳穂は憧れであり目標でもあった。

 はたと気がつく。強豪校出身の佳穂なら、厳しい練習を乗り越えてきたことだろう。ひょっとすると紗英の問題を解決する糸口が見つかるかもしれない。


「どうしたの、急に深刻そうな顔になって」

「ねえ、佳穂は狛中出身だよね。練習とか厳しかった?」

「まあね。練習も厳しいし、それ以外の行動とか全部厳しいよ」

「先輩とか顧問の先生とか怖くないの?」

「そりゃ怖いよ。のんびり動いてたら怒鳴られるし、合奏でも吹けてなかったら出て行かされたり泣かされたり、そんなことしょっちゅう」

「怖くて吹けなかったり、逃げ出したくなったりはしないの?」


 佳穂は体育座りをしたまま、ぼんやりと遠くを見つめるようにゆっくりと顔を上げる。体育の男性教師は女性とに囲まれて和やかに談笑している。授業をさぼっている私たちには全く気づいていないようだった。


「あるよ、そういうこと。でも、一度逃げ出しちゃうと、後になって逃げたことを後悔するの。あのときもっと頑張ればよかったって」


 いったん離れると紗英が戻ってきづらいかもしれない、と言っていた千秋先輩を思い出す。あのときは人間関係のことだけかと思っていたが、演奏にも言えることかもしれない。


「だから、練習して乗り越えるの。練習しても練習しても不安になるけど、それを越えられるくらい練習するの。これは、個人の問題だから」

「ついていけない人はいないの?」

「いないよ。ついていけない人は辞めていくだけだから。辞めていく人のことは関係ないもの」


 一瞬息が止まる。

 関係ない。そう一言で静かに切り捨てる佳穂に、これまで過ごしてきた環境と、それに伴う考え方の違いを突き付けられた。


「じゃあ、佳穂はなんでついていったの?」


 佳穂は数回まばたきを繰り返し、私の方に視線を向ける。「理念の問題」と彼女はつぶやく。


「それが私たちには必要だったから」

「どういうこと?」

「前に進むため。どんなに厳しくても、前に進むために引っ張る人が必要だから。逆に組織が後ろ向きに進んじゃうなら、ついていく必要ないと思う」


 体育館特有の肌にまとわりつくような蒸し暑さに顔をしかめながら佳穂に尋ねる。


「それは引っ張る人によるってこと?」

「そう。もし、前でガミガミ言いながら引っ張る人が絶対的に正しくて、みんなを正しい方向に導くなら、その人に権力が集まって、その他の人がそれに従うのも悪くはないと思う」

「そう、なのかな」

「世界に目を向けたら、独裁政治でうまいこといってるところもある。今の幹部はそれに近いと思う。愛莉先輩も中学からあんな感じだし」

おなちゅうだったの?」

「うん」


 なるほど、鈴本先輩もずば抜けてサックスが上手く、指導能力も高いわけだ。

 鈴本先輩による基礎合奏は、短時間でも有意義な練習だと感じていた。いかに効率よく上達するか。いかに理論的に理解するか。いかに応用していくか。正しい上達には正しい練習が必要なのだ。彼女が前に立って指導するたび、そう気づかされる。

 もちろん、かなり高圧的で恐怖を感じることも多いため、ぐったりと疲れることは否定できない。


「愛莉先輩が狛中に入った頃、狛中はやや低迷気味で、関西も抜けられない年が続いてたらしいの。だから、愛莉先輩達は最後の年に絶対全国行こうって思ってたらしいの。私たちはその年入ったから詳しいことはよくわからないけどね。結果、久しぶりの全国大会で金賞。そこから狛中は毎年全国金」


 ずっと座っていたため凝り固まったのか、佳穂は足を前に伸ばす。


「今の幹部、私は悪くないと思う。ゴールデンウイークの演奏会、粗削りではあるけど、それなりに上手くいったよね」

「うん」私も佳穂をまねて前屈をし始める。

「それって、指揮者としてまとめあげた桑島先生の力でもあるけど、先生の力が及ばないところで、愛莉先輩とかが喝をいれたのもあると思う。こんなレベルの演奏じゃだめだって」

「カーペンターズのフリューゲルとか?」

「あの事件、噂になってた。愛莉先輩が悪者みたいになってたけど、吹けてない方が悪いし、結果的に佐々木先輩も悔しさをばねに練習してうまくなったんだから、別にいいと思う」


 高い笛の音が響き、整列するように指示される。時計を見るともう昼前だ。ほとんどボールに触らずに授業が終わったが、おとがめなしでほっとする。


「それに、上に立つとみんなを導く責任から、どうしても強い口調になっちゃうの。今の幹部に反感持ってる人も多いけど、あの人たちだって部活のこと真剣に考えてることに変わりはないんだから」


 そう言い残して佳穂はさっと列に向かう。私はやや痛くなったお尻をなでて、ゆっくりと立ち上がった。

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