第7話 始動②

 次の日、授業が終わるとすぐに私と菜々子は楽器庫に向かった。様々な不安はあれど、楽器が吹ける、練習できることに胸が弾む。楽器庫は私たちの教室や音楽室のある本館とは別の建物にあり、廊下でつながっている。行くのは若干面倒だが、そこへ向かう足取りは軽かった。


「薫ちゃんはこの楽器使ってね」


 自己紹介の後で優奈先輩に渡されたのは、楽器決めのときに貸してもらった楽器だった。


「悪くないと思うけど、いかんせんちょっと古いからね」


 少し歯切れが悪そうな物言いに私は笑って返した。


「中学のときと同じ型の楽器なのでちょうどいいです」


 フルートケースと基礎練習用の楽譜、そして譜面台を持ち一年八組の教室へと向かう。すると上の方からフルートの音が聞こえてきた。簡単に音出しをしているだけだったが、とてつもなく上手い。一体誰が吹いているのだろう。楽器を落とさないように、でも少し急いで階段を上る。

 教室へ着き、扉を開けずに中をそっとのぞきこむ。中にいたのは陽菜ひな先輩だった。演奏している曲は『アルルの女』のメヌエットだろう。抜けるようによく響き、強さと深みのある音。ずっと聞いていたいと思うほどに美しい。学校の教室のはずなのに、彼女の周りだけ別の世界のようだ。昨日額を机にぶつけていた姿とは別人に思えた。


「別人みたいでしょ」


 突然声をかけられ驚いて後ろを振り返る。


「あ、千秋ちあき先輩、こんにちは」

「あれがフルートの内外ともに認めるエースね。普段とギャップありすぎだと思うけど」

「陽菜先輩って、いつからフルートされてるんですか」

「小学校の頃からって言ってた。音大も考えてるとか。っていうか、中入らないの?傍から見てたら、薫かなり怪しいよ」


 そうですよね、と笑って扉を開ける。


「こんにちは」


 ぴたっと音が途切れ、陽菜先輩が振り返る。


「あ、えーと、もっかい名前きいていい?」

「薫です。水谷薫です」


 やはりフルート以外のことは抜けているらしい。


 荷物を空いている席に置き、譜面台を立て楽器を取り出す。他のメンバーも集まり始め、教室が無秩序な音で満たされていく。優奈先輩はやわらかく繊細な演奏が持ち味らしい。千秋先輩は曇りのないまっすぐな音をしていた。全くぶれない安定感がある。瑞穂先輩や未来先輩は高校から始めたそうだが、そうとは思えなかった。定期演奏会のときもうっすらと感じていたが、法蓮高校のフルートパートはかなりレベルが高いようだ。

 パンパンと乾いた音が響き、全員の音が止まる。吹奏楽部では全員が思い思いに音を出していると声が通らないため、話をするときには手を叩いて注目を集めることが多い。今手を叩いたのは優奈先輩だった。


「音出しは全員できたと思うんで、パート練習に移ります。私は舞香ちゃんに個人的に教えるんで、じゃあ千秋ちゃん、基礎練進めてもらってもいい?」

「はい」


 パートリーダー不在の際は三年の瑞穂先輩が進めると思っていたので、少し拍子抜けする。


「薫君、それはだね、あたしが教えるのが下手だからだよ!」

「瑞穂先輩、そこ胸張るところじゃないです。一年の二人も机邪魔だから運ぶの手伝ってくれる」

「「はい」」

「前ね、瑞穂先輩が仕切ったときがあったんだけど、ここはビューンとか、ここはぶおー、あと、気合いで合わせろ、みたいなことしか言わなかったのね。陽菜は上手いけどいろいろ抜けまくってるし、私は耳が良くないから、パーリー代理が千秋みたいになってるってこと」


 未来先輩が机を運びながら私と舞香に教えてくれる。


「ま、そこが瑞穂先輩のよさでもあると思うんだけど」

「お、千秋君、あたしのこともっと褒めてくれてもいいんだぞー」

「褒めてません! 練習やりますよ!」


「一、二」


 息をすべて吐き出し、お腹に力をこめて息を吸い込む。カチカチと正確に拍を刻むメトロノームの音に合わせ、音をまっすぐに伸ばす。ただそれだけのことでも気を配らなければならない点は山ほどある。合ってない。音が合っていないと音がぶつかり、うねっているように聞こえてうまく響かない。


「はい、そこまで。まず一年生二人はブランク明けだと思うので、まずはしっかりと息を管にいれてちゃんと鳴らしてください」

「「はい」」

「瑞穂先輩は音の処理がたまに雑になるので気を付けてください」

「はい!」

「未来は音が高くなったときに音が細くならないように」

「はい」

「あと全員もっと周りを聞いてください。全然合ってません。ただ漫然と吹くんじゃなくて、音程、音色、息のコントロール等に意識を向けて、自分の出す音に常に責任を持つようにしてください」

「「「はい」」」

「では次」


 千秋先輩の口調は厳しいものの、おそろしく的確な指示だった。自らも吹きながら全員の音を聞き分けるのは容易なことではない。先輩方の足を引っ張らないように頑張らなければ。背筋を伸ばし、紗英の方をちらりと見るも、彼女の背中は丸まったままだった。




 学校から最寄り駅まで徒歩二十分、そこから二度の乗り換え、最寄りの駅からは自転車で家に帰る。片道二時間弱。まったく、家が学校に近づくか、学校が家に近づくかしてほしいものだ。

 乗り換えの駅で階段を上がってホームに行くと、見知った顔があった。


「げっ」

「人の顔見て、げ、はないだろ」


 袴田はかまだゆうだった。中学が同じのため、当然帰る道も最寄り駅も同じである。それほど親しくもないため通り過ぎようかと思ったが、それも微妙なので一緒に電車を待つことにする。


「コントラバス、どんな感じ?」


 悠は高校でもコントラバス担当になっていた。重厚で、深い、豊かな音。彼ほどの実力があればまあ問題なだろうと思っていた。


「久しぶりに弾くと、やっぱ左手痛いな」

「私も。口の周りも疲れたし、腹筋もつりそう」


 コントラバスは左手で弦を抑え、右手で弓を持って演奏する。そのため慣れていない人だと左手の指先の皮がめくれてしまうこともある。


「コントラバスは全部で何人いるんだっけ」

「二年の木村きむら多恵たえ先輩と、一年の碓氷うすいみやこと俺」

「そっか、三年生はもう引退してるんだ」


 法蓮高校は進学校のため、春の定期演奏会で一足先に引退する人も一定数いるそうだ。どうしても夏のコンクールまで部活を続けると、他の部活の人より引退が遅くなるため、大学受験のための勉強が遅れることもある。

 アナウンスの後、ホームに電車が入ってきたので、電車内に乗り込む。


「碓氷さんって、楽器決めのときにマイ楽器について質問してた子だっけ」

「そう。トロンボーン希望だったらしくて、コンバスはまあ、いやいや練習してるって感じ」

「素敵な楽器だと思うけどな、コンバス」

「やってるうちにわかってくれたらいいけどな」


 会話が途切れ、私は電車の揺れに身を任せつつ、窓の外の流れる景色を眺め続けた。

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