第8話 練習

 朝練や放課後のパート練習、桑島先生や学指揮による基礎合奏なども経験し、少しずつ部活に慣れてきたある日のこと。私と紗英は優奈先輩から手渡された楽譜を信じられない思いで眺めていた。


「えっと、これ全部2週間で仕上げるんですか」

「うん、あんまり時間ないけど、頑張ろうね」


 2週間後に迫ったゴールデンウィークに行われる、ショッピングモールでの演奏用の曲だ。優奈先輩は相変わらず慈愛の笑みを浮かべているが、それで曲が減るわけではない。

 その数、実に4曲。名探偵コナンのテーマ、パプリカ、カーペンターズフォーエバー、そしてオーメンズ・オブ・ラブ。依頼演奏にふさわしく、音楽に詳しくない人でも楽しめそうなラインナップだ。

 もちろん吹奏楽オリジナルの曲もあるが、人気のJ-POPなどを吹奏楽用に編曲したものを演奏することもある。演奏できる曲の幅が広いことは、吹奏楽のいいところだ。


「ちなみに、オーメンズオブラブは法吹の十八番おはこだから、演奏する機会多いと思うよ」そう言って楽譜を覗きこんできたのは千秋先輩だ。

「その、おーめんずなんとか、ってどんな曲なんですか?」


 首を傾けたのは舞香だ。初心者の彼女たちは、演奏には参加せずパプリカでダンスを披露することになっていた。

 千秋先輩は質問されて気を良くしたのか解説し始める。彼女の指導は相変わらず厳しいが、元々面倒見はよいらしく、教えたり説明したりするのも上手い。


「オーメンズ・オブ・ラブね。元々はT-SQUAREっていうバンドの曲。今では吹奏楽ポップスのド定番みたいになってる。聞いても演奏しても楽しい曲。曲名は日本語にすると『恋の予感』」

「こ、こいのよかん! 素敵な名前ですね!」


 何を想像しているのかはわからないが、舞香は一人でにやついている。


「結構有名だけど、紗英はやったことある?」


 千秋先輩に急に話を振られ、紗英が驚いたのか、その場で縮こまっている。


「い、いえ、ないです……」

「まあ、私たち2・3年はパプリカ以外全部やったことあるから大丈夫」


 優奈先輩の言葉に、後からやってきた未来先輩も頷いている。先輩方は大丈夫でも私たち1年は全く大丈夫ではなさそうだ。

 ブランク明けなので基礎練はしっかりやりたいが、先輩方の足を引っ張らないように曲の練習もする必要がある。限られた時間内でやるべきことは多い。これは大変だ、と曖昧な顔で頷いた。



 桑島先生の指揮棒が止まり、音が止む。


「そこのフリューゲルソロ、もう少し音の輪郭くっきりと」

「はい!」


 カーペンターズフォーエバーは、かの有名なカーペンターズの曲六つからなるメドレーだ。6曲目の『遥かなる影』にはフリューゲルホルンのソロがある。フリューゲルはトランペットに比べてやや大きく、まろやかな音色が特徴で、トランペットパート2年の佐々木ささき志帆しほ先輩が楽器を持ち替えてソロを担当していた。

 フルート奏者がピッコロに持ち替えるのと同様、曲によってトランペット奏者はコルネットやフリューゲル、オーボエ奏者はイングリッシュホルンなどを担当することもある。


「音、固くならないで」

「はい!」


 先ほどからずっと同じ部分の練習が続いていた。集中砲火を受けている先輩は、やや疲れているようだったが、頬は赤くなり、その目には力がこもっている。集中的に指摘を受けている先輩を応援する気持ちと、自分でなくてよかったという浅ましい安堵が入り混じる。

 それにしても、と思う。桑島先生は相変わらず表情を崩すことなく淡々と、かつ手際よく練習を進めていく。鋭く飛ぶ指示に応えられなければ到底ついていくことはできない。求められるレベルは高く、練習が進むにつれ少しずつ、でも確実に全体がまとまっていくのがわかる。目指す目標の高さに、自分も高校生になったのだと改めて感じる。


「そう、今の感じ、忘れないで。では全員で頭から」

「はい!」


 合奏が終わり、紗英と話しながら階段を降りパート部屋に戻る途中のことだった。踊り場の方から険悪な雰囲気が漂っているのを感じる。私たちは顔を見合わせ、そっと廊下の陰に隠れる。


「そんな演奏、お客さんに聴かせるつもり?」

「いえ」


 腕を組み厳しい口調で叱咤しているのは、学指揮の鈴本先輩だ。もう一人は先ほどの佐々木先輩らしい。うつむいているため表情はうかがえない。手に持った銀色のトランペットとフリューゲルが痛々しく光を反射している。


「わかってるならちゃんと吹いて」

「すみません」


 ちょっとどいて、と肩を押され後ろを向くと、一目で怒っているとわかる顔があった。


「ちょっと、圭太けいた、今は行かない方が……」


 私の必死の声も聞こえていないように、富田とみた圭太けいたは鈴本先輩の方に近づいていく。私たちと同じ1年のトランペット担当だ。トロンボーンの双子の兄、亮太りょうたと区別するために名前で呼ばれていた。


「そんな言い方ってないんじゃないんすか」


 あちゃあ、と頭を抱えたくなる。彼は良く言うと素直、悪く言うと激情家、つまりは喧嘩っぱやいのだ。よせばいいのに、よりによって3年の先輩に喧嘩を売るとは。


「なに、文句あるの」

志帆しほ先輩だって頑張ってるのに、それを否定するんですか」

「吹けてないもんは吹けてないでしょ。あんたも他の人に気回してるひまあったら練習したら。ハイトーン外しすぎ」


 圭太は何も言い返せず、ぐっと手を握っている。鈴本先輩がその場から立ち去り、トランペットの2人も見えなくなったのを確認してから、私は大きく息を吐き出した。

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