第5話 自由になりたい
「皆さんのパートはオーディションを行い、公平に決定します」
藤原先輩の言葉を聞き、下ろした手にぐっと力が入る。
オーディションという言葉に、音楽室が少しざわつく。中学校、高校に限らず、楽器決めを行う際、本人の適性を見るためにオーディション形式を取る学校が多い。動揺を示したのは高校から吹奏楽を始める未経験の子かもしれない。
「オーディションといっても大したものではありません。未経験の人は先輩に指を教えてもらいながら音階を吹いてもらいます。経験者の人には簡単な楽譜を渡すので、それを演奏してください。第1希望から第3希望まで、3つの楽器を吹いてもらいます。先生方や先ほど紹介した学指揮、パートリーダーが、皆さんの向き不向きや全体のバランスを考えて担当楽器を割り振ります。何か質問はありますか?」
そこまで言って藤原先輩は全体をゆっくりと見回した。
「質問いいですか」私たちの後ろの方から凛とした声が響く。振り返ると長身にショートカットの女子が、すらりとした長い腕をまっすぐに上に伸ばしていた。
「どうぞ」
「高校から吹奏楽を始めるので自分の楽器を持っていません。そのことは楽器の決定に影響するんでしょうか」
彼女の言葉にはっと息を呑む。楽器の中では安価な部類に入るフルートはマイ楽器を持っている人も多い。しかし私は中学でフルートをしていたとはいえ、学校の楽器を使っていたため自分の楽器を持っていないのだ。
「正直言うと、マイ楽器が楽器の決定に関わってくることもあります。ただそれはあまりにも希望者が多い場合のみです。基本的には個人の向き不向きのみで決めます。学校にも楽器はあるので、入部してからも楽器の購入を強制することは絶対にありません」
私立の高校ならまだしも、公立の学校だとかなり劣化が進んだ楽器が多い。藤原先輩は立場上そう言うしかないのだろうが、自分の楽器を持っている方がいいのは間違いない。フルートは経験者も一定数いるだろうし、その華やかさから未経験者からの人気も高い。
「それでは、これから1年生は別の教室で待機してもらいます。既に希望は出してもらったと思うので、紙に書いた楽器が呼ばれたら、そのパートの先輩についていってください。先に教室で練習してもらってから音楽室でオーディションをする予定です。希望する楽器がちゃんと練習できるように順番は組んだつもりですが、もし不都合があれば遠慮なく言ってください。では移動します」
藤原先輩のあとに続いて、音楽室を出る。
これからのオーディションで3年間を共にする楽器が決まる。盛んに他の1年生に話しかけている人も、黙りこくっている人も、不安なことに変わりはないはずだ。
「緊張するなぁ」菜々子が手で胸の辺りをさすっている。
「菜々子はやっぱりホルン希望?」私の言葉に菜々子は柔らかく微笑む。
「うん、私、ホルン好きやし。第1希望がホルンで、その次がユーフォ、第2が迷ったけどファゴット」
「なんか穏やかな感じが菜々子に合いそうだね」
ホルンやユーフォニウム、これに加えトランペットやトロンボーン、チューバなどは金管楽器に分類される。これらはマウスピースと呼ばれる部分に息を吹き込み、唇を振動させて音を出す。
一方、木管楽器が音を出す原理は様々だ。クラリネットやサックスだと、マウスピースに1枚のリードをつけ、マウスピースとリードの間に息を吹き込み振動させる。オーボエやファゴットは、2枚のリードを楽器に差し込み、リードを直接口でくわえて息を入れる。フルートやピッコロは、歌口に息を吹き込むことで管の中に空気の渦ができて音が鳴る。
これらの管楽器に加え、弦楽器であるコントラバス、様々な打楽器などが掛け合わされて吹奏楽は成立する。
「薫は何の楽器希望なん?」
「第1がフルート、第2がオーボエ、第3がクラかな」
「私たち、絶対同じパートにはならんね」
「まあ戦わなくていいのは嬉しいけど」
教室で自己紹介やLINEの交換をして過ごしていると、フルート希望の人は集まるよう連絡される。
「じゃあ、フルート希望の人は私についてきてね」
そう言った先輩は、赤色のスリッパを履いている。藤原先輩や鈴本先輩は緑色のスリッパを履いていたので、おそらく2年生だろう。
予想通り、フルートの希望者は多かった。こっそり人数を数えると、第2・第3希望の人も含めて10人だった。この中で第1希望の人は何人いるのだろう。先輩に連れられ、とある教室に入る。
「いらっしゃーい! フルートパートだよー! さあさあ小羊ちゃんたち、こちらにおいでー!」
「先輩、時間ないのでやめてもらえますか」
「わはは」
髪の短い2年生はげんなりした表情を隠そうともせず、高らかに笑った3年生に突っ込みをいれている。教室にいたもう一人の2年生は、楽器を組み立てるのに忙しそうだ。先ほど私たちを先導した先輩はというと、少し申し訳なさそうな顔で立っている。
「じゃあ、フルート経験者の人は……」
うんざりした表情を引っ込めた2年生の言葉に黙って手を上げる。
「2人ね。じゃあ、あなたたちはこっち。それ以外の人はあっちに分かれてください」
「はい」
もう1人の経験者は赤縁の眼鏡をかけた女子だった。その手には見覚えのあるフルートケースを持っている。急に汗ばんできた手をスカートにこすりつける。
「楽器は……あ、そっちの子は持ってるね。あなたには貸します。で、オーディションではこれを吹いてもらいます。今からの時間で好きに練習してください」
渡された楽譜は8小節ほどの短いものだった。シューマン作曲、トロイメライの一部だ。元々はピアノの曲だったと記憶している。ゆったりとして、柔らかく美しい。それほど難しいメロディーではないが、それゆえごまかしがきかず、実力が明らかになりそうな曲だ。
「この楽器、使ってね」私たちを先導した先輩に楽器を渡される。
「ありがとうございます」
「頑張ってね」
中学卒業後3月の演奏会に出たとはいえ、ブランクがあることは否定できない。不安を感じながらフルートケースを開くと、嬉しさがこみ上げてきた。
やっぱり、フルート、好きだ。そう改めて感じる。
頭部管を丁寧に取り出し、息を吸い込む。お腹に力が入る。コントロールしつつ、息を吐き出す。程よい抵抗を感じると、その瞬間明るい音が鳴り響く。息のスピードを上げると、先ほどより高い音が鳴る。
もはや周りのことは全く気にならなくなった。早く吹きたい。早くフルートを吹きたい。
♪
赤縁眼鏡の彼女がオーディションを終え、音楽室から出てくる。硬い表情で出てきた彼女は、軽く会釈をして通り過ぎた。
「失礼します」
音楽室の扉を開き、中に入る。桑島先生、絹田先生、学指揮の二人の他にも多くの先輩がずらりと並んでいる。恐らく各パートのパートリーダーだろう。
「名前と希望順を言ってください」
桑島先生の声に萎縮しそうになりながらも、深く呼吸をして心を落ち着ける。
「
「経験者ですか。ピッコロの経験は?」
「中学のとき、たまに持ち替えてやっていました」
「わかりました。では演奏をお願いします」
「はい」
フルートを横にかまえ、息を吐き出した後、深く息を吸い込む。
最初の低い
もっとのびやかに音を伸ばしたい。キラキラと反射するような、もっと美しい音を出したい。もっと美しくビブラートをかけたい。もっと、思うままに表現したい。
もっと、もっと、自由になりたい。
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