第888話 春和景明(しゅんわけいめい)
与祢が里帰りしている中、必然的に与祢は大河と一緒に居る機会が多くなる。
「若殿~」
「うん~?」
「どこか行きましょうよ~」
大河の背中を文字通り、足踏みしていた侍女の甘えた声に耳を傾ける。
「どこって?」
「どこか?」
「提案した癖に案は無いのかよ?」
「だって、若殿が乗り気だとは思わなかったから~」
大河は振り返り、与祢の頭を撫でる。
「んじゃ、ちょっと外行こうか?」
「いいんですか?」
伊万は両目を輝かせる。
「気分転換も大事だからな」
「そうですね。では、準備します!」
最敬礼すると、伊万は準備の為に出ていく。
ただの外出なので、所持品は財布くらいでいいのだが、伊万なりの何かがあるのだろう。
大河も察して追及はしない。
「若殿~」
洗い物を終えた珠が寄ってきた。
「お散歩ですか?」
「そうだね」
「ご一緒しても?」
「ああ。あと、
「はぁ? 何故です?」
「未来の話をしたいから」
突如呼ばれた今川範以は、嬉しい反面、戸惑いが隠せない。
「義父上、何か御用ですか?」
「済まんね。急に呼び出して」
「いえ」
大河は相手に配慮する為、基本的に呼び出すことは無い。
範以を肩車すると、伊万と珠と手を繋ぐ。
「じゃあ、行こうか?」
「……」
父・氏真にしてもらった記憶は殆どない。
父は息子よりも和歌や
その点、義父・大河は相手してくれるらしい。
年下の義母(予定)の伊万を見下ろすと、彼女は
子供の癖に化粧は早いような気もするが、現代日本でも小学生が化粧しているように、美容に年齢は関係ない。
「えへへへへ♡」
伊万は大河の手の甲に頬ずり。
一行は京都新城を出ていく。
外は桜の季節だけあって、桃色がそこかしこを
「範以、肩車されるの初めて?」
「いえ、多分数回はあるかと」
「じゃあ、最低でもあと9回はしたら、実父超えるな?」
「恐らく……張り合っても義父上の方が好きですよ」
「まぁそういうな。俺にだって自尊心はある」
がははと笑う大河。
放任主義的教育方針であるが、なんだかんだで前夫には何事でも勝ちたいようだ。
「若殿~、私にも肩車して下さいよ」
伊万は甘えるも、大河は手厳しい。
「してもいいけど、止めた方が良いと思うよ」
「何故です?」
「アプトに報告が行くと思うから」
「あー……」
頭を抱えた伊万は、渋々首を振った。
「分かりました。諦めます」
肩車は、
・正室
・側室
・子供
の特権で、婚約者は対象外だ。
婚約者であれど、女官の身分でもある伊万が行うと、当然、侍従長のアプトの激怒は避けられない。
一行は淀川の
範以は降りると、自然に大河の膝に座った。
「お?」
「いけませんか?」
「いや、いいよ」
大河は驚きつつも笑顔で、範以の頭を撫でる。
「義父上、今日は何故お誘いに?」
「んー……将来のこと話したくてね」
範以を抱き締めつつ、大河は続ける。
「将来、ですか?」
「うん。あくまでも相談なんだけど、『今川』の名を残したいんだよ」
「!」
驚いて、範以は振り返る。
「……急な話ですね」
「名門だからな」
今川氏は足利氏以来の名門だ。
史実では桶狭間の戦い以降、急速に衰退したが、戦国時代を生き残り、江戸時代も脈々と続き、明治20(1887)年に
「私に今川の名を?」
「いいや。そこまでは言ってない。ただ、事実上の現当主である範以の意見も聞きたかったのよ」
「私の? ですか?」
範以は目を白黒させる。
「現当主を差し置いて、勝手に進めちゃ不味いでしょ」
「そうですが……今川の件は、義父上にお任せしていますよ?」
「そう?」
「私は
「無理強いはせんよ」
範以の頭を強く撫で回す。
「じゃあ、当主様のお許しが出たことで、今川は継承かな」
「誰が継ぐんです?」
「さぁねぇ」
大河としては範以など、氏真の息子たちに継がせたい筈だが、決して口に出さない。
「……もし居なかったから私が―――」
「元服後に決め。そういうのは」
大河に頭を撫でられ、範以は目を細める。
あくまでも自由意志。
その方針は範以としてもプレッシャーが少ない為、ありがたい。
「若殿~。団子、買って下さい~」
「珠、人数分頼む」
「はい」
伊万の甘えに大河は、苦笑しつつ、お金を渡す。
平和な日常がそこにはあった。
[参考文献・出典]
*1:松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館 2015年
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