第756話 娘ノ愛

 万和6(1581)年8月10日。

 早朝。

「……」

 大河が目覚めると、成人化し、覗き込んでいた璃子と目が合う。

「……おはよう」

「おはよ。おとん」

「今、何時?」

こく(現・午前5~7時)やで」

「早起きだな」

 欠伸を漏らしつつ、大河は起き上がった。

 左右には昨晩、枕を交わした珠と幸姫が眠っている。

 2人は不寝番ふしんばんの当番だったのだが、大河に襲われたようだ。

 2人を起こさないように大河は、慎重に布団から出た。

「んで、早朝からどうした?」

「おとんの朝を興味があって見に来たんや。昨晩も激しかったようやな?」

「……」

 娘に見透かされ、大河は内心ムッとするも、それを指摘することはない。

「父親の同衾どうきんは、子供として嫌じゃないのか?」

「おかんの腹に居た時から見てんねん。今更いまさらの話や」

「……そうか」

 橋姫の妊娠が判明する直前まで、大河は彼女と愛し合っていた。

 その際、側室や愛妾あいしょうも同衾に参加することがあった為、璃子には全てお見通しだったようだ。

「おとんの武力と性欲の強さは、先祖が原因やで」

「先祖?」

「ああ、知らんのけ? おとんのご先祖様に在原業平ありわらのなりひらはんが居るんやで」

「……光源氏の模範が?」

「せやで。やから、沢山の女性を魅了させるんや」

「……なるほどな」

 在原業平には、

 長男・棟梁むねはり(850頃~898)

 三男(*1)・滋春(ありわら の しげはる)(? ~?)

 などの子供が確認されているが、色男である業平は、生涯何千人もの女性と関係を結んだ。

 当然、その中には、確認されていない隠し子も居るだろう。

 その中の誰かの遺伝子が、脈々と受け継がれて、大河に辿り着いたのかもしれない。

「……俺は、猶太ユダヤ人らしいが?」

「それも事実。でも、こっちも事実よ」

「……」

 案外、人間は自分がどんな出自ルーツなのか知らないものだ。

 例えば、ハンガリーで反ユダヤ主義を掲げる極右政党の副党首は、過激な反ユダヤ主義者であったが、ある日、彼は母方の祖父母がアウシュヴィッツを生き延びたユダヤ人であることを知った。

 この前後の出来事は、後にドキュメンタリー映画にもなった。

 また、現代でもDNAを検査する機械を使って、自分の出自を探ってみた所、純日本人と思っていた人が意外にも外国の血が入っていた例もある。

 大河もその例だ。

「それよりも、おとんは何人子供をもうける気や?」

「そりゃあ妻には出来たらだけど、最低でも1人ずつかな」

殊勝しゅしょうな心がけやけど、あんまりお勧めは出来へんな?」

「やっぱりか?」

「分かってるの?」

「『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』よ。モンゴル帝国の事例だろ?」

 一時、ユーラシア大陸の殆どを領域としたモンゴル帝国であるが、その衰退は、皇位カーンを巡る成吉思汗チンギスハンの子孫同士を対立であった。

 ―——

 1307年、モンゴル帝国第6代皇帝・鉄穆耳テムル、崩御。

 皇后・卜魯罕ブルガン阿難答アナンダを次期皇帝に擁立を画策するも、鉄穆耳の義姉・答己ダギが政変を起こす。

 その結果、答己の息子・海山カイシャンが即位。

 同年、卜魯罕、阿難答は海山によって処刑(*2)。

 1311年、海山、崩御。

 その後、答己が海山の側近を追放して実権を掌握。

 1322年、答己、死去。

 1323年、南坡なんはの変により政情が不安定化。

 更に黒死病の大流行と天災が重なり、国力も低下。

 1334年、モンゴル帝国、東西に分裂。

 この後も対外戦争の敗北と内部抗争により、モンゴル帝国は更に縮小化していく。

 ―——

 山城真田家も巨大化すればするほど、モンゴル帝室のように将来的に子孫同士で争う可能性も無くは無い。

「じゃあ、今後は避妊した方が良い?」

「いいや。めとった以上、幸せにするのがおとんの務めや。子を望んでいるのに避妊するのは、夫として失格やで」

「……」

「おとんがするのは、兎に角おかんを幸福にすることや。子孫のことは、わてが少し調整するけど、基本的には現状問題無いで」

「……じゃあ、何故、話したんだ?」

「この世に『絶対』はありえへん。わてが調整しても起きる時は起こるかもしれない。だから、おとんには、ということを念頭に置いて子作りに励んで欲しいんや。その方が、わてとしても調整がしやすい」

「……『念には念を入れよ』ということか?」

「おとんの好きなことわざやろ?」

 ニッコリと笑うと、璃子は大河と手を繋ぐ。

「なんだ?」

「お盆休みやろ? 城内案内してくれへん?」

「はいよ」

 2人は父と娘だが、恋人繋ぎで歩き出す。

 その光景はさながら、若夫婦のそれであった。


[参考文献・出典]

*1:『コンサイス日本人名辞典 第5版』

   上田正昭 津田秀夫 永原慶二 藤井松一 藤原彰(株式会社三省堂 2009年)

*2:C.M.ドーソン著/佐口透訳注『モンゴル帝国史 3巻』平凡社 1971年

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