第738話 北条高広

 万和6(1581)年7月10日。

 この日、京都新城敷地内の上杉氏邸には、上杉氏一族とその家臣団が一同に会していた。

 一族、家臣団の出席者はそれぞれ以下の通り。

【一族】

・謙信

・綾御前

・景勝

 の以上、3人。

【家臣団】

 ※生没年は史実の年代。

荒川長実あらかわながざね(? ~?)

・宇佐美定行(? ~?)

・鬼小島弥太郎(? ~1547/1561/1582?)

・甘粕近江守(? ~1604)

・斎藤朝信(1527? ~1592?)

・直江兼続(1560~1620)

・本庄繁長(1540~1614)

・毛利上総介(1557~1622)

 の以上8人。

 本当は、越後十七将えちごじゅうしちしょうが勢揃いしたい所だが、如何せんそれは困難な話だ。

 謙信の影武者(説)の荒川長実あらかわながざねが永禄4(1561)年の第四次川中島合戦後に行方不明になるなど、欠員も多いのである。

「この度、諸君に集まってもらったのは、他でもない。正妻がご出産以降のことだ」

「「「……」」」

 家臣団は、生唾を飲み込む。

 謙信の言いたいことが分かったのだ。

「皆も知っての通り、夫は大変、正妻を愛しておられる。今後、赤子が後継者になる可能性が高い」

「「「……」」」

「その上、溺愛し、他の妻妾との交流が減る可能性もあり得る。そうなった時、考えられるのが嫉妬の末の攻撃だ」

「「「……」」」

「あまり言いたくはないが、妻妾たちは元々政敵同士の家の生まれ。今でこそ均衡が保たれているが、夫が偏り過ぎると均衡は崩れやすい。最悪、お家騒動だ」

「「「……」」」

「そこで諸君には今後、より一層、他家への監視に努めて頂きたい」

「「「は!」」」

 上杉氏は朝廷から信頼を得ている自負があるもあり、の不祥事を極端に嫌う傾向があった。

 公正中立を基本と成す大河が、特定の妻子を偏愛へんあいすることは今まで無いが、彼とて人間だ。

 無意識のうちに偏ってしまう場合も有り得る。

「陛下、元聖下、王女様以外の監視を徹底するように」

「「「応!」」」

 野太い返事が室内にとどろいた。


 現在の京都府綾部市町には、後に上杉氏の祖・上杉重房うえすぎしげふさ(? ~?)が居た。

 彼は宗尊親王むなたかしんのう(1242~1274)が鎌倉に行く際、その介添えととして供奉ぐぶした(*1)為、こことの縁が事実上、途切れてしまった。

 だが、今回、山内上杉家17代当主(上条上杉家の祖・上杉清方うえすぎきよかた含む)・謙信が大河と結婚し、彼が朝顔と婚約したことで再び京との繋がりが出来た。

 残念ながら京の中心地から上杉町までは、現在の京都縦貫自動車道経路で70㎞以上。

 自動車でも1時間以上もかかってしまうのだが、越後国(現・新潟県)に居た時よりも先祖の地に近づいた上杉氏の士気は高い。

 こういった事情からも上杉氏が一族全体で、不祥事を嫌うのは当然の話であった。

 しかし、かと言って上杉氏家臣団が絶対に一枚岩とは言い難い。

 収容能力キャパシティー上の問題から私邸に呼ばれなかった家臣も居る。

 その1人が、北条城主きたじょうじょうしゅ北条高広きたじょうたかひろだ。

・同時代に後北条氏ごほうじょうしが居ること

・「きたじょう」よりも「ほうじょう」の方が知名度が高いと思われること

 などから、こちらも「北条高広ほうじょうたかひろ」と誤読しそうな所であるが、「北条高広きたじょうたかひろ」が正確な読み方のである。

 北条氏ほうじょうしと漢字が同じなのに読み方が違うのは、両者の成り立ちが違うからだ。

 ―——

北条ほうじょう

 鎌倉時代の執権が出自。

 主要な根拠地は、相模国鎌倉郡(現・神奈川県横浜市など)。

北条きたじょう

 元は大江毛利氏系の氏族。

 代々の根拠地は南条みなみじょう(現・新潟県柏崎市 *2)。

 そこから「南条」と称していたが、後、北条きたじょう(現・同県柏崎市)へ拠点を移した為、「北条氏」となった(*2)。

 ―——

 その「北条きたじょう」の姓を持つ北条高広は、私邸に呼ばれなかったことに不満を持っていた。

(……やはり殿は、あのことを恨んでいるのか……?)

『器量・骨幹、人に倍して無双の勇士』(*3)と謳われた高広が、呼ばれなかったのは、異例なことであろう。

 高広が気にしているのは、2回もの反乱だ。

 一度目は、天文23(1554)年。

 この時は、武田信玄と内通し、挙兵した。

 しかし、翌年、攻められて降伏。

 謙信は高広を許し、彼は奉行としてその後、活躍する。

 二度目は、永禄10(1567)年。

 13年ぶり2回目の反乱である。

 この時は、北条氏康と通じてのことだ。

 だが翌年、越相同盟えっそうどうめいが成立し、上杉と北条の戦は終わった。

 梯子はしごを外された高広は、氏康の子・氏政に仲介してもらい、何とか上杉氏に帰順する。

 史実では、この後、謙信が亡くなるまで仕え、御館の乱(1578年)には景虎(氏康の七男。後、謙信の養子)を支持し、景勝と対立するも敗戦。

 主君を失った高広は、その後、武田氏、織田氏、北条氏と転職を繰り返した。

 最後の主君を景勝を選び、上杉氏に帰順した。

 2回反逆したにも関わらず許された恩を仇で返す高広は、武勇に優れた一方で「人間性に問題がある」と言えるだろう。

(……殿が無視するのであれば、滅私奉公する意味は無いだろう)

 高広は嘆息交じりに刀を握るのであった。


[参考文献・出典]

*1:『続群書類従』「上杉系図」

*2:ウィキペディア

*3:『北越軍談』

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