第737話 愁苦辛勤

 ―——

夫貴人前居夫れ貴人の前に居ては 顕露不得立顕露に立つことは得ず

 =偉い人の前に出た時は、目立とうとしないこと


 遭道路跪過道路に遭うては跪きて過ぎよ 有召事敬承召すことあらば、敬つて承れ

 =道で会った時は跪いて通り過ぎるのを待つこと

  用事を申し付けられたら敬意を払って聞くこと


  両手當胸向両の手を胸に当てて向へ 慎不顧左右慎んで左右を顧みず

 =昔は心は胸に在ると考えられていた

  慎み深い態度で挙動不審になってはいけない


 不問者不答問はずんば答へず 有仰者謹聞仰せ有らば謹んで聞け

 =質問されないなら答える義務は無い

  何か仰られる時はうやうやしく聞くこと


  三寶盡三禮三宝には三度礼を尽くせ 神明致再拝神明には再拝を致せ

 =三宝(仏、法、僧侶)には三度礼をして敬意を示すこと

  神社での礼は2回すること


 人間成一禮人間には一礼を成せ 師君可頂戴師君には頂戴すべし

 =知人に会ったら1回頭を下げること

  師や偉い人には敬意を込めてお辞儀すること


 過墓時即慎墓を過ぐる時は即ち慎め 過社時即下社を過ぎる時は即ち下りよ

 =墓前通過時は慎ましくすること

  神社前通過時は、乗り物から降りること


 向堂塔之前堂塔の前を向つて  不可行不浄不浄を行ふべからず

 =寺の堂塔前では不謹慎な言動は厳禁


 向聖教之上聖教の上に向つて 不可致無禮無礼を致すべからず

 =尊い教えが説かれている時は、静かに耳を傾けなこと』(*1)

 ―——

『童子教』の初めに書かれた部分を初等部の児童たちは、

「「「……」」」

 真面目に黙読している。

 教壇に立つのは、黒色の袈裟けさを着た愛王丸。

 袈裟の色は宗派によって階級が違う為、一概に言えないが、愛王丸が修行している寺院では、修行中の僧侶は皆、黒と決まっている。

「……せんせ~」

「はい」

 当然、教員免許は持っていないのだが、幼い子供たちには、外部講師も職員も清掃員も皆、「先生」なのである。

 愛王丸は十戒じっかいの一つ、『不妄語ふもうご』(=嘘を点いてはならない *2)を気にしつつ、傾聴する。

「このかんじ、わかんない~」

「これはですね―――」

 黒板に文字を書く。

 子供たちは、威厳のある偉そうな大人よりも愛王丸のような、年齢が近い者の方が緊張しにくい。

 その為、気兼ねなく質問することが出来る。

「———こういう意味ですよ」

「せんせ~、ものしり~」

「は、はぁ……」

 女子生徒に褒められ、愛王丸は苦笑いするのであった。


 傷病休暇中の鶫は、布団の上でうつぶせで居た。

「……」

 手鏡で自分の顔を確認する。

 少しふくよかになった感じに、うつむく。

 ほぼ寝たきりな状態なので、鍛える機会がなくなり、少々肥えた。

 他人には分からないくらいの僅かな増量だが、筋肉質な体躯が好みの大河がどう思うだろうか。

 人妻や寡婦かふ、人外など、嗜好が豊富な大河であるが、太った女性は居ない。

 なので、好みではないのだろう。

「……はぁ」

 嘆息していると、小太郎が水を持ってきた。

「体調、大丈夫?」

「あ、うん……」

「主が心配して来たよ?」

「え?」

 見上げると、小太郎を抱き寄せる大河が居た。

「若殿!? ―——あ、痛!」

 慌てて姿勢を正そうとするも、腰が痛く、動けない。

「無理するな」

 大河は小太郎を抱き締めたまま鶫の目の前で座る。

「申し訳御座いません。こんな姿勢で……」

「そのままで良いよ」

 小太郎の顎をタプタプさせつつ、大河は続ける。

「負傷兵に無理させることは無いから」

「……申し訳御座いません」

 何度も鶫は謝る。

 自分が欠けたことで、用心棒の班には、井伊直虎と稲姫が加わった。

 武に自信がある鶫だが、厳しい戦国時代を生き抜いた姫武将2人には、到底敵うことはない。

 特に稲姫は、猛将・本多忠勝の長女だ。

 焦るのは駄目なのだが、相手が強敵な以上、不安になるのは当然のことだろう。

「……代替要員は活躍していますか?」

「まぁな。すぐ慣れたし」

「……私、復帰した後はどうなるのでしょうか?」

「復帰しても体力や筋肉が落ちてるだろうから、すぐには現場には立たせんよ。徐々にだから」

「……はい」

 不安感からすぐにでも現場復帰したい鶫は、理想と現実の乖離から心がし潰されそうになっていた。

 室内には入ってきていないが、用心棒である以上、2人も近くに居る筈だ。

 自分と離れた後、大河は2人と合流するのは、非常に心苦しい。

「……」

 いけないことと分かりながらも鶫は、大河の手を握る。

「若殿、お時間は大丈夫でしょうか?」

「半刻(現・1時間)後には出ないといけないがな」

「……限界まで一緒に居て下さいます?」

 我儘わがままを承知で頼み込む。

「分かったよ」

 大河は微笑んで、その背中を優しく撫でる。

 腰に触れないのは、彼なりの配慮であろう。

「……ありがとうございます♡」

 同衾出来ないが、その分、純愛を愉しむことが出来る。

 鶫は限られた半刻の間、小太郎と共に大河とイチャイチャするのであった。


[参考文献・出典]

*1:齋藤孝 『こどもと声を出して読みたい 童子教 江戸・寺子屋の教科書』 2013年

   到知出版社 一部改定

*2:新纂浄土宗大辞典

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