第614話 眥裂髪指

 万和5(1580)年12月26日。

 朝。

「……」

 私は、布団の上で温かい紅茶を飲んでいた。

 淹れた人は、真田大河。

 元山城守で、現在は、近衛大将をされている高位な方だ。

 そして、私達は、昨晩、愛し合った。

 と言っても、殆ど夫の方から求められただけだが。

「……」

 ちらりと、見る。

 昨晩は侍女2人を抱いて、更に私ともう1人の侍女まで愛したというのに、平気な顔だ。

 腕を枕にして熟睡中の風魔小太郎の髪を撫でていた夫は、私の視線に気付くと、

「……」

 にっこりと微笑んだ。

 暗殺未遂事件の際、私を組み伏せたあの顔は嘘だったかの様な柔和な表情だ。

 思えば昨晩も優しかった。

 見た所、感情の9割が温厚にr見える。

 御子息や与免様等が粗相をしても、全然怒らない。

 妻が散財してもだ。

 怒った顔は、あの時位しか知らない。

 滅多に怒らない分、家臣団からも慕われている様で、不平不満も訊かない。

 武田信玄や徳川家康等の様に良い武将には、良い人材が集まった例に則り、夫の部下達も又、有能揃いだ。

 夫が口を開く。

「温まった?」

「……はい」

「それは良かった」

 夫は、微笑を崩さない。

 その上、私の肩に腕を回し、囁いた。

「なぁ、前夫とどっちが良かった?」

「!」

 余りにも無礼な発言に私は、露骨に眉を顰めた。

 短刀が傍にあれば、そのまま刺しても可笑しくは無い。

「セクハラ」

「ぐえ」

 夫は、かかと落としを食らい、前のめりに倒れた。

 私は、何とか支える。

 正直、嫌だが、夫婦である以上は仕方がない。

 助けなければ、前夫の実家が滅ぼされる事にもなるから。

「御免なさいね。この馬鹿は」

 犯人は、橋様であった。

「貴女が相当お気に入りで誘拐婚みたくなっちゃったね?」

「……はい」

「本当は送り返すのが筋なんだろうけどね。事情が事情だからその辺は許してね? この家に居る限りは、生活は保障されるし、この馬鹿も奴隷と言っても酷くは使わないからさ」

「……はい」

 その点は、最近の言動で分かった。

 体罰も無いし、暴力も無い。

 昨晩も、暴力的かと思えば、「嫌ならしないから」と再三、確認した上で抱いた。

 武人の癖に攻撃的な事は余り好まないのだろう。

 そういえば、戦国時代、山城真田軍は、敵兵を殺傷する事はあっても、捕虜に対しては、非常に寛大で、道徳の教科書にも載っている。

 家臣の中から戦争犯罪人が出た場合は、慎重に調査した上で、犯人を死刑に処している程だ。

 若しかしたら、羽柴家への攻撃は、脅しだったのかもしれない。

 ただ、実際には、足利義昭を行方不明にさせたり等、色々大暴れしてもいる為、その辺は匙加減さじがげんの要素が強いだろうが。

 橋様は、私から夫を奪い取ると、今度は熱く抱き締める。

「もう、貴方って人は……」

 その行動は、以前、羽柴家に居た時、私と秀吉様が密会していたのを見付けた寧々様と同じものであった。

 寧々様は、私達が会うと決まって秀吉様を叱ってらっしゃった。

 力関係を考慮した上での事だろう。

 この家での正妻は、立花誾千代様なのだが、こうしてみると、文字通り一心同体の橋様が1番正妻に近いのかもしれない。

「貴女、生きたい?」

 ふと、真剣な眼差しになった。

「……と、申しますと?」

「見てて人生楽しくなさそうだな、と。だから、終わりにしたければ手を貸すよ?」

 そう言って短刀を目の前に置いた。

 これで自刃しろ、という意味の様だ。

「……自害を勧めるんですか?」

「元居た家は瀕死。実家は黙認。貴女の味方は、酷だけど、この馬鹿しかいないよ?」

 ツンツンと、橋様は、夫を指で突っつく。

「でも、貴女は心を開かない。健気けなげなこの人が可哀想だな、と」

「……」

 漸く私は、その真意を悟った。

 橋様は私よりも夫を優先しているのだ。

 先程のは助けてくれたのは、あくまでも私と話をする口実だったのかもしれない。

「……」

「私はこの人の妻である以上、何よりもこの人を優先する。貴女がこの人に迷惑をかけるのであれば、貴女には死んで頂きたい」

「……羽柴家は残りますか?」

「さぁ? この人次第よ」

 橋様は、元山城守を更に強く抱き締める。

「……分かりました。運命を受け入れます」

「この人を好きになるの?」

「善処します」

「貴女ねぇ……」

 私は、短刀を手に取り、小指を伸ばす。

 そして、

「あ―――」

 橋様が止める間も無く、指を詰めた。

 本来であれば、のみで一気にするのが、通例らしいが、私はこれでも武家の娘だ。

 激痛に耐えつつ、脂汗を噴出させつつ、切断された小指を橋様の前に置いた。

「これが……私の覚悟です」

「……!」

 橋様は、呆気に取られて動けない。

 数秒後、我に返り、受け取る。

 それに満足した私は、やがて気を失うのであった。


「そんな事が……」

 橋姫から話を聞いた大河からは、それ以上の言葉が出ない。

「すぐに医者に連れて行ったから縫合は出来たわよ。神経も問題無いらしい」

「……分かった」

 大河は、寝台で眠る姫路殿を見下ろす。

「……それで俺の好意は伝わったのか?」

「本人は『現実を受け入れる』って。でも、何故、心中立しんじゅうだてを?」

「多分、遊女の悪習が原因じゃないかな?」

「遊女?」

「ほら、時々、瓦版で報じられるだろ? 『遊女が指を詰めた』とかって」

「ええ」

「あれは、愛の証でよく不人気な遊女が間男まおとこの為にするんだよ」

「……悪習だね」

「そうだよ」

 心中立ては、指以外にも、

・髪を切る

・誓紙を交わす

 等の行為も言う(*1)。

 指詰め以外なら自傷行為では無い為、大河も黙認するが、流石に行き過ぎると悪習と判断せざるを得なくなる。

 その究極が、相対死あいたいじにであり、心中事件として報道される。

 ―――

 事例(史実での江戸時代のみ)

・曽根崎心中(*2)

 時期 :元禄16(1706)年4月7日早朝

 犠牲者:大坂堂島新地天満屋の女郎・はつ(21 本名・妙)

     内本町醤油商平野屋の手代てだい・徳兵衛(25)

 場所 :露天神つゆのてんの森(現・大阪市)

心中天網島しんじゅうてんのあみじま(*2)

 時期 :享保5(1720)年10月14日夜

 犠牲者:大阪天満お前町の小売紙商紙屋・治兵衛

     曾根崎新地紀伊の国屋の妓婦・小春

 場所 :大長寺 《だいちょうじ》(現・大阪市)

・藤枝心中(*2)

 時期 :天明5(1785)年8月14日(*3)

 犠牲者:新吉原江戸町1丁目の妓楼ぎろう・大菱屋九右衛門抱えの遊女・綾絹あやぎぬ

     旗本寄合席・藤枝家最後の当主・藤枝教行ふじえだのりなり 妻帯者

 場所 :農家の家

 ―――

 こういった事件は、瓦版が煽情的センセーショナルに報じる為、世間の関心を引き、ウェルテル効果で自殺者を誘発させ易い。

 実際、史実でも享保8(1723)年、江戸幕府は心中ものの上演を禁じた程である。

 姫路殿もこういった心中ものから影響を受けた可能性がある。

 今回は指詰めで済んだが、激化エスカレートしていけば、相対死も考えられるだろう。

「……」

「貴方、この子を守る決心は出来た?」

「最初からそのつもりだよ。惚れてるんだから」

「この膃肭臍おっとせい将軍が」

「将軍じゃないよ」

 2人は笑いあって、姫路殿の回復を待つのであった。


[参考文献・出典]

*1:松村明編「旺文社古語辞典」旺文社

*2:ウィキペディア

*3:『寛政重修諸家譜』

   『一話一言』(文人・太田南畝おおたなんぽの随筆)では8月13日

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