第412話 黄裳元吉
万和4(1579)年7月中旬。
お市が産気づく。
丁度、予定日だった為、大河は慌てず騒がず。
最寄りの産婦人科病院へ連れて行く。
分娩室に入ったお市は、大河の手を握った。
ここからは、1人の戦いだ。
愛しい人が傍に居ないと、安心出来ないのだろう。
橋姫が、痛みを和らげ様と魔法を使おうとするも、
「駄目よ。橋」
しっかりした顔で、お市は否定した。
「産みの苦しみは、必要なのよ」
「でも……」
「良いから」
「「「……」」」
既に出産を経験している茶々、エリーゼ、千姫、謙信は、神に祈っている。
未経験者の朝顔等は恐怖心で、涙目であった。
誾千代が
「陛下、大丈夫ですよ。夫が付いています故」
「……うん」
お初、お江の姉妹は、
「「母上、頑張れ~!」」
と応援している。
阿国は、自分で創作した安産祈願の舞を披露。
松姫は、尼僧である為に鬼子母神に御祈りしている。
楠、幸姫、ラナは産婆の位置だ。
本来は産婆の役目だが、今回はお市の希望により身内がその任務に就いている。
無論、本職も居ない訳ではない。
近くで見ており、何かあればすぐバックアップは万全だ。
アプトは、お市の体調を看ている。
お市の汗を拭き、水を欲せばコップに注ぎ、渡す。
この場に居ない珠、与祢、ナチュラ、鶫、小太郎は京都新城で料理の支度を行っている。
出産次第、直ぐに宴会が開かれる為だ。
城下には浅井家の家臣団、織田家一門が集まり、登城の準備を始めていた。
浅井長政の裏切りにより、両家の仲が引き裂かれた訳だが、今ではすっかり雪解けムードだ。
逆子でなくて良かった。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
元気な声だ。
3人が抱きとめる。
可愛い女の子だ。
目も開け切れていないにも関わらず、大河と目が合うと、
「おぎゃあ!」
はちきれんばかりの笑顔になった。
直ぐに臍の緒が産婆によって切られ、3人が体液を手巾で拭く。
その間も赤ちゃんは元気だ。
お市が力なく手を伸ばす。
大河がそれを支え、お市は、何とか我が子を抱く。
「……」
命の重さを感じる。
約3㎏、約50cmの小さな小さな命だ。
「……」
涙目でお市は、抱き締める。
「若殿?」
「ああ」
アプトが、扉を開ける。
すると、女性陣が殺到した。
「母上、おめでとう!」
「わぁ、可愛い♡」
「新しい家族だね!」
祝福を浴び、疲労困憊だったお市に笑顔が戻る。
「……」
賑やかになった分娩室を、大河は出て行く。
「若殿?」
「市の戦いは、終わった。これからは、俺の仕事だ」
「良いんですか、一緒に居なくても?」
「呼ばれたら行くさ」
「……」
成程、とアプトは思う。
自分がお市を独占していた手前、今度は三姉妹に花を持たせ様、という訳らしい。
「御供しても?」
「是非」
通常「来い」だろうが、大河は「是非」である。
侍女(婚約者でもあるが)のアプトに命令口調ではないのだが、この様な配慮は純粋に嬉しい。
2人は歩く。
裏口から出た後、手を繋ぐ事も忘れない。
入口では、浅井家関係者や国営紙の記者等が多数詰めかけていた。
森蘭丸が、笑顔で走ってきて、彼等の前で大きな紙を掲げる。
『出産』
「「「おー!」」」
大きな歓声と共に拍手が送られる。
まるで裁判の勝訴の時の様だ。
蘭丸は、大声で続けた。
「御生まれになったのは、
性別を公にするのは、今回が初めてだ。
お市が妊娠した際、人々の間で性別を賭けた賭け事が大いに流行った。
これで、女の子に賭けていた人々は、勝った。
「やったぜ! これで借金ちゃらだ!」
「全財産が、2倍になったぜ!」
逆に男の子と踏んでいた人々は、残念がる。
「畜生、外したな。母ちゃんに叱られる」
「うわ、これで一文無しだ。日銭を稼がなきゃな」
性別だけでない。
名前も又、賭けの対象になっている。
イギリスの様になっているが、当然大河が広めた訳では無い。
賭博依存症気味の人々が勝手に始めた事だ。
性別や名前を賭けるのは、余り良い気持ちには成り難いが、民が楽しんでいる以上、大河も黙認している。
何でもかんでも、禁止にすれば、民の反感を買いかねない。
例えば、天保の改革(1830~1843)では、倹約令が好まれ、逆に寄席や歌舞伎と言った娯楽は弾圧の対象に遭い、幕府の支持率は低下。
文化も衰退する、という悪循環になってしまった。
赤化したソ連でも、文化が衰退した結果、こんな
『ワルシャワ条約機構の会議で、ハンガリー代表が、
「海軍省(*尚、実際のハンガリーにはドナウ川で活動する「海軍」が存在する)を創りたい」
と申し出た。
ソ連代表が、
「海の無い国が、海軍省を創ってどうするんだ?」
と尋ねると、ハンガリー代表は不思議そうな表情で尋ねた。
「じゃあ、何でソ連には、文化省があるんですか?」』
共産圏の多くの国民は秘密裡に西側の曲を愛聴し、フルシチョフに至っては訪米時、夢の国を行程に入れる程であった。
結局制限しても、国民は、娯楽に飢えているのだ。
文化は、人間の生活にとって、どうしても必要な事なのである。
勿論、線引きは必要ではあるが、大河は民主主義者なので、国民の娯楽を必要以上に弾圧する気は毛頭無い。
現代の英国王室の御触れ役の様な発表は、直ぐに号外となり、一気に全国ニュースになるのであった。
京都新城に帰宅すると、既に早馬で報せが行っていた様で、珠達が大鍋で料理をしていた。
大河に気付くと、直ぐにエプロンを脱いで、跪く。
与祢達もそれに続く。
「この度の奥様の御懐妊、おめでとうございます」
「有難う。皆、来てる?」
「はい」
珠の視線を追うと、そこには、濃姫が信長、信忠、信雄、信孝の歴代首相と早々に宴会を楽しんでいた。
「おお、我が義弟よ。よく来た」
信長は、相当、酔っているのか、大河をヘッドロック。
酒臭さを撒き散らしている。
「信長様、まだお市様は、病院ですよ。まだ早いかと」
「まぁ、そう言うな。胸騒ぎがして、屋敷に前乗りしていた甲斐があったわ。浅井の方が、距離が近いし、負けられぬよ」
随分大人気無い勝負に思えるが、信長は今回の新生児が、浅井家に奪われるのでは? と危惧していたのだろう。
チラッと。信忠を見ると、
「父上、真田が困っています」
助けてくれた。
2人は、仲直りしている為、気まずい事は無い。
首相を退任後、京に御忍びで来る時は、
信雄も同じく。
「……」
信忠程ではないにせよ、友達位の関係性である。
2人の仲の良さに気を遣って、会話に入って来る事は無い。
「それで、どっちだった?」
「以前、
「おー、そうだったな。この歳になると、すっかり物忘れが酷くてな?」
濃姫を見ると、苦笑いで首を振る。
単純に嬉しさの余り、忘れてしまった様だ。
「して、名前は決まっているのか?」
「いえ。ただ、名付け親だけ決まっていまして」
「茶々か?」
「陛下です」
すると、信長達は、それまでの笑顔から一転。
引き
「どうしました?」
「いや、若し決まっていなかったら、我々で決めたかったんだが」
「あー、そうだったんですね?」
「まぁ、陛下なら仕方が無い」
信長は、勤王家という評価がある。
史実の江戸時代では、彼の評価は低い。
『すべて此人(信長)天性残忍にして詐力を以て志を得られき。
されば、其終を善せられざりしこと、みづから取れる所なり。不幸にあらず』(*1)。
然し、江戸時代後期になると、尊王運動が盛んになるにつれ、信長も再評価されていく。
『夫れ応仁以還、海内分裂し、輦轂の下、つねに兵馬馳逐の場となる。右府(=信長)に非ずして誰か能く草莱を闢除し、以て王室を再造せんや』(*2)
『しづはたを 織田のみことは みかどべを はらひしづめて いそしき大臣』(*3)
=『此大臣(=織田信長)、正親町天皇の御代永禄の頃、尾張国より出給ひて、京中の騒乱を鎮め、畿内近国を討したがへ、復平の基を開き、内裏を修理し奉り等、勲功大ひなる事、世の人よく知れる事也』(*4)
幕末の志士達も、御料所回復等を行っていた事等を評価して、信長を勤王家として尊敬した(*5)。
明治2(1869)年になると、明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した。
明治3(1870)年、信長の次男・信雄の末裔である天童藩(現・山形県天童市)知事の織田信敏が、東京の自邸内と藩内にある舞鶴山に信長を祀る社を建立した。
信長には明治天皇から建勲の神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。
その後、明治年間には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている(*6)。
大正6(1917)年には正一位を追贈された(*正一位を贈られたのは現時点では信長が最後となっている)。
実際には、
・暦改訂問題(尾張暦採用問題)
・正親町天皇の譲位問題
・三職推任問題
等で朝廷と対立している。
仮説の域に過ぎないものの、それらを動機とした、本能寺の変の黒幕の一つに朝廷が挙げられている為、実際問題、勤王家であったかどうかは、分からない。
江戸時代後期以降の信長=勤王家説は、尊皇派や明治新政府が、自分達の正当性を
大河の義兄である男は、見た所、朝廷と敵対する節は見られないし、朝顔や帝にも敬意を払っている為、勤王家と言えるだろう。
「まぁ、良い。今日は、祝いじゃ!」
そう叫んでは、『敦盛』を舞い出す。
濃姫達は、手拍子。
お市の妊娠は織田家にとって、信長が狂喜乱舞する吉報だったのである。
[参考文献・出典]
*1:新井白石 校訂;村岡典嗣 1936年『読史余論』、岩波書店
*2:頼山陽『日本外史』
*3:本居宣長 『玉鉾百首』
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