第248話 基督ノ墓

 イエスの墓は、一般的にキリスト教徒が信じている場所は、

・聖墳墓教会

 或いは、

そのの墓

 である。

 然し、実際には、世界中に存在し、断定されている訳ではない。

・カシミール(インド)

・南仏

・イギリス

 ……

 と、そこかしこに存在する。

 が、驚く勿れ。

 日本にも存在する。

 それが、現・青森県新郷村しんごうむらにある『キリストの墓』だ(*1)。

 昭和10(1935)年、「ゴルゴダの丘で磔刑になったキリストが実は密かに来日していた」説が、茨城県磯原町(現・北茨城市)にある皇祖皇大神宮の竹内家に伝わる竹内古文書から出てきた。

 竹内氏自らこの新郷村を訪れ、キリストの墓を発見。

 翌年、考古学者の一団がを発見したり、考古学・地質学者の著書で紹介したりして、新郷村は神秘の村として人々の注目を浴びる様になった。

 嘘か実か。

 その証拠は、数多い。

・村にあるらいはヘブライ由来説。

・父親をアヤ又はダダ、母親をアパ又はガガという事。

・子供を初めて野外に出す時、額に墨で

・足が痺れた時、額に

を代々家紋とする家がある事。

・「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ」という意味不明の節回しの祭唄が伝承されている事。


 当然、学説的には、殆ど見向きもされていないが、現地では、町興しの一つに利用され、それに因んだ記念館や特産品は多い。

 驚きなのが、キリストの名を冠した土産屋だ。

 営業時間も、

・土曜日、日曜日(←安息日)

十字10時架ら3時まで

 と、ネタ尽くし。

 この結果、テレビ等で取り上げられる程、有名な店となっている。

 奇説が出来たのは、昭和時代の事なのだが、時間の逆説は恐ろしく、安土桃山時代には、既に陸奥国の同地で完成していた。

「よくぞ来て下さった。ささ、長旅、御疲れじゃろう」

 村長と村民は、難民を一時的に受け入れる。

「「「……」」」

 長い長い船旅で、難民は、げっそり。

 返答すら出来ない程、疲れ切っている。

・アラブ系

・東洋系

・アフリカ系

 1番多いのは、東欧系だろうか。

 彼等は全員、ユダヤ人。

 中国大陸にユダヤ人新国家『イスラエル』が建国された事で、各地から逃げて来た亡命者達だ。

 ナチスは、ユダヤ人を差別する際、鼻に注目し、ユダヤ人=鉤鼻であると断定した(*2)。

 日本人には、人種的な特徴でユダヤ人の区別の判別はし辛いが、欧州では長い長い反ユダヤ主義の歴史から、その様な偏見がある。

 但し、ユダヤ人の定義は、人種的特徴に限定出来ない。

・母親がユダヤ人ならその子供はユダヤ人(イスラエル 帰還法第4条)

・ユダヤ教徒

 も含まれるからだ。

 ユダヤ人は、迫害を逃れて、東洋行きの船に乗ったり、陸路で中国大陸を目指す。

 その中継地点が、日ノ本だ。

 建国を支援した日ノ本は、ユダヤ人難民には、希望の国である。

 ホロコーストの際、日本大使館に殺到し、ソ連を経由し、日本に立ち寄り、アメリカを目指した難民の様に。

 戸来は、日ノ本の中央政府が認めた神戸と並ぶ、受入先だ。

「村長、有難う御座います」

 難民に代わって、礼を言うのは、コーヘン。

 在日ユダヤ人の纏め役であったが、建国後、難民の引率役に就任していた。

 知日派の彼が一緒に居れば、慣れない異国で、難民は病む事は無いだろう。

「いえいえ。御殿様の御意向ですから」

 輝宗は、人道支援に熱心だ。

 地方選挙で伊達氏に近い議員を当選させる目論見が見え隠れする。

 コーヘンも、それに敢えて乗っかっていた。

「それで近衛大将は、何時、御訪問なされます?」

「それが忙しいそうで、難しいそうです」

 嘘を吐くのにコーヘンも心苦しい。

 東北各地を歴訪している訪問団だが、戸来に来る事は無い。

 否、大河が拒否したのだ。

 それもその筈、一部の村民が大河の個人崇拝を始めた為、彼が嫌悪感を露わにし、予定を変えたのである。

 心底、大河は、個人崇拝を嫌う。

 尊敬しているチトーやカストロ、ホー・チ・ミンが個人崇拝を嫌い、しなかった様に。

 彼等は、マルクスも自身の個人崇拝を戒めていた事から、真のマルクス主義者と言え様。

 大河もマルクス主義者と言う訳ではないが、それには、常に否定的だ。

 曰く、「カルト教団の教祖になりたくはない」として。

(……じきに崇拝者達は、弾圧されるだろうな)

 村長と他愛も無い会話をしつつ、コーヘンは予想するのであった。


 訪問団は、僻地で現地の民と交流を深めていた。

 今回の訪問地は、陸奥国(現・青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)上閉伊郡大槌町。

 太平洋に面した断崖絶壁に聳え立つ、古びた旅館だ。

「陛下にこの様なみすぼらしい所に上がらせてしまい、申し訳無いです」

「いえいえ。お気遣いなさらずに」

「は……勿体無き御言葉です」

 幼帝の御言葉に、民は、涙を溜める。

 今でこそ、生活に余裕がある朝廷だが、残念ながら、常にそうだった訳ではない。

 貧民同様、貧しかった時代がある。

 その顕著な例が後土御門天皇(103代 1442~1500)の時代だろう。

 応仁の乱により、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇。

 乱を避ける為、足利義政の室町第に10年間避難生活を強いられた。

 荒廃した世の中に帝も弱気になったのか、日野富子との密通も噂され、戦時中にも関わらず、義政の開いた酒宴に同席して一緒に飲酒している有様であった(*3)。

 明応2(1493)年の政変の際には、憤慨して一時は譲位を決意する。

 結局は老臣の諫奏かんそうによって取り止める(*4)も、その背景には朝廷に譲位の儀式の為、費用が無く、政変を起こした細川政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したとも言われている。

 あまつさえ、明応9(1500)年9月28日に崩御した際、朝廷は、葬儀の費用さえ無く、40日も御所に遺体が置かれたままだった(*5)。

 ―――

『今夜旧主御葬送と云々。

 亥の刻ばかり禁裏より泉湧寺に遷幸す。

(中略)今日に至り崩御以降四十三日なり。

 かくの如き遅々、さらに先規あるべからず』(*6)(*7)


 *平安時代に後一条天皇(68代 1008~1036)の崩御を隠して後朱雀天皇(69代 1009~1045)への譲位を行って以来、在位中の天皇の崩御は禁忌となった為、10月に後柏原天皇(104代 1464~1526)への「譲位」による践祚後に「旧主(上皇)」としての葬儀を行ったとする解釈もあり(*8)。

 ―――

 流石に今は、安定した収入がある為、その様な事は無い。

 然し、『一寸先は闇』という諺がある様に。

 苦しい時代があった事を忘れずに、常に危機感を抱いているのが、朝廷だ。

 民の話を、朝顔は静かに聞く。

 大河は、口を挟まない。

 質問も独り言もしない。

 公務が故にここでの主役は、朝顔だ。

 現代でも今上天皇や皇后様から御質問が無い限り、相手は、喋れないのが規則となっている。

「貴重な御話を聞かせて下さり、有難う御座います。御礼にこれを御贈りしましょう」

「!」

 民は、驚く。

 朝顔が、用意していたのは、浜菊。

 その花言葉は―――『逆境に立ち向かう』。

 御訪問される事さえ、人生で9割9分無いのに、花を貰えるなど、感無量の事だ。

「近衛大将、貴方も御言葉を」

 終始、沈黙を保っていた夫に、朝顔は、小さくウィンク。

 有難う、という意味と共に出番を用意したのだ。

「館長、先祖代々、守って来た家だろうが、ここは、津波で流される危険性がある。もう少し内陸に引っ越した方が良い」

「! 津波が将来的に……?」

 3・11の際、大槌町も被災した。

 町内では新町に地震計が設置されていたが、震度は不明となっている。

 隣接する市町村は(*9)、

・釜石市     6弱

・宮古市 遠野市 5強

・山田町     5弱

 であった。

 加えて、この地震が引き起こした大津波とそれによって発生した火災により、町は壊滅的被害を受けた。

 発災時、町長を始めとする町職員幹部等約60人は災害対策本部を立ち上げるべく町庁舎2階の総務課に参集したが、余震が続く為に一旦、駐車場へ移動し、更に津波接近の報を受けて屋上に避難し様としたものの、約20人が屋上に上がった所で津波が到達。

 町長と数十人の職員は間に合わず、庁舎の1・2階を襲った津波にのみこまれて、そのまま消息が途絶える。

 町長以外にも課長級の職員が全員行方不明となった為、行政機能が麻痺した。

 県都である盛岡市から車で数時間かかる地勢も災いして、被害の全容が外部に伝わり難く、周囲から孤立した様な状況が暫く続いた。

 JR山田線の大槌駅は駅舎等が津波で流失し、線路にも大きな被害が出た。

 東京大学海洋研究所付属の国際沿岸海洋研究センターは、人的被害こそ無かったものの、建物は3階まで津波に洗われ、特に壊滅的状態となった1、2階では紙媒体と電子媒体による保存データの全てが失われた。

 又、港に係留してあった研究船は沈没した。

 三陸海岸初の双胴型高速旅客船である釜石市所属の観光船「はまゆり」(109t、200人乗り)は、定期検査の為に赤浜地区の岩手造船所で陸に揚げられた3時間後、津波にさらわれた。

 第2波が来た時には防波堤を越えて内陸へ押し流され、150m程北にある2階建ての民宿の屋根に引っかかってその上に乗る形でほぼ無傷のまま止まった。

 3・11の全体的な被害は、以下の通り(*10)。


 死者    :1233(身元判明者数821 行方不明者数412)

 行方不明者数: 1

 関連死   :52

 計    :1286


 3・11を知る現代人・大河の助言だが、三陸地震さえ経験していない館長は、困り顔だ。

「津波、ですか……」

 未経験な以上、初見で信じる方が難しいだろう。

「良い旅館だからな。移転を勧める」

「……」

 首を縦に振らない。

 先祖代々の土地を捨てる事は出来ない。

 又、移転先で経済的に成功する見込みも無い。

 困る館長に、大河は最後に言った。

「信じるも信じないのも館長さん次第だ。無理強いはせんよ」

「……分かりました」

 訪問団が、大槌町を出た後、館長は移転を決意する。

 強要を嫌う名君が、あれ程、強く勧めたのだから、それなりの理由があるからだろう、と。

 その後、大槌町は多くの町民の反対を押し切って、再開発により中心部を内陸部に移す事になる。

 この判断が、吉と出る事になろうとは、この時、館長も町民も思いもしなかった事は言うまでも無い。

 これで少なくとも、この世界線では、3・11に於ける大槌町の悲劇が最小限に抑えられたのであった。


[参考文献・出典]

*1:新郷村HP 一部改定

*2:『なぜ、おきたのか?-ホロコーストのはなし』 2000年 岩崎書店

*3:『親長卿記』文明3年11月25日・同4年4月2・3日条、『実隆公記』文明4年4月2日条等

*4:『親長卿記』明応2年4月23日条

*5:ベン・アミー・シロニー 『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』訳:大谷堅志郎 講談社 2003年

*6:『後法興院記』の明応9年11月11日条)

*7:今谷明『戦国時代の貴族―『言継卿記』が描く京都』 講談社学術文庫、2002年)

*8:井原今朝男 『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房 2012年)

*9:気象庁

*10:大槌町 HP 令和2年9月15日時点

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