日露戦争

第114話 人間不信

 万和2(1577)年元日。

 世界各国が、新年を祝う中、

「「「……」」」

 ロシア皇国の宮殿では、緊張感が高まっていた。

 玉座に座るのは、”雷帝”―――イヴァン4世。

 その残虐性は、枚挙に暇が無い。

 少年時代、クレムリンの塔から犬や猫を突き落とす猟奇的な趣味があり、又、貴族の子弟を引き連れてモスクワ市中で市民に乱暴狼藉を働いていた。

 クルプスキー公によれば、1564年の初めに酒宴の席で酩酊して放浪芸人と共に踊りだしたイヴァン4世を大貴族レプニン公が諌めたが、イヴァン4世は彼に仮面をつけて踊りに加わる様に命じ、拒絶されるとその夜の内に彼を殺害させたという。

 外国使節等の記録によれば、拷問に自ら参加し、その様子を観察するのを好み、犠牲者の血がかかると興奮して叫びを上げたと記されている(*1)。

 これ以外に歴史上、彼を語る上で最も有名な残虐行為と言えば、実の息子の殺害だろう。

 1581年、イヴァン4世は後継者であった次男のイヴァンを誤殺してしまった。

 始まりは、息子の妻であるエレナ・シェレメチェヴァが妊娠中に正教徒が着るべき服を着ず、又、部屋着1枚で居た事にイヴァン4世が激怒し(*当時、ロシアの女性は何枚か重ね着をしていなければはしたないとされていた)、家長権に基づいて彼女を殴打した。

 幼少よりシリヴェーストル司祭から「家庭訓」によって「家長権を行使するようにツァーリは国家に対して家長権を行使する」と教えこまれた程に家長権は絶大であり、イヴァン4世は息子の妻を過去に2度選んでは気に食わず追放していた。

 息子にとって3人目の妻にあたるエレナもイヴァン4世が選んでいたが、これも次第に嫌って暴力を振るう様になっていた。

 息子のイヴァンは父の様子に気づくと、彼自身も家長権に服さなければならない立場だったが、妻を殴打する父の様子は尋常ではなく、その手を抑えずにはいられなかった。

 然し、家長権の行使を止められたイヴァン4世は更に激昂し、我を失った(*かねてよりイヴァンが貴族達と友好的な関係を築いていた事に猜疑心を抱いていたとも言われている)。

 イヴァン4世は皇帝ツァーリの象徴とされる錫杖しゃくじょうで息子を殴打した。

 正気に戻った時にはエレナは震えて座り込み、イヴァンは耳を押さえて呻き声をあげていた。

 又、それを助け起こそうとする家臣も額から出血しており、イヴァン4世はそれを見て自分が何をしたか理解したが、最早もはや取り返しがつかなかった。

 イヴァンは頭蓋骨を骨折しており、数日後に死亡した。

 妊娠中のエレナも殴打により流産し、自身も死亡した。

 以後、イヴァン4世は息子を殺した罪の意識に苛まれ続ける晩年を送り、心身の衰えから統治も停滞した。

 生来の不眠症は益々悪化し、近習はイヴァン等の名を呟きながら深夜に回廊を徘徊する皇帝を何度も目撃している(*1)(*2)(*3)。

 ―――

 余談だが、スターリンも息子を殺している。

 長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜になった時、スターリングラード攻防戦での戦いで降伏したドイツの陸軍元帥と、彼の解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは、

「中尉と元帥を交換する馬鹿が何処にいるのかね?」

「ナチスに寝返った息子など居ない」

 と返答して申し込みを拒絶。

「私の息子の命は貴方の手中にある。

 貴方が捕虜数百万人全員を解放するか、或いは私の息子は彼等と運命を共にするだろう」

 と述べ、人質交換には一切応じなかった。

 実質的に自分の父親に見捨てられる形となったヤーコフはこの事実を宣伝放送で聞いて衝撃を受け、酷く落胆したと伝えられている。

 それから暫くして、ヤーコフは自身が収容されたザクセンハウゼン強制収容所内で死亡した。

 死因や経緯については不明瞭な部分が多く、鉄条網に向かって射殺されたとも、収容所内の電気柵に突進して自ら命を絶ったとも伝えられている。

 一説として、ヤーコフは収容所で他の捕虜と行進させられていた時、突然看守の制止を振り切り鉄条網に突進し自身を「撃て!」と叫び、射殺されたという逸話が知られている。

 後に部下から息子の最期を聞いたスターリンは、塞ぎ込んだまま食事に手をつけなかったという(*4)。

 

 時代は違うロシアの独裁者だが、家族に対する冷たさとその非道性は、同類項であろう。

 玉座の雷帝は、見回す。

 自慢の髭を触りつつ、錫杖を振る。

「あー臭い。貴族の臭いだ」

「「「!」」」

「もう直ぐ降誕祭だというのに……全く。豚共め」

 ロシア正教では、1月7日が降誕祭に当たる。

 その為、昭和天皇が崩御した際、一部の在日ロシア人信者は、公安警察監視の下、右翼に怯えつつ、密かに降誕祭を祝ったという。

「おい、戦争の方は、どうなっている?」

「は。沿海州プリモーリイェは、ほぼ手中に収めました。次は、蝦夷ですよね?」

「そうだ。猿共め。面白くない事をしくさりおって」

 蝦夷(現・北海道)は、ロシア皇国によって魅力的な場所だ。

 不凍港に出来、又、太平洋へ進出する為の足掛かりにも出来る。

 スターリンもWWII後、北海道の大部分の割譲を要求した。

 この時はトルーマンが拒否した為、日本側としては助かったが、若し、要求通りであれば、北方領土問題が現在の比ではない程、解決が困難になっていた事だろう。

「畏れながら陛下。日本人ヤポンスキーは、あのスペイン帝国を破りました強国です。一筋縄ではいかないかと」

「ロジェストヴェンスキー。我が国にはバルチック艦隊があるではないか? その長たる貴様が臆するのか?」

「う……」

 皇帝カイゼル髭が特徴的なロジェストヴェンスキーは、困り果てる。

 確かに無敵艦隊に対抗してバルチック艦隊を作ったのは、自分だが、明との戦争で疲労困憊の海軍は、日本にまで手を回す余力は無い。

 然し、相手は、独裁者。

 反逆は、許されない。

「もう一度聞く。貴様は、臆病者なのか?」

「いえ、愛国者です」

「だったら、朕の忠臣として北海経由で日本を攻めろ。良いな?」

「御意」

 跪くロジェストヴェンスキーであったが、内心で舌を出す。

(忠臣? 笑わせるな。国に忠誠を誓ったのであって貴様ではない。下衆野郎)

 明との戦争は連戦連勝であったが、モンゴル帝国が介入した為、今や中国大陸は、三つ巴だ。

 現在は、北京攻防戦と中原争奪戦が激しさを極めている。

 北京は、言わずもがな明の首都。

 中原は、明を統治する漢民族の発祥地だ。

 明としては、どちらも獲られたくない為、必死に戦っている。

 一方、モンゴル帝国は元の復活を唱え、その最後の好機として死に物狂いだ。

 その2カ国を相手に戦うのは、流石のロシア皇国でも厳しい。

(見ていろよ。何時か天罰に遭うからな)


 ロシア皇国の不穏な動きに、イギリスは気付いていた。

 現代でも英露は、仲が悪い。

 仲が良かった時期と言えば、直近では、WWII位だろう。

 もっとも、当時の指導者同士では違う。

 激烈な反共主義者であるチャーチルは、「ヒトラーを倒す為なら悪魔(=スターリン)と手を組む」と発言し、スターリン率いるソ連を警戒していた。

 最新の研究ではWWII後、連合軍はそのままソ連に侵攻する計画もあったが、ソ連軍に余力があった事が分かり、破談に終わったとされる。

 一方、スターリンはチャーチルに好意的で彼を夕食に招いたり、彼が弱気になった際、激励したりし、更には彼が選挙で敗戦し、退陣した際には、その民主主義と後任者を馬鹿にしている(*5)。

”処女王”―――エリザベス1世は、早速、動く。

「独裁者が動いたわね」

 2人は浅はかならぬ因縁がある。

 以前、彼女は、”雷帝”から求婚を受けたのだ。

 ロシア皇国は1555年の通商開始以来、イングランドとの武器弾薬の交易は戦争の継続の為、必要不可欠なものとなっていた。

 又、外交的にもオスマン帝国、クリミア・ハン国、ポーランド・リトアニア同君連合と対立し、スウェーデン、デンマークには国交の悪化の度に海上封鎖を受ける事が屡あった。

 その為、リヴォニアから奪ったナルヴァ港を利用したイングランドとの交易が生命線となっていた。

 イヴァン4世は便宜を図り、イングランド商人にはあらゆる特権が与えられ、又ロシアの産物がイングランドの需要を満たす水準でない為に膨大な不均衡貿易を余儀なくされていた。

 代わりにイングランドは外交における「全ルーシの皇帝ツァーリ」の称号をいち早く認めていた(*反対にリトアニア・ポーランドは全ルーシという称号に旧キエフが含まれていた為、最後まで承認する事は無かった)。

 一方、イヴァン4世の敵は外国だけではなく、国内においても存在していた。

 親衛隊オプリーチニキと化したによって国内のあらゆる者を抹殺出来る権限と手法を手にしたイヴァン4世だが、大貴族達の勢力は依然として保たれており、ポーランド・リトアニアの誘いでしばしば不穏な動きを見せた。

 熱狂的に皇帝を支持した民衆も皇帝からの重税を課せられた上に親衛隊の略奪と殺戮を目の当たりにして皇帝への敬慕は次第に色を失いつつあった。

 殺害を続ける程に生まれる内外の敵に、イヴァン4世は不信感を抱えて孤立する。

 イヴァン4世はこの現状から脱却すべく、イングランドとの同盟を切望した。

 1567年、イヴァン4世はイングランドの使節を通じて相互亡命受け入れ条約と、エリザベス1世と自身との婚姻を申し入れた。

 だが、イヴァン4世の思惑と異なり、イングランドにとってそれは無意味な提案だった。

 相互亡命受け入れについてはイングランドが亡命先にロシアを選ぶ理由はなく、婚姻に関してはイヴァン4世はこの時点でマリヤ・テムリュコヴナと再婚していた。

 又、例え離縁が成立しても、イングランドにとってエリザベス1世が結婚して迄も貧しく国際社会から孤立したロシアを重視する理由が何処にもなかった。

 結果、イングランドはこの提案を黙殺する。

 然し、イヴァン4世はこの提案を妥当だと思い込んでおり、返答を寄越さないイングランドに激怒し、ナルヴァ港のイングランド独占契約の破棄を宣言した。

 ここにおいてイングランドも漸くイヴァン4世が本気であることを理解し、1568年にトマス・ランドルフを派遣して契約の順守を求め様とした。

 こうして使者が派遣されたもののイヴァン4世の怒りは静まらず、ランドルフを4ヶ月も軟禁して放置した上で、雪降り積もる中をクレムリン宮殿迄歩かせた。

 然し、交渉に入ると、それらの復讐は何の意味も齎さなかった。

 ランドルフはロシアの実情を知り尽くしており、イングランドはナルヴァ港の独占利用を取り戻しただけではなく、ロシアが影響力を持つペルシャ地方との独占交渉権とロシア国内の鉄鉱の採掘権を手にし、ロシアは何一つランドルフに要求を通す事が出来なかった。

 1569年には、

・皇帝が亡命するならばイングランドは受け入れる

・共通の敵に対してのみ軍事行動を行う

 と一方的に条件を変更したイングランドの親書が届き、イヴァン4世もイングランドが交易にしか関心がない事実を知る所となった(*「皇帝が亡命するならばイングランドは受け入れる」この文章は相互亡命とする事で面子を保とうとしたイヴァン4世の真意を蔑ろにし、「共通の敵に対してのみ軍事行動を行う」という約束は事実上の軍事同盟の拒否でしかなかった)。

 この為、イヴァン4世は激情のままエリザベス1世に「汝の国は卑しい商人に支配されており、其方はその中で何も知らない初心な生娘のままだ」と非難し、1570年にはイングランドとの交易禁止を宣言した。

 然し、露土戦争の最中であり、忽ちロシアの武器弾薬物資が欠乏する結果になり、ロシアは更に、

・イングランドへロシア全土での免税権

・外国銀貨のロシアでの鋳造許可

・ロープ工場の設置許可

 等の特権を与えなくてはならなくなった。

 又この一連の外交の敗北は、イヴァン4世の暴挙にも唯々諾々として従ったオプリーチニナ政府の限界をも示すものだった(*1)(*3)。

 ―――

「……宰相、日本に同盟の交渉を望む旨を伝えなさい」

「は。極東の憲兵、という訳ですね?」

「ええ、挟撃するわ」

”処女王”は、”雷帝”に牙を剥く事を決めた。


[参考文献・出典]

*1:川又一英『イヴァン雷帝 ーロシアという謎ー』新潮選書 1999年

*2:アレクサンドル・ダニロフ 他  訳:吉田宗一 他『ロシアの歴史(上) 古代から19世紀前半まで』明石書店 2011年

*3:田中陽兒 他 『世界歴史大全 ロシア史 古代から19世紀前半まで』山川出版社 1995年

*4:ウィキペディア

*5:ワレンチン・M・ベレズホフ 訳:栗山洋児『私は、スターリンの通訳だった。:第二次世界大戦秘話』同朋舎出版 1995年

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