第2話 もしかしてご迷惑でしたか?

「家にある物は好きに使っていいから。火の扱いだけは気をつけて。あと、誰かが訪問してきても出なくていいから。変なセールスしかこないから」


 片手で歯を磨きながら、片手で髪をセットする。


「昼の3時までには帰ってくると思う。それまで部屋から出ないでね。外は危険がいっぱい……いや、そもそも靴がないか……」


 床に落ちているネクタイを拾い乱雑らんざつめる。


「何か質問とかある?」

「いえ、必要な情報はいただきました。このお布団から一歩も動かず、マナトさんの帰りを待つことにします。これなら安心でしょうか?」

「動くのはいいよ。お手洗いとかあるだろうし。……本当にごめん! 遅刻だから! また後でね!」


 革靴かわぐつに足を突っ込み、玄関のドアに手をかける。

 ポケットから落ちてしまったかぎを慌てて拾い上げる。


 振り返ってみると、アイギスは旋毛つむじが見えるくらい深々と頭を下げていた。


 いくつか判明したことがある。


 アイギスは普通に日本語をしゃべれる。

 外見相応の知性もあるみたいだし、円滑にコミュニケーションできる。


 あと手が温かい。

 血が通っている人間のそれと同じくらい。


 あと水分補給は必要みたい。

 水道水をいただくのに毎回許可は必要でしょうか? 一日に何リットルまで使用許可をいただけますか? と質問された。


 たぶんお腹も減ると思う。

 ポテトチップスとチョコクッキーがあったので、わかりやすい位置に置いてきた。


 それと女性である。

 君って女の子だよね? と訊ねたらにっこり笑って首肯しゅこうした。


 それと俺の指示には従ってくれる。

 もしかしたら上辺うわべ面従めんじゅう腹背ふくはいかもしれないが、家財を持ち逃げされる心配はなさそう。


 加えてフィギュアという自覚がある。

 どこの国の人かな? と訊ねたら、フィギュアなので国籍はありませんが生まれも育ちも日本です、と真面目な顔で返された。


 どうなってんだ、兄ちゃん。

 あんたの自慢のフィギュアが勝手に動き出したぞ。


 魔法使いだったのか?

 アイギスに魂を吹き込んだのか?

 家族に内緒でこっそり黒魔術でも会得したのか?


 ありえない。

 堅物かたぶつでクソ真面目で迷信とかは好まなかった。

『目に見えない物は信じない。フィギュアは触れられるから信じられる』が口癖くちぐせの男だった。


 では、兄以外の仕業しわざなのか。

 神様とか、仏様とか。

 タクミが若くして死んじゃったから、残りの寿命をアイギスに与えたとか。


 帰ったら直接訊いてみよう。

 本人でも知らなかったら諦めるしかない。


 電話が鳴った。


「すみません! 支店長!」


 走りながら会話する。


「……はい……はい。……家のトラブルでして……対応していたら10分くらい遅刻しそうです」


 水漏れでもしたのか? という声が電話口から返ってくる。


「なにぶん古い物件ですから……給料が上がったら引っ越そうと思います」


 支店長はご機嫌そうに笑う。

 調子のいいことを言いやがって、それなら人一倍働くんだな、と茶化してくる。


 会社では上司が絶対だ。

 社長なんかより顔が見えるボスの方が偉い。


 この人が右といえば右。

 この人が白といえば白。

 俺にとっては支店長が王様なのである。


 いい大学を出て、バリバリ仕事して、いずれエリア部長に昇格する男。

 逆らうことに何一つメリットはない。


『あの人の背中を見て仕事を覚えました』

 支店長が出世したら、そうやって自慢できる日が来るだろう。


「なあ、田畑たばた。本当に家は大丈夫か? 無理なら今日は出なくてもいいぞ。他のやつに電話してみる。誰も捕まらなかったら、俺一人で何とかする」

「いえ、家の問題は解消しましたから……」

「そうか?」


 支店長は俺のことを疑っているようだ。


「いつもより声が上擦うわずっているから。体調が悪いんじゃないか? 風邪のひきはじめじゃないか? くれぐれも無茶はするなよ。田畑はうちの営業所に欠かせない人材なんだから」


 ふと飲み会での会話を思い出す。


 支店長は既婚者である。

 35階建のマンションに住んでいる。

 猫を一匹飼っているが子どもはいない。


 奥さんが子どもを産みにくい体質らしい。


 不妊治療に高いお金をかけた。

 それでも効果は出なかった。


『若いやつらを見ていると息子みたいに思えてな』


 しみじみとした口調でビールを飲んでいた。


 会社のことは好きじゃないし、他所よその営業所には死んだ魚の目をした社員がゴロゴロいるが、この人の下なら頑張ってみようかな、と思わせてくれる人望があった。


 電話を切ったとき信号が青になる。

 ダッシュで駆け出す。


 頭上には抜けるような青空が広がっていて、何かが変わりそうな予感がした。


 ……。

 …………。


 昼の3時までかかる予定だった仕事は、支店長のフォローと、俺のスーパー集中力のお陰で、昼の1時過ぎには終わった。


 最終チェックをしてメールを送信。

『送信完了』のアイコンが出たとき、休日出勤ならではの達成感が湧いてくる。


「どうだ、田畑。もう帰れそうか?」

「はい、さっき終わりました。ありがとうございます」

「礼をいうのは俺の方さ。田畑みたいな頑張り屋がいるから組織はうまく回る」


 支店長の手元から食欲をそそる匂いがする。


「これ、持って帰るといい」

「うわぁ! いいのですか! お弁当をいただいちゃって!」


 スペシャルミックス弁当を買ってきてくれた。

 弁当屋の一番高いメニューで税込みだと1,000円を超える。


「俺はまだ仕事が残っているから。田畑は先に引き上げろ」

「なんか手伝えることがあればお手伝いしますが……」

「いいって、いいって、気持ちだけで十分だ」


 シッシッと手を振られた。

 いつもは番犬のように恐い顔が、えびす神のように緩んでいる。


「では、片づけて帰ります。お弁当ありがとうございます」

「ああ、気をつけてな。残業申請は俺の方で処理しておく。15分くらいオマケして、13時30分まででいいか?」

「何から何までありがとうございます」

「他のやつらには内緒だからな」


 ぺこりと頭を下げてからオフィスを後にした。


 足取りが軽い。

 ルンルン気分というやつだ。


 コンビニへ立ち寄る。

 お茶のペットボトルと漫画を購入する。


 店長らしい人に声をかけて、持ち込んだお弁当を食べちゃってもいいですかね? と訊いたら、30分くらいなら構わないよ、とこころよくOKしてもらい、イートイン席を利用させてもらった。


 食べる。

 どんどん食べる。

 上司からもらった弁当かつ休日出勤後のエネルギー補給という条件は、最強の調味料スパイスだと思う。


 お茶をチビチビ飲む。

 窓ガラスに映っている自分がニヤニヤとこちらを見ている。


「ふう……食った、食った……」


 何かを忘れている気がする。

 そうだ、家のトイレットペーパーが底をつきそうだった。

 忘れないうちに4ロール入りのを買うことにする。


「イートイン席、ありがとうございました」

「また来いよ〜!」


 おもしろい店長さんである。

 次はちゃんとお店で買った弁当を食べよう。


「スミマセ〜ン」


 帰り道、筋肉ムキムキのインド人から声をかけられる。

 カタコトの英語で駅の場所を訊かれる。


 たどたどしい英語で頑張ってみた。

 ヒンディー語みたいなのが返ってきて、まったく通じない。


 インド人がジェスチャーを交える。

 俺も負けじとジェスチャーで返す。


「ヒコーキ、オクレル、ヒコーキ、オクレル……ワタシノ、パパ、シニソウ……スグ、インド、カエル……」


 パパが死にそう⁉︎

 そんなことを教えられたら見捨てるわけにもいかず、駅が見える場所まで案内してあげた。


「ホント〜ニアリガト〜ゴザイマ〜ス」


 往復で12分のロス。

 休日だし、予定もないし、まあいいか、と納得する。


 三人組の女の子とすれ違った。

 その中の一人が明るい金髪だった。


 いけない!

 アイギスのことを忘れていた!


 ニワトリ並みの記憶力に辟易へきえきしながら猛ダッシュ。

 今日は本当によく走る。


 ぜえぜえと息を切らしつつ、古アパートの階段を駆け上がり、コーナーを曲がり、玄関のドアを開けてみた。


「アイギス! ごめん! 遅くなった!」


 ベランダの窓が開いており、カーテンがパタパタと揺れている。


「アイギス?」


 風呂、トイレ、キッチンにアイギスの姿はなかった。

 まさか転落したのだろうか。


「お〜い……アイギス……」


 恐る恐るベランダから顔を出してみる。

 人影はもちろん、転落したような痕跡こんせきもない。


 玄関から外に出たのか。

 いや、鍵は閉まっていた。

 まだ家の中にいると考えるのが妥当。


 もしかしてフィギュアに戻っちゃった?

 デスクの上を調べる。

 ダンボールの中も調べる。

 やっぱりアイギスの姿はどこにもない。


 ごつん、と音がする。

 押入れの中からだ。


「おかえりなさいませ」


 中段板に頭をぶつけたのか、後頭部をすりすりするアイギスがいた。

 その手には汚れた雑巾ぞうきんを握っている。


「待っているだけでは退屈ですので、お掃除しておきました」

「お掃除?」


 床の荷物が片づいている。

 散らかっていた洋服もきれいに畳まれている。


 耳を澄ませると洗濯機のモーター音が聞こえた。

 溜まりに溜まっていたシャツと下着を洗ってくれたらしい。


「アイギスが一人で全部やったの?」

「もしかしてご迷惑でしたか?」

「いいや……すごく助かる」


 汚れたまま置いていたコップが新品のようになっている。

 ホコリまみれだったたなの上もピカピカだ。

 洗面台には髪の毛一本落ちていない。


「これは……」


 書籍がある。

 大きさ別に積まれている。

 非常にありがたいが、問題なのはその中身。


「ああッ!」

「どうしました⁉︎」

「いや……失くしたと思っていた本が……失くなっていなかったなって……あはは」

「それはよかったです!」


 R18がある。

『成人向け』と目立つところに書いてある。


 これは恥ずかしい。

 アイギスに全部見られてしまった。


 いや、親と同居している中学生じゃないから、隠ぺい工作なんてはどこしていないも同然。

 とはいえ一冊残らず発掘されるのは痛恨の極み。


 アイギスのことを甘くみていた。

 恐るべきミッション遂行能力。


「本をどこに置くべきか、判断に迷いまして……」

「そうだよね。迷っちゃうよね。他人の本だからね」

「とりあえずサイズ別にまとめてみました。よろしいでしょうか?」

「うん、問題ないよ。後は俺が片づけるから。ちなみに中身には目を通しちゃった?」

「いいえ、許可を得ずに内容を確かめるなど、私にはできません」

「はぁ……よかった……」


 あとで捨てておこう。

 そっち系の書籍はすべてリリース。


「今回のお掃除、採点いただけるとしたら何点くらいでしょうか?」

「文句なしの100点満点だよ。120点あげたい気分だよ」

「嬉しいです。頑張ってみた甲斐かいがありました」


 アイギスはあごに指を添えて、小動物みたいにキュッと口角を持ち上げた。


 こんなに清らかな我が家、きっと一年ぶりくらいだ。

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