第7話 秘密、交渉、決裂

 ぱたん、と扉が閉まると同時に、アドラーティはソファの肘掛けにしがみついた。


「――ぐ」


「殿下!」


 苦しげな呼気を飲み込んだ主に、壁際に控えていた侍従文官の男が駆け寄る。丸まった背を何度もさすり、あらかじめ神殿で祝福された水をコップに満たし持ってくる。

 それを一気に呷ったところで、再び扉の開閉音が上がった。


「!」


 侍従文官が瞬時に警戒してアドラーティをその背に隠す。だが現れたのは今しがた退室した弟ではなく、同僚の侍従武官であった。


「お見送り致しまし――殿下!」


 血相を変えて戻ってきた侍従武官が、声を上擦らせて足下に膝を付く。それを手で制して、アドラーティは掠れた声を上げた。


「……いい。平気だ」


「どこがですか! 薬は」


「お飲みになられた」


 背中をさすっていた侍従文官の方が早口で答える。

 どちらが病人か分からない青い顔の二人に、アドラーティは苦笑しながら大きく息を吐き出した。喉を焼くような咳が、どうにか過ぎ去る。


「メノン、マクシム。騒ぎすぎだ」


 旧知の二人の名を呼びながら顔を上げたアドラーティは、やはり蒼白であった。玉妃譲りの整った容貌は白皙を通り越し、栗色の髪には以前のような艶がない。淡褐色ヘーゼルの瞳にも、色濃い疲労が見えた。

 その瞳が、青帝サトゥヌスの血を示す青であれば完璧だったのにと陰口を叩かれてきたアドラーティは、以前から皇太子の公務に必要以上に真面目に取り組んできたが、最近はとみに顔色が悪い。


「ですが、舞踏会からずっと咳を我慢なされていたでしょう」


 そう諫言したのは、舞踏会に護衛として付き従った侍従武官のマクシムである。レリア玉妃の従妹で、皇太子兄妹からは大叔父に当たる。二十代半ばの好漢で、元々帝国軍から転属したこともあり、長身で筋肉質の男だ。


「妹の祝いの席だぞ。無粋はしない」


「せめて弟君にだけは話されては」


 一方コップを元に戻しながら眉尻を下げたのは、侍従文官のメノンである。象牙の眼鏡をかけた優男で、アドラーティの乳兄弟でもある。


「あの猪突猛進に話しても、面倒なだけだ」


 苦笑しながら、アドラーティは立ち上がる。二人が慌てて止めるのはいつものことだ。だがアドラーティにはいつも時間がない。

 口元を押さえた時に付着した血は握って隠し、本題に入る。


「祖父と話をつける」


「ラティオ侯爵と? ですが、あのお方は現在領地で療養中ですよ」


 さすがの六侯爵が一人も、寄る年波には勝てないらしく、先月から風邪をこじらせて寝込んでいた。重篤とは聞いていないが、格好の根回しの場であるカーランシェの誕生会にも、叔父が当主代理で出席していた。そこそこ思わしくないということなのだろう。


「知っている。だから行くんだ。明日から隣のサエウム州視察の名目で一週間予定を空けてある」


 サエウム州は、ラティオ侯爵家が州長官を務めるウィーヌム州の東隣に位置し、今の州長官になってから治安が悪化している。大義名分は幾らでも作れた。


「そんなことを、いつ……」


「侍従を通さなければ、割と隠せるものだな」


 驚くメノンに、アドラーティはにやりと口角を上げる。

 メノンは乳兄弟として接した時間の方が長く、信頼もしている。だが皇族にそれぞれ付く侍従は家政室長官の部下であり、情報は吸い上げられ、動向は常に監視されているに等しい。水面下で動くには、城中にいる侍従や女官の目を誤魔化す必要があった。


「フェルが帰ってきてすぐだ。何かしらの行動は必要だろうと考えていた」


 親切に答えてやると、盛大に溜息をつかれた。メノンが頭を抱えて首を振る。


「だーかーらー……ッ、いい加減私のこと信用してくださいよ!」


「お前が侍従文官になってすぐ俺を売ったこと、忘れていないぞ?」


「あっ、あれはだから……!」


 あれはまだ二人が八歳か九歳の頃だ。

 勉強の時間だったが、アドラーティは逃げ出して蔵書室に隠れていた。人気のない片隅で、寝室付き女官の事務記録やサトゥヌスの王妃ミセリアについての記録など、未来の皇太子には必要のないものばかりを読んでいた。それを、侍従見習いとなったばかりのメノンが見付けたのだ。

 そしてそれは、見習いになる前にもよくあった光景だった。それが災いし、アドラーティと別れたメノンは上官の質問に普通に答えた。


『殿下なら、蔵書室で見かけましたよ』


 と。

 お陰でアドラーティは呆気なく捕獲された。挙句、常の三倍の宿題を言い渡された。めでたしめでたし。


「そういう仕組みになっているって知らなくて!」


「おいメノン。はぐらかされるぞ」


 からかう口調に頬を赤くするメノンに、マクシムが半眼になって口を挟む。

 メノンが侍従職に携わるようになってすぐの失敗を持ち出すのはいつものことで、本心でないことぐらいは分かっている。ただ、全てを一人で処理してしまおうというのも、アドラーティの抜けない性分ではあった。


「んんっ」


 年長者のマクシムの忠告に、メノンがずれた眼鏡を直して口調を戻す。


「とにかく、今動かれては危険です」


「今しかない。フェルが王証を持ち帰ったことはじきに知れる。その前に先手を打つ必要がある」


 それは推測ではなく、確信であった。

 現帝はまだまだ若く頑健で、内憂も外交上の火種も少ない。宮廷もある程度御せている現段階では、アドラーティの皇太子位はまだ長いだろう。だがそれは、蟻の一噛みで揺らぐようなものだ。


 六侯爵家は魔王討伐後の戦後復興にいち早く尽力した歴史ある名家だが、その後の力関係は度重なる婚姻や政権の奪い合いによって何度も書き換えられている。

 それは今現在も進行中で、表では議会、裏では間諜を送り込むなどして常に互いに足を引っ張り合っている。ラティオ侯爵家に属するアドラーティも、その泥仕合から逃れることはできない。

 そして一つの家でも行動に出れば、被害はアドラーティ一人に留まらない。それだけは、絶対にあってはならなかった。


「お供します」


「あぁ、頼む」


 膝をついて頭を垂れたのは、侍従武官のマクシムであった。アドラーティが、そう答えると信じて疑わない顔で頷く。そうなればもう、メノンにも否やはなかった。


「私は、お供させて頂けないのでしょうね」


「留守はお前にしか任せられないからな」


 いつも通りの諦めを滲ませて同じく跪くと、苦笑と共に嬉しい言葉を与えられる。それだけで、メノンは主に付き従えない悔しさを飲み込める。


「勿体なきお言葉」


「このことは陛下にだけお伝えしろ。俺の不在は誤魔化せるなら三日としろ。あと、フェルには言うな」


「御意」


 無理難題をとは、最早言わなかった。信頼の裏返しだと、承知している。

 一拍の間。顔を上げ、三人で見合う。一緒になって悪巧みをしていた子供の頃と変わらない。ふっと誰もの口元に笑みが零れた。


(……だがそれも、俺の秘密が秘密であるうちか)


 そのうちの二つに、微かな苦みが上る――直前。

 こつり、と扉の向こうで靴音がした。


「……フェルか?」


「確認して参ります」


 小声で問うたアドラーティに、既に動いていたマクシムが頷いて把手に手を掛ける。

 慎重に開けられた扉の向こうに、人影はなかった。動いた空気に、ジジ、と燭台の蝋燭の火が揺れる。


「……誰もいないようです」


 音を立てずに扉を閉めたあと、マクシムが眉根を寄せる。再び三人の間で目線を交わし合う。

 そこからの行動は早かった。


「マクシム。今すぐ出る」


「はっ。すぐ手配を」


「メノン。特にファナティクス侯爵家とフィデス侯爵家には気を付けろ」


「承知しております」


 応答の声と共に、二人が静かに迅速に部屋を後にする。それを見送りきる前に、アドラーティもすぐさま自分の準備に取りかかる。

 その背後で、白刃が静かに振り下ろされた。




       ◆




 くしゃ、と芝生の緑を踏みつけて、レイは軽やかに着地した。ヴァルが駆け寄ってくる。


「どうだった」


「やっぱり持ってた。でも……あれはどう見ても弓じゃないよ」


 レイの身の心配もなく真っ先に本題を訪ねたヴァルに、レイは一瞬の躊躇の後、見たままを伝えた。

 フェルゼリォンが持っていたのは剣の先のようだったこと。水没した都市から引き揚げたこと。相手は皇太子で、王証の件は秘密にしたこと。知られれば、継承権争いが起こるかもしれないこと、など。


「なるほどな」


 一通りの説明の後、ヴァルが大きな紅玉の瞳を細めて口周りをぺろりと舐める。しかしレイには、ヴァルの理解よりもはるかに重大な問題があった。


「それよりも、本当にあれがユノーシェルの王証なの? もしサトゥヌスのだったら、こんな所、早く出た方がいいんじゃ」


 勘違いで乗り込んだ挙句、何の罪もない相手に詰め寄ったり盗み聞きしたとなれば、不利なのはどう考えてもレイの――ひいては聖国の方だ。

 直截に言えば早く逃げたい、と訴えるレイに、けれどヴァルは「いや」と首を横に振った。


「セレニエルも言ってただろ。品物の特定が難しいって」


「……そう、だっけ?」


 出立前のセレニエルとの会話を示唆され、レイは曖昧な笑みで口元を引きつらせた。

 確かに、セレニエルは王証の気配を追うのにヴァルの存在が必要とは言ったが。


「でもそれって、見付けちゃえば特定も何もないでしょ?」


 単純な疑問として口にする。するとヴァルは、僅かに顔を顰めてから、どこか頭痛を堪えるように説明した。


「あれは、神の気で出来ている。持つ者の望みによってその姿を変える場合がある」


「変えるって、じゃあ……」


「あの男、追いかけなくていいの?」


 簡単に常識をひっくり返されて言葉に詰まったレイに、見張りから戻ってきたハルウが口を挟む。フェルゼリォンが列柱廊を戻り、レテ宮に向かっているという。


「行く!」


 レテ宮内は舞踏会のために人の出入りが激しいし、何よりどこかの部屋に入られてしまえば探すのは困難だ。ヴァルになら探せるだろうが、そもそもヴァルを見られるのが問題だ。


(本人は魔獣じゃないっていうけど)


 何か言われれば猫の新種で押し通してきたが、気付く者が見れば魔獣のそしりは免れまい。

 一部が円形となっている玉妃宮を回り込んで、列柱廊に向かう。


(そう言えば、結局ネストル伯爵は第三皇子あいつに会いに来たんじゃなかったのかな?)


 先を越されると心配した相手は、どこにも見当たらなかった。あの部屋にもいなかったということは、皇太子に用があったわけでもないということなのだろうか。

 とまれ、考えても仕方ない。


 列柱は途中で直角に曲がって、レテ宮の北側に連絡している。渡り廊下の向こうには散策の小道や噴水を挟んで、令妃宮がある。

 広大な敷地と無数の建物を持つレテ宮殿は、それでも隅々まで手入れがなされ、どこも景観として美しい。だがここの噴水だけは、水が抜かれその機能を停止していた。

 何故なら。


(あの噴水、欠けてる?)


 円形の噴水の縁の一部が、まるで椀で削り取ったような不自然な曲面で途切れていた。


(何かあったのかな?)


 噴水のある一帯は令妃宮のための庭でもあり、そこに壊れた物を放置し続けるのは不自然だ。修繕しないのには理由があるのだろうか。


「レイ。いたよ」


 気を取られていたレイは、ヴァルの声に慌てて列柱の間を進む。

 柱の足下にはそれぞれ光の彫言があり、庭園の様相と馴染んで幻想的で、ある程度の明るさもある。

 全速力で走ったお陰で、列柱が終わる寸前でその背に追いついた。


「待って!」


 呼びかけに、今まさに宮殿内に入ろうとしていた足が止まる。

 円柱と窓から漏れる光を受けて、藍晶石カイヤナイトの目をした男が胡乱な顔で振り返った。眉根が寄っているというのに、こんな薄闇の中でも相変わらず美しい。


「またお前か」


「用があるって言ったでしょ」


「俺はない」


 息を整える暇もなく、フェルゼリォンが再び歩き出す。咄嗟にその腕を引き掴んでいた。瞬間、ぱしりと思いのほか強い力で弾かれる。

 青い瞳が、冷ややかにレイを見下した。


「まだ踊り足りないのか? 相手をご所望なら舞踏会に戻られては」


 それはお手本のような厭味ったらしさで、レイは瞬間的にカチンときた。

 本当は先程盗み見た王証が弓とは似ても似つかなかったから、一度実物を見せてもらって、違うなら素直に引き下がろうと思っていたのに。


「誰が踊りたいもんですか!」


「奇跡的な下手さだったしな」


「うるさい! それよりも、あなたが王証を持ってるのは知ってるのよ。かえ……見せて!」


 返して、とまでは、怒り任せにでも言えなかった。

 足元に追いついたヴァルが、阿呆かと言いたげに嘆息する。


「今度は仲間を増やして脅しか。ずいぶん強気だな」


 フェルゼリォンから少し離れた位置には、追いつたハルウが列柱にもたれて腕組みをしている。構図としては、確かに威圧的ではある。が。


「私は、その王証を追ってここまで来たの。帝国の邪魔をするつもりも、掻き回すつもりもないわ。ただ、確認させてほしいの」


 力づくで奪う気はないと説明する。

 実際、レイにはそれが本当に聖国の求めるものなのか、自信がない。だからこそ確かめたかった。だが。


「それで、俺は何を信じて奥の手を見せればいいって?」


「え?」


 一瞬、言われた意味が分からなかった。それほどに、レイ自身には悪意も疚しさもなかったからだ。

 代わりに、足元でお座りをしていたヴァルが答える。


「身分だけなら確かだぞ」


「は? その猫喋るのか?」


「猫じゃない!」


 くわりと牙を剥いた。格好をつけたのに台無しである。


「と、とにかく、私たちに敵意がないことは、信じてもらうしかないわ」


 遅ればせながらフェルゼリォンの疑念を理解し、レイは苦手ながら説得を試みた。

 正直、世間知らずで交渉事の一つもしたことのないレイに、嘲笑を浮かべるフェルゼリォンの嫌疑はまるで的外れにしか思えない。

 だが自分が不審な行動をしていて、問答無用で他人の所持品をあらためようとしていることは事実だ。


「陛下にお渡しした書状は本物だし、私は確かにプレブラント聖国の第二王女よ。内容は……言えないけど、これは本当に大事な使命で」


「話にならない」


 更に言い募ろうとするレイの言葉を、フェルゼリォンが冷たく遮った。


「どうやって嗅ぎ付けたかは知らないが、もし仮に俺があんたらの望む物を持っていたとして、その場合どうするつもりだ。奪う気か? それとも買う?」


「え……」


 その言葉に、レイは目を点にした。

 神弓トクソは聖国のものだ。持ち物が本来の持ち主の下に戻ることに、レイはいささかも疑問を持っていなかった。

 だから、まさか返さないなどと言われるとは、想像もしていなかったのだ。


(そ、そっか。誰かが先に見付けてたなら、返してもらう交渉をするだけだと思ってたけど)


 聖砦というごく狭い環境と人だけで育ってきたレイは、悲しいかな世間知らずだ。

 裁判記録や国内の法律を学ぶ授業も勿論あったが、大概逃亡エスケープしていた。埋蔵物や拾得物の所有権問題について、理解があるはずもない。

 だが、愚かではない。冷静に思考する頭くらいはある。ただ、


「う、奪うだなんて、そんなつもりは」


「だが初めにあんたは『返して』と言った。どのみち最終的には帝国から持ち去る腹積りなんだろ」


 フェルゼリォンが、ここまで敵意と侮蔑を露わにしなければ。


「そ、それは元々聖国のよ!」


「その証拠を示せと言っている」


「だから、それは見せてくれれば分かるって」


「詐欺師はそう言う」


「さっ!?」


 あんまりな言い様であった。とても帝国の第三皇子とは思えない。


(私が何も知らないからって、バカにして!)


 この男と話していると、腹が立ってしようがない。ものの見方や見識がまるで違うというだけのことでなく、本能的に相性が悪い気がする。

 レイは仕方なく、言うつもりのなかった情報を口にした。


「王証は持つ者の望みによって形が変わるのよ」


「だったら、俺が持っているという王証は完全な姿なんだな?」


「え? あ、それは……」


 短くも齟齬そごのない反論に、レイは早くも言葉を失った。それは王証を持っていると認める発言でありながら、同時に完璧にレイを論破していたからだ。

 持つ者の望む形に変わる。つまりそれは、完全な姿を望む者が持てば、完全な形になるのではないか。

 だが聖国の王証はそうはならないし、フェルゼリォンの手中で見た物も、そうではなかった。つまり欠けた物体は本物ではないということになる。


「……それで使命だなんだと、よく言える」


 黙ってしまったレイを心底嫌悪する眼差しで、フェルゼリォンが吐き捨てる。

 そして今度こそ、レテ宮の中へと戻っていった。


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