第8話 浅ましい我欲

「奪えばいい」


 フェルゼリォンが消えた回廊を暫く睨み付けた後、ハルウが優しい声でそう言った。

 言いたいことの半分どころか、あっさりと言いくるめられてしまったことに酷く落ち込んでいたレイは、すぐにはその意味が分からずハルウを凝視した。

 月明りに照らされて佇む青年は、普段のぽやんとした雰囲気が消え、酷く美しかった。第三皇子の美を健康的と表現するなら、ハルウは極限まで薄く削られた氷の薔薇のような危うい儚さがある。そう思うのは、その瞳と髪色の妙から、どこか現実離れして見えるせいだろうか。

 その唇がうっそりと笑んで、レイはハッと正気に戻った。


「だ、ダメだよ。奪ったんじゃ、あいつが疑った通りになっちゃう」


「そう? あんないけ好かない奴が相手なら、全然いい気がするけど」


「それはハルウが嫌いなだけでしょ?」


 口を尖らせたハルウの仕草が幼くて、レイは知らず力の入っていた肩を落とした。自分もそうだが、ハルウは初対面から天敵認定している気がする。

 さぁこの話は終わりと、踵を返す。だがそこに、今度は別の声がかかった。


「あたいも、悪くはないと思うね」


「ヴァル……」


 驚いた。

 ヴァルは姿形こそ異なり、小言と説教が多く年寄り臭いが、常識的な方だと思っていたのに。


「あいつは真っ当な交渉で王証を手放す性格タイプじゃない。それにこの国にある限り、王証は本来の姿弓形に戻ることはないだろう。当事者間での話し合いなんて時間の無駄さ」


 長い三角耳を夜風にそよがせて、飄々と嘯く。とても、レイに正当な手順を踏めとレテ宮殿に向かわせた者と同じ言葉とは思えなかった。


「でも……それじゃあ、聖国と帝国の関係が悪化するかもしれないじゃない」


「いや、そうとも言えない。奴は皇帝には報告しないと言ったんだろう。つまり皇子の単独行動の可能性は高い。しかも偶発的な。今のうちに奪ってしまえば、奴の所有物だと証明できるものはない」


「おぉ。名案だねぇ」


 あくどい計画を瞬時に立てるヴァルに、ハルウがこにこにと相槌を打つ。しかしレイはすっかり蒼褪めた。


(や、やりかねない……!)


 ヴァルは基本的に無謀なことは言わない。レイの考えも、不可能なら容赦なく否定する。だからこそ、淡々と語るその内容には本気が感じられた。


「そ、それこそ詐欺……!」


「奪われたもんは取り返す。当たり前だろ」


 顔を引きつらせて言うと、存外に低い声で返された。怒鳴る寸前の、獣の唸り声。


(……ユノーシェルは、ヴァルの何なんだろう)


 恩人なのだとは、聞いたことがある。

 けれどどんな恩があって、同族もいない大陸で、その死後も子供や孫の側にいるのだろうか。たとえ長命な種族とはいえ、余程の情がなければ出来ないことではないのか。


(でも、ヴァルってそこそこ薄情……)


 かどうかは、十六年の付き合いでも判じかねるなと、レイは思った。

 ヴァルはいつも小言と説教が基本で、レイが失敗しても落ち込んでも、慰めるよりもまず正論をぶつけてくる性質たちだ。


 七歳の時、ついに母から王城に呼び戻されたレイは大喜びしたが、半年と経たずに聖砦に戻され、何ヶ月もめそめそと泣いて過ごした。


『わたしは、いらない子なの……?』


 それは、自分だけ聖砦で育てられることとなった理由を聞いたあの日から、ずっと胸の中に凝り続けた疑念であった。

 母は、自分が要らないから捨てたのだと。愛していないから、一向に呼び戻してくれないのだと。

 けれどイリニス宮殿に戻るよう言われ、やっとそうではなかったのだと思えるようになった矢先だったのに。


『泣くぐらいなら、必要とされるように努力しな』


 意識のないうちに聖砦に戻され、レイは戻された理由すら分からずにいた。

 そんな中でかけられたヴァルの言葉はあまりに正鵠を射ていて、余計に胸が苦しくなった。それがたとえ正論だろうとも、動き出す力はまだ芽生えてもくれなかった。

 そんな時、そっと抱きしめて慰めてくれたのがハルウだった。


『僕がいるよ。君は要らない子なんかじゃない。僕は君じゃなきゃダメなんだから』


 あの頃は、いつもハルウにくっついていた。自分を肯定してくれる言葉に飢えていたから。あの時期にレイを支えてくれたのは、ハルウと、曾祖母がくれたという黒泪の御守りだった。

 けれどそれからしばらくしてレイの行動に影響を与えたのは、結局ヴァルの言葉だったように思う。勉強から逃げる回数が減ったのも、その頃からだった。

 きっとハルウの言葉だけでは、逃げることの安楽さに掴まって、二度と必死にはなれなかった気がする。


(ヴァルは……何なんだろう)


 ユノーシェルとはどういう風に出会ったのか。名前の『優』とは何なのか。故郷はどこなのか。けれどそれは聞いてはいけないことのようで、レイは一度も踏み込んだことはない。


(って、それはハルウも一緒か)


 ハルウもまた、レイが生まれる前に聖砦にふらりと現れたというが、姓も故郷も知らない。両の眼の色が違う理由も、歴戦の武者ではないと言いながら、身体中にある古傷のことも。


(何も、知らない)


 最後の聖砦エスカトン・フルリオのことも、そこにいる人のことも、レイは何にも。


(……今は、王証でしょ)


 服の下に隠した首飾りの先に触れ、祖母の祝福を思う。授かったのは調和と健康を司る秩序の神シュンフォニアの加護。この黒泪には、祖母の願いがこもっている。


「とにかく!」


 と、レイは自分を鼓舞するようにわざと声を張り上げた。


「二人とも、ちょっと思考が飛躍し過ぎだよ。どうするかは、明日、私が決める」


 腰に手を当て、胸を張って宣言する。

 二対の瞳が物言いたげに注視してきたが、すぐに柔らかな吐息が続いた。


「勿論。レイが決めたことに僕は従うよ」


「はいはい。好きにしな」


 ハルウが柱から背を浮かせ、ヴァルもそよりとふさふさな尻尾を揺らして歩き出す。レイは隠れて安堵しながら、二人の後に続いた。




       ◆




 宛がわれた客室の把手には、悪心を持つ者の入室を拒む彫言ちょうごんが施されている。害意のある者はまずこの把手に弾かれる。

 扉そのものの破壊を防ぐことは出来ないが、触れれば家政室なり近衛なりに伝わる仕組みになっているはずだ。


(逆に言えば、客人が害意を持ってたら、室内から出られなくなるってことだよね)


 今のところレイにその考えはないが、略奪でも反応するのだろうか。


(でも、隣室のハルウは普通に開けてたなぁ)


 略奪は害意ではないのか、それともハルウが本気でなかっただけなのか。つらつらと考えながら、上等な絹のシーツで整えられた寝台に潜り込む。

 室内の明かりにも光の一節が彫言され、人の動きを感知して点灯し、一定時間動きがないと消灯するという仕組みになっている。寝るだけなら燭台に火を点ける必要もない便利なものだが、代わりに彫言の反応によりある程度の動きは筒抜けになる。

 つまりレイは、護衛という名目の簡易的な監視対象とされているというとだ。あるいは帝国ほどの財政規模なら、全室そうなのかもしれないが。


「お金と権力の使い方がすごいなぁ」


 神法みほうの明かりが消え、仄かな月明りだけが窓辺を照らすさまを眺めながら、疲れた声で所感を零す。

 とはいえ、この使い方は恐らくプレブラント聖国でも用いられる、ごく一般的な用法であろう。聖砦では彫言の類は見かけないが、それは単純にあの場所の特性によるものだ。

 などと考えていると、寝台の足元辺りを確保していたヴァルが、くぁーと欠伸をしながら「そりゃそうだ」と答えた。


「帝国は強大だが、ここ百年で見れば神法士の数は聖国の方が圧倒的に多い。神法そのものよりも、神殿の祝福と彫言に頼るのは自然な流れだ」


 相変わらず、ヴァルは代々の斎王と共に聖砦に籠っているはずなのに、外の情勢にやけに詳しい。そして実際、プレブラント聖国は小国ではあるが、神法士の数で言えば大陸でも随一である。


「何でだろうね?」


「信心が足らないんだろ」


「そんなことで?」


 レイは目をぱちくりと瞬いた。神法の基本は祈りとは言え、流石に乱暴すぎる気がするのだが。


「実際、百年前まではあっちこっちで戦争ばっかり繰り返していたような国だ。そんな国に、神様が力を貸すと思うか?」


「それは……うーん、どうだろ?」


 神様といっても、善良の象徴と言うばかりではない。

 秩序の神のジオは混沌の神だし、狩猟の女神であるユノーシェルは、その百発百中の腕前から的中と集中力を授けてくれる反面、戦士の士気を上げるいくさがみでもある。

 彼らは自らの手で人々を殺したり間引いたりはしないが、自分勝手な理由で暴れたり喧嘩したり奪ったりして八つの大陸に被害をもたらすような挿話エピソードは、神話の中でも枚挙にいとまがない。

 特に喜怒哀楽を司る四情は祭りと戦が大の好物で、神々の中で唯一肉体を持たない故に人々の感情に容易く入り込むと言われている。感情が錯綜し暴走したような時は「四情が悪さをする」などとも言う。


「まぁ、少なくとも、誰それを殺して欲しいなんて願いを聞く奴は少ないってことさ」


 釈然としていなかったレイの疑問を察して、ヴァルが分かりやすい注釈をくれる。

 聖砦でのレイの教育は、信仰の町エフティヒアに建つテオスナポス大神殿から派遣される女性神職者によって行われていた。

 講師は四人で、内容は神法、神話と信仰、護身術、その他座学という括りだった。だが神様や他の大陸、六種族などの雑学部分については、ほとんどヴァルの噛み砕きすぎた注釈で出来ていると言っても過言ではない。

 お陰で、レイの中の神様像が大いに人間臭くなってしまった。


「それは、まぁ、そっか」


 本当は、殺人願望を聞いてくれる神様など皆無と言わなかったところが少々どころでなく気になったが、これ以上話して講義が始まっては事なので、レイは適当に相槌を打って話を終わらせる。

 代わりにもぞもぞと掛布を顎まで引き上げて、前庭越しに広がる城下の街並みに思いを馳せた。

 レテ宮殿は平地の街中にあり、四方を囲む堅牢な城壁の向こうには民家の瓦屋根や生活の灯が見える。所々飛び出しているのは鐘楼や塔で、一際存在感を放っている尖塔はヘセド・エメス大神殿のものだろう。

 大通りに視線を移せば、城門が下りた後にも関わらず、まだまだ馬車や人の往来が見える。


(まさしく大都会)


 そう、取り留めもないことを考えていたはずなのに。


『それで使命だなんだとよく言える』


 引いた波が寄せるように、フェルゼリォンの辛辣な言葉が脳裏に蘇る。

 放浪癖があるという言葉通り、城下で見た第三皇子は旅慣れている様子で、交渉事などの経験値は圧倒的に向こうが上なのだろう。

 レイが祖母に言われるままに出て来たのも事実だし、皇位継承権に関わる内紛を懸念する彼らと危機感が違うと言われれば反論も出来ない。


(それでも、私はしなくちゃいけないのよ)


 国の為でも王家の為でもなく、自分の為だけに。

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