音と苦しみ
墨汁を零したみたいに真っ暗な中、車を走らせていた。地上には車のライト以外に明かりなんて一つもない。
どこまでも闇が続いている。昼間の単調な風景が騒がしく思えるほど何も見えない。どこまでも行けそうな気もするけど、全く進んでいないような気にもさせる。矛盾と疑惑を孕んだ闇だ。
そんな地上とは正反対に、頭上には掃いて捨てるほどの輝きが満ちている。
眩暈がしそうなほど大量の星々。この星々を使えば、この世のすべての形を再現できそうな気がしてくる。
この星々だけが、歩みを進めている証拠だ。後方に流れていく煌めきだけが「先に進めていないのでは?」という不安を消し去ってくれる。
車内の仲間たちも同じ気持ちのようだ。いつもの陽気な車内とは打って変わって、不安と希望が折り重なった沈黙を図ることなく創り出している。
絶妙なバランスの沈黙だ。不安と希望、どちらかが少しでも多くなれば堰を切ったように片方に傾き、どちらかを押しつぶしていた。どちらにも転んでほしくなかった。正座をした後みたいに痛痒いような、自虐嗜好くすぐる沈黙が続けばと願わずにいられない。
それがこの先にどんな影響を与えようとも。最後の一滴までこの沈黙を味わうつもりだ……。
てな感じで肩までどっぷり自分の世界に浸かりながら、珍しく夜道に車を走らせていた。
少しだけ期待していた夜行性の生物との出会いもなし。ここらの生物は随分生真面目らしい。みんな大人しくベッドに入ってるみたいだ。
だから、昼間と同じで退屈極まりない。なんだったら、景色が見えない分、よけい暇だ。昼間は昼間で基本的に代わり映えしない風景だから似たようなもんだけど。まぁ、簡単に言うとアドミラルで車を走らせていると退屈だ。
たかだか数日、車を走らせているだけでこれなんだから、ほとんど文句も言わずに運転してきた一ノ瀬には頭が下がる。一ノ瀬の運転に対する愚直なまでの厳格さのおかげで旅を滞りなく続けられている。
助手席で一ノ瀬の相手をするでもなしに大口を開けて寝ていることが多い川合にしてもそうだ。川合がそうやって悪びれもせずに寝ているおかげで、アドミも俺も心置きなく惰眠を貪ることが出来る。
だから、この働き者たちにねぎらいの意味も込めて俺が運転を買って出たと思うかもしれない。
もちろん、そんな殊勝な心掛けではなく、俺の個人的な問題だ。
俺は最近なぜだか眠れない。どれだけ疲れていようが、退屈過ぎて寝るしかすることがなくてもだ。安らかで暖かい夢の世界へたどり着けない。
眠気が襲ってこないわけじゃない。睡魔が俺のもとに忍び寄ってきても、得体のしれない囁きが追い払ってしまう。
アドミラルで出会い、将来を誓い合った彼女が話し掛けてきてくれているのかとも思った。でも、日を追うごとに囁き声がはっきりしてくると、淡い希望も打ち砕かれた。
突き刺さるような耳障りな声が僕の耳元を離れない。もちろん、彼女の包み込むような暖かさなんて感じない。悪意に満ちた下品な声だ。
この不快で悪質な現象が俺にだけ起こっているとは思えなかった。
俺はある時、みんなに訊いてみた。おかしな声が聞こえないかと。
「愛しの彼女が話し掛けてるんだろ」一ノ瀬は悲しそうな顔をしながら言った。
「暇すぎておかしくなったのか?」川合はニヤつきながらそう言った。
「これも松田のお遊びかい?」アドミは訳のわからないことを言った。
俺がどれだけ言っても、みんなは真面目に取り合ってくれない。
みんなが俺のことを変わったやつと思っているのは知っているけど、こんな反応はさすがに堪える。俺だって一人の人間で、みんなと同じように考えて悩むのに。
誰も取り合ってくれない個人的な問題にどうにか対処するべく、俺は運転を買って出た。今までのように何の気なしに時間を過ごすわけにはいかない。それは醜い雑音と真っ向から向き合うことになる。
そんなの無理だ。みんなには聞こえない声のせいで俺は発狂してしまう。
運転に集中していれば、囁きは多少トーンダウンする――日に日に大きくなってきているのは否めないけど。
だから、俺は運転を買って出た。陽が落ちても走り続けるようになった。
俺を蝕む囁きから逃げるために。
「松田、もうそろそろ寝床探さない?」
いつの間にか目を覚ましていた一ノ瀬が、慣れない助手席で伸びをしながら言った。あの萎びた野菜みたいな表情だと、そろそろ助手席も限界だろう。もう数日も経てば運転席に戻してくれて喚きたてそうだ。
代わってやる気なんてさらさらないし、寝床を探す気も俺にはもちろんない。
「疲れてるだろうし、まだ寝てていいよ」
俺の言葉を皮肉と受け取ったのか、純粋なる善意と受け取ったのかわからないけど、一ノ瀬は腕を組んで目を閉じた。
後部座席の二人は相変わらず、お仕事に勤しんでいる――つまりは惰眠を貪っている。
二人の寝顔を見ていると、自分が失ったものの尊さを実感させられる。あんなに安らかな表情を出来るなんて……。
何日経とうとも囁きは消えそうもない。囁きは日が経つにつれ大きくなり、今では耳元でがなり立てられているような状態だ。少しは眠れていたのに――気絶するようにだけど――今じゃ眠れても数分だ。もう身体はボロボロで、何をする気にもなれない。
「大丈夫か? 死にそうな顔してるぞ」
川合がいつもの陽気な仮面を取り去って、心配そうに言った。
「今更何を言ってるんだ」と言いたいところだったけど、俺は虚空を見つめて首を横に振るしかできなかった。小鳥のさえずりがどこからか聞こえそうなほど清々しい朝なのに、痩せこけた野良犬みたいに惨めな気持ちだからだ。誰にもこの気持ちを伝えることなんてできない。誰も俺の苦しみをわかってくれない。
「アドミ! ちょっと来てくれ! 松田がヤバい!」
川合がそう叫んだのが聞こえた。だけど、耳元の騒音は消えない。頭の中から金槌で殴られているみたいに頭痛がする。出来ることなら気絶したい。
気づけば、アドミが真剣な顔つきで何かを呟いていた。一ノ瀬と川合は不安な面持ちで俺とアドミを交互に見ている。
何が起こっているのかわからない。自分が生きているのかでさえ不安になってくる。
あの騒音は聞こえているから生きてはいるんだろうけど。
「本当にこれが聞こえないのか?!」
みんなに問いかけたと言うより、苦痛が飛び出たと言った方が正しいかもしれない。俺は耳を塞ぎながら叫んだ……と思う。三人が同時に俺を見つめたからたぶんそうだ。
でも、俺の声は遥か彼方から聞こえるようにか細く、騒音は相も変わらず響き渡っている。三人の声も聞こえはするけど、何を言っているのかわからない。
俺はもう限界だった。騒音をかき消すため叫んだ。
騒音は消えない。
視界が明滅し始め、目の前が真っ暗になった。
俺は空を飛んでいた。海の上を漂うように、ふわふわと自由気ままに。
心は幸せに満たされていた。彼女と過ごした数日間のように充実している。いつまでもここにいて、いつまでも空を漂っていたいと思った。
ここはどこなのか関係なく、ここが俺の行き着く場所なんだろう。ここなら、幸せでいられる。彼女をここに呼び寄せ、彼女と二人で幸せを享受したい。ここには何もないけれど、彼女と幸せに過ごすには充分だ。彼女さえいればそれでいい。
そう思いながら青い空に自分の幸せを描こうとしていると、辺りに暗雲が垂れ込み始め、耳障りな轟音が鳴り響いた。
俺はその音から逃げようとするけど、うまく進めない。岸に打ち上げられた魚みたいだ。
あれに飲み込まれてはいけないと、本能が告げている。
なんとか抵抗しようにも、離岸流に飲まれたみたいに一直線に轟音鳴り響く暗雲へと吸い寄せられる。
心に満ちていた幸せは霧消した。彼女との幸せな未来は消え去った。
惨澹たる地獄のような未来しか見えない。不安と恐怖に支配され、俺の心は荒んでいく。
俺はどうにか抵抗するけど、何も変わらない。地獄が向こうから走り寄ってくるようだ。
諦めるわけにはいかなかった。彼女との輝かしい未来のために抵抗し続けなければいけない……。
「おい、松田が目を覚ましたぞ」
俺を安心させる聞き慣れた声が聞こえた。あの耳障りな騒音と一緒に――多少小さくはなっていた。一ノ瀬が不安と喜びがない交ぜになった不思議な表情で俺を見つめている。
「何があったんだ?」
俺は自分の状況が飲み込めていなかった。何でテントの中で寝ているんだ? なんで一ノ瀬はこんな表情なんだ?
一ノ瀬に呼ばれた二人がテントに駆け込んできた。アドミも川合も一ノ瀬の表情と似たり寄ったりだった。
「私がもっと早く気づいていればこんなことにはならなかったのに。本当にごめん」
アドミが今にも舌を噛み切りそう雰囲気で謝罪してから、状況を説明してくれた。
「断言は出来ないけど、松田が苦しんでいる理由は魔王のせいかもしれないんだ」
随分、懐かしい言葉が聞こえたけど、俺は黙って続きを促した。
「魔王が使う呪いの中で、魔王軍に属さないものに精神的な攻撃を仕掛けるものがあるんだ。どこにその呪いがかかっているのかわからず、どんな条件で発動するのかもわからないトラップみたいなものが。それに松田は掛かったんだ。私が聞いた中ではほとんどが幻覚で、魔王に対する恐怖を掻き立てるものだったんだけど、松田の場合は違ったみたいだ。たぶん、松田が聞いているものは魔王の声なんだ」
依然として耳元で喚き続ける声に耳を傾けてみたけど、何の単語も聞き取れない。ただの喚き声だ。
俺の言いたいことを察したのか、アドミが補足してくれた。
「魔王軍含め、魔王は古代の呪われた言葉を使うんだ。その言葉は自身に苦痛を与える言葉で、その苦痛も並大抵のものじゃない。全身を焼き尽くすような想像を絶する痛みなんだ。でも、その言葉を使う恩恵として、途方もない魔力を得られる――生物兵器を生み出せるようなね」
「それだけヤバい言葉なら、魔王軍のやつらって喋らないの?」
もっと聞くべきことがあるのに、俺は好奇心を抑えられなかった。自分でも呆れ返る。いつかこの好奇心のせいで痛い目を見るかもしれない。
「そうだね。基本的には喋らないよ。言葉を発さずに体力を温存してるね。でも、魔王は違う。強靭な体力と痛みに快感を覚える快楽主義的趣向のせいで、魔王にとってはなんの苦痛でもないんだ。何の意味がなくても古の言葉を使い、人を傷つけ、自分を傷つけるんだ」
一ノ瀬と川合は俺の反応を窺っていた。二人の様子を見るに、アドミから事前に話を聞いていたんだろう――あまり芳しくない話を。
俺は聞くしかなかった。好奇心に素直に従うしかなかった。
「それで、俺は助かるの?」
「私たちが何とかするよ」
そういって、アドミは俺の肩に手を置いた。一ノ瀬も川合もそれに倣った。
三人の暖かさが、優しさが伝わった。
今すぐにこの騒音から解き放たれるわけじゃないだろうけど、俺たちなら乗り越えられると確信した。
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