におい
匂いとは実に不思議なものだと思う。自分にとっていい匂いだと思っても、他人には悪臭に思えるものもあるし、場合によってはなんの感想も抱かないこともある。ちなみに僕が好きな匂いは、バニラのように濃厚な甘さの中にスパイシーな刺激が隠れた匂いだ。別に甘い食べ物が好きなわけではないし、平凡な生活にスパイシーな香りで刺激を加えようってわけでもない。ただ単純にその匂いを嗅げば真冬に暖かい飲み物をのんだようにリラックスできて、いつでも身に纏っていたい匂いなんだ。
逆に嫌いな匂いはアロマティックで爽やかな匂いだ。その匂いを嗅ぐと青春時代のトラウマを思い出したような不快感に襲われる。これもなぜだかわからない。別にその匂いのせいでなにかやらかしたわけでもないし、嫌いな人がその匂いを纏わせていたわけでもない。ただその匂いが嫌いで、その匂いがすれば発生源から遠ざかるようにするし、可能であればその匂いを世界から消し去ろうと努力している。なかなか後者を実行するのは難しいから、前者の対処方法が普通になってしまうけど。
なんの脈絡もなく匂いの話をし始めて何事かと思うかもしれないけど、僕が言いたいことは、要は苦手な匂いは最悪だってこと。時と場合によっては身体を痛めつけるよりも残酷に僕の精神を崩壊へと導くし、そこまでの匂いじゃなかったとしても、僕の心と身体になんらかの異常を与えるのは請け合いだ。それだけ匂いは僕ら人間にとって重要なファクターなんだ。
その匂いのせいで僕ら――正確に言うと僕と川合だ――はひどい目に合った。本来であれば憩いの場である車内や、心と身体の休まる宿泊場所が、ある匂いのせいで閻魔様も真っ青な残虐で暴力的で悲惨な地獄へと変貌したんだ。
僕はあの時のことを思い出すだけで胸糞悪くなってくるし、早くすべてを忘れたいと願ってやまない。でも、強烈な思い出ってものはそう簡単に忘れられるものじゃない。簡単に忘れられるなら、早く忘れたいなんて思うほど強烈な思い出にならない。
事の発端は名もない小さな町を休憩と昼食を兼ねて訪れた時だった。そこで僕らはいの一番に昼食をとることにした。ほとんどを車中で過ごす退屈な旅では食事ぐらいしか楽しみがないからね。
町で最初に見つけた飯屋――この町唯一かもしれない――に駆け込み、アドミの忠告を踏まえて各々の料理を注文した。僕は緑色のゼリーみたいな食べ物と、お肉みたいに肉厚でジューシーなサラダだ。特にこの緑色のゼリーみたいな食べ物が僕のお気に入りだ。アドミラルでは割とポピュラーな食べ物らしく、基本的にどの店でも食べられる。味は緑色とゼリーみたいな見た目からは想像できないほど濃厚で、ビーフシチューと豚骨ラーメンを足して二で割ったような味だ──朝ご飯には食べたくない代物ってこと。僕は昼食にはこの緑の物体を、ここ最近は絶対に食べるようにしている。
川合とアドミは真っ赤なお粥みたいなものだ。味はまぁ、お粥だ。特に言うこともない普通の味。ただ、使われている食材は昆虫みたいな生物の卵らしくて、僕はそれを聞いて以来食べられなくなった。それを除けば普通の食べ物。
厄介なのは松田の頼む料理だ。なにをどうやっても見た目がグロテスクなものしか出てこない。アドミにどんなものか聞いているのに。ミミズみたいにうごめくパスタのようなもの――生き物ではないらしい――だったり、色が変わり続けるスープ――あらゆる色に変わる――それと極めつけは食べる本人の顔に変化するなぞの食べ物だ。アドミが言うには食べ物の大切さを学ばせるために魔法をかけている教育的な料理らしいけど、傍から見たらただの共食いだし、ご丁寧に血管や脳みそなんてものも完全に再現されているから食欲も失せる。しかも、松田はほとんど躊躇することなく食べるから、余計にたちが悪い。本当に松田はよくわからない奴だ。
そんな松田が今回頼んだ料理は見た目に関しては普通だった。鶏肉を薬草と一緒に炒めたような感じ。ただ、臭いがいただけない。メンソールやシトラスのように爽やかな匂いとジャスミンみたいにアロマティックな匂いを三倍に凝縮して、一気に鼻にぶっかけたような感覚を覚える、そんな臭いだ。
完全に僕の苦手な臭いだった。そのせいで、一刻も早くその場を離れたかった僕は息を止めて一気に料理を口に突っ込まないといけなかった。味なんてわかるはずもないし、楽しい昼食の時間も終わり。皆が食べ終わるのも待たずに店を飛び出した。
飛び出したのはいいけど、僕の鼻孔に松田の頼んだ料理の臭いがこびりついているのか、あの臭いが町中に充満してしまったのかわからないけど、僕の感じる匂いは全てあの臭いになってしまった。
しょうがなしに僕は車へと戻り、臭いを洗い流すために鼻から水を入れて、焼けた鉄の棒を突っ込まれたような激痛に耐えないといけなかった。
拷問のような行為のおかげか、その場では臭いがなんとか消えたからよかったけど、本当の地獄はその後から始まった。
「大丈夫か? 一ノ瀬。お土産買ってきたから、あとで食べようぜ」
そう言った松田の手には僕を苦しめた原因が握られていた。僕はそれの放つ強烈な臭いのせいで人生で初めて失神した。
人生で初めての失神を異世界で体験して、異世界で初めて誰かの運転する車に乗っていた。僕が失神している間に出発したらしい。隣では渋い顔した河合が腕を組んでいて、前席と後席が交代した形になっていた――運転は松田だ。
もちろん、僕を失神させたあの臭いは車の中に充満していた。しかも饐えたような臭いまでプラスされている。
「起きたか」
目を覚ました僕に川合が目に涙を浮かべて、口を押えながら言った。ここだけ切り取れば、感動的で友情溢れるシーンに見えるかもしれないけど、それは大間違い。川合もこの臭いにやられてるんだ。たかだか友達が失神程度で涙を流すような軟な人間の集まりじゃないからね僕らは。
「この臭いにやられたんだろ?」
川合は声を潜めながら僕に訊ねた。やっぱり予想通りみたいだ。
僕は瞬時に状況を把握して頷いた。どうやら前席の二人はこの臭いになにも感じないらしい。しかも、この臭いが苦手なことを河合は言っていないようだ。
「あの二人は平気なの?」
僕も声を潜め、二人に気取られないように川合に訊ねた。
「そうなんだよ。なんともないみたいなんだよ」川合は言った。「俺も最初は気にならなかったんだけど、この酸っぱい臭いが合わさったせいで耐えられなくなった」
「なんで二人に言わないんだよ」
僕は小声で抗議した。こんな状況を理不尽すぎるからね。まるで新手の拷問だ。
「松田がスゲー嬉しそうにしてるから言えなかった。すまん」
そんなことは関係なしに、僕は意を決して、松田に物申そうとしたけどやめた。ルームミラーに映る松田の顔が川合の言う通りあまりにも輝いていたから。だから、一旦この問題は棚上げにして、人生で二度目の失神を迎えて車内を過ごすことにした。
二度目の失神を終えて目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。車も動きを止めていて、車内は僕以外誰もいなかった。
あの臭いは相変わらず車内に充満していた。もしかしたら、さっきよりも強烈になっているかもしれない。かもしれないけど、確認なんてするわけもなく、転がり出るように外へ出た。
外に出ても臭いは衰えることなく辺りに漂っていた。空気みたいにありふれたものになりかけてる。残念なことに臭いの自己主張が激しすぎて、無視することができないけど。
「やっと起きたか」
車から転がり下りてきた僕に、松田は心配そうな表情で声をかけてくれた。けど、声音は明らかに心配そうじゃない。初めて彼女ができた少年のように嬉しそうだ。どんだけあの臭いが好きなんだ。
川合が申し訳なさそうな視線を僕に向ける。
まだ臭いのことを言えてないみたいだ。普段ならこんなこと気にもせずにずけずけと言い放つはずなのに。もしかしたら、あまりの悪臭に精神がやられて、弱気になっているのかもしれない。
じゃあ、僕が代わりにガツンと言ってやるべきなんだろうけど、松田の嬉しそうな顔を見たら言えるわけがない。何度も言うようだけど、僕は優しいからね。人の悲しむ顔なんて見れないんだ。特にそれが友達とあらば、無理に決まってる。弱い者いじめをしているような罪悪感で食事が喉を通らなくなってしまう。
だから、僕はこの悪臭問題は一旦置いておくことにした。火急の問題だから速やかに対処しないといけないんだけどね。対処を誤れば心と身体だけじゃなく、今後の僕らの関係にまで影響を及ぼしかねない。一人で行動を起こすには荷が重すぎるってことだ。
僕は機が熟すまでおとなしくしていた。僕のために作ってくれたお粥のようなもの――僕が問題なければあの臭い食べ物が夕食だったらしい――を食べて、気を使っていろいろしてくれる仲間たちを尻目に、その間にゆっくり悪臭問題について考えることが出来た。
僕が熟考に熟考を重ねた結果、あの臭いのもとは盗まれたことにして、捨てることにした。後はそれを松田に知られないように、少なくとも川合に伝える必要があった――一人であれを持っていける気は到底しなかったからね。
でも、そのことを伝えるためにかなりの時間がかかった。松田があの臭いのせいなのか、初めて酒を飲んだ学生みたいに僕らに絡んできたから。一人一人に「ありがとう」と感謝の気持ちを表明し始めたと思えば、僕の体調を気遣いだし、急に奇声を上げたりと大変だった。
最後には無理矢理アドミの魔法で眠らせたけど、放っておいたら朝まで騒ぎそうな勢いだった。
松田を悪臭漂う車の中に放り込んで、やっと僕らに平穏が訪れた。臭いは相変わらず漂っているけど。
「あのくさいのどうする?」
川合が狩人と見紛うほどの鋭い眼光で言った。川合も僕と一緒であの臭いのもとをどうにかしようとしているとすぐにわかったけど、僕らのお気楽ガイドは一切気づいていないみたいだ。
「くさいものなんてあったかい?」なんて他人事みたいに言って、残り物のお粥を口に運んだ。
「アドミは気にならないかもしれないけど、お土産だって言って松田が買ってきたあの食べ物の匂いが僕らはダメなんだよ。あれのせいで僕は失神したんだ」
アドミは僕の発言でやっと事の重大さに気づいたみたいだった。魚みたいに口をパクパクさせている。
「あれは盗まれたことにして、捨ててこようと思うんだ」
なにも言えないアドミは置いておいて、僕は自分の考えを口にした。
川合はなにも言わずに頷いた。言葉なんて交わす必要ない。これは命に関わる事態なんだ。
アドミは松田の眠る車の方を一瞥してから、申し訳なさそうに口を開いた。
「君たち二人が不快な思いをするならそうした方がいいね。一ノ瀬が失神するならなおさら。それと、気付かなくてごめん。私はガイド失格だ」
「もともとガイド失格だよ」と思いながらも、そこはグッと堪えて、落ち込むアドミを慰めながら、諸悪の根源を処分しに行くことにした。
松田を起さないように、静かに臭いのもとを取り出し、僕らは闇夜を駆けだした。
一刻も早くこの臭いからおさらばしたかった。でも、それにはかなりの時間がかかった。
まず、僕らはそれを三人交代で順番に持ちながら走った。僕と川合は臭すぎて長時間それを持てないし、アドミがずっと抱えるには重すぎたからしょうがなかったんだ。今から考えれば、アドミの魔法でどこかへ飛ばすなり、消し飛ばせばよかったんだけど、僕らはそんなこと思いつく余裕もなかった。さっさとこの物体を処分したかったんだ。
五百メートルくらい走って、三人で無心になって穴を掘ってそれを埋めた。まだ辺りには悪臭が漂っていたけど、残り香が漂っているだけだと思った。アドミはあの臭いが気にならないしね。
僕らは仕事をやり遂げた高揚感から意気揚々と車のもとへと戻った。最高の充足感だった。お互いをそれぞれ褒めそやし、祝杯をあげようと息巻いた。
けれど、車のところに戻っても臭いは健在だった。駆けて行く前と変わらぬ濃度で辺りを漂い、しかも夜風に乗って僕らの来た方向からあの臭いがやってくる。
もう我慢の限界だった。僕と川合は檻から放たれた猛獣のように奇声を上げてもと来た道を駆け戻った。そして、爪が割れるのもお構いなしに乱暴にあの臭いのもとを掘り返して、また走り出した。
最終的に、僕らは体力が続くまで走り続け、倒れこんだところに穴を掘った。人一人が入れるくらいの深い穴だ――アドミが来てくれなかったら掘れなかったと思う。
そこに諸悪の根源を放り込んで、なにがあっても掘り起こされることのないようにしっかり土をかぶせて踏み固めた。
すべての作業を終えると、臭いは完全になくなっていた。僕と川合はその事実に安堵して、その場にへたり込んだ。九死に一生を得た気分だった。
そして、僕らは疲労のせいで鉛みたいに重くなった体を引きずってなにも知らずに眠っている松田のもとへ戻った。
車が見えてくるころには空が白み始め、新しい一日が始まろうとしていた。
長い長い一日だった。こんなことは一生経験したくない。
僕らはテントに入って、そのまま倒れるように眠りについた。
目を覚ますと松田が一人で騒いでいたけど、まだ疲れが残っていたから、大人しく松田の怒りの舞を見ていた。
松田はアドミラルの地中にあのくさい物体が葬り去られたことを今も知らない。
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