空が近い日

「なんかここの景色を見てると落ち着くよな」


 大きな木の根元に寄りかかって呑気そうに川合が言った。


「そうだねぇ~。地球じゃこんな景色見たことないのにねぇ」


 かくいう僕も川合と同じようにくつろいでいて、川合の言葉に同意した。


 目の前にはこれから僕たちが進む道路がひたすらに真っ直ぐ伸びていた。どこまでも真っ直ぐで障害物なんて見当たらない道。この道を進めばまた未知の世界を体験することになるんだろう――手に汗握る冒険や命がけの戦いなんかを。


 今までそんなことはほとんどなかったし、あってもアドミがどうにかしてくれるから望み薄だろうけど。


 でも、もしかしたら、遥か彼方に見える街や、この世のすべての色を封じ込めたようなふくよかな森、地球でもよく見る平凡な草原、僕らの想像もつかない場所で冒険やロマンスなんかが起こるかもしれない。かもしれないというより起きてほしい、せっかく異世界に来たんだから。


 異世界らしいことがないと言ったら嘘になるけど、ここアドミラルでは少なすぎる! まず、車で移動なんて言う趣の欠片もない手段を使っているし、お金にだって困ったことがない。ようはゲームやアニメで起こるイベントがあまりにも少なすぎるんだ!


 これは本当に由々しき事態だ。このままじゃ僕らはただの放浪者だ――かっこよく英語で言うとヴァカボンドだ!


 なんてことを、大口を開けたまま考えていると、どこかで見たことのある鳥みたいな生物――スズメに羽が四つあるみたいなのだ――が僕らの近くを横切った。


「あの飛んでるやつって、川合がほら吹いて恥かいた時のやつじゃね?」


 名前は忘れてしまった。しょうがない事なんだけどね。くだらない話の一コマなんだから。


「そうかもしれないけど、その言い方はやめよう? 傷つくんだよ? 一ノ瀬だって洗脳された時のこと話題に出されたくないだろ?」


 川合は痛ましい失恋の記憶を掘り起こされたみたいにしょぼくれている。


「そうだな。僕が悪かった」


 そんな川合を見ていると可哀相だったし、僕も嫌な記憶が蘇ったから素直に謝った。辛い出来事はさっさと忘れるに限る。それがラビを快適に過ごす掟だ。


「わかればいいんだ」


 川合はそう言って、また呑気に空を眺め出した。


 どこまでも真っ青だった空には、いつの間にか真っ白な雲が楽しげに形を変えながら漂っていた。空は地球にいてもアドミラルにいても、優しく受け入れてくれる気がする。


「あの雲さ、アドミに見えない?」


 僕はそんな中から僕らのガイドの形を見て取った。


「そうだな。アドミが両手を挙げてるみたいだな」


 川合はそう言って、流れゆく雲を呑気に眺めていたかと思うと、なにかに気づいたのか「あっ」と声を出した。いつもの車内なら面倒なことになるからと放っておくけど、今は暇を持て余しているし、二人きりだからおざなりにすることもできない。だから僕は聞いてやった。


「どうした? なんかあったのか?」


「いや、あの雲がさ、一ノ瀬を襲った魔物に見えてさ……」


 少し空を眺めていたらこれだ。数分前の出来事なんて忘れてやがる。お互いに痛ましい過去で傷ついたというのに。


「その話はするなって言ってるだろ!」


 どうせ僕ら二人しかいないから、盛大に怒鳴りつけてやった。まったく、記憶力もデリカシーの欠片もないやつだ。


「しょうがないじゃん。見えちゃったんだから」


「見えちゃったじゃないよ。川合が適当なことばっかり言うからこんなことになったんだろ! 少しは反省しろよ!」


 川合には珍しく悪びれた様子だけど、さすがに言っていいことと悪いことがある。それにこんな状況に僕を引きずり込んでおいて、よくもあんなことが言えたもんだ。ここまで僕が怒鳴りつけなかったのがおかしいくらいなのに。


「一ノ瀬だって賛成したじゃないかよ! なーにが運転は飽きただ。運転しかできないくせに」


 川合は僕に言ってはいけないことを言っている。本当にデリカシーの欠片もないやつだ。まさにデリナシーだ――これは言わないけどね、可哀相だから。


「そんなことありませーん。運転以外もできますぅー。料理覚えたりしてますぅー」


「あんなん料理でもなんでもないじゃないか! 鍋の中に食べられそうなもの放り込んでるだけだろ!」


 またしても川合は言ってはいけないことを言った。自分は用意されたものをただ食べているだけのくせして。よくもまぁそんなことを言える。


「適当じゃねーよ! あれがアドミのおふくろの味なんだよ! 文句言うならアドミに言え! それにお前の方がなにもしてないだろ。毎日毎日、暇さえあれば寝やがって。ちょっとは役に立て!」


 僕はアドミラルの言葉をいまだに理解できないから、それの罪滅ぼしを兼ねて少しでも役に立とうと思って努力しているのに。なんてやつだ。


「おいおい、俺が役に立ってないなんて言わせないぞ。一ノ瀬君の命を救ったのは誰でしたっけね?」


 川合は得意げな表情になって僕に言った。くそっ! それを言われちゃなにも言い返せない。確かに川合は僕の命の恩人なんだ。ここまで言われる筋合いはない気がするけど。


「えっと……、その節はお世話になりました」


 納得は出来なかったけど霊を言うしかなかった。


 大人だからね。それぐらいは出来る。


「わかればいいんだよ」


 川合は得意げな表情を崩さないけど、思うところがあるから少しだけ言葉尻が下げて言った。


「うん、本当に感謝はしてるんだけど、あの話は止めない? いろいろと辛い」


 僕と川合には思い出したくない記憶なんだ。この世界で一番の黒歴史かもしれない。


「そうだな。俺もカッとなっちまった」


 川合も思い出したくない記憶のせいか顔を青ざめて、刀を鞘に納めた。


 また、僕たちはアドミラルに来てから初めてと言うくらいなにも考えずにのんびりしていた。なんの穢れもない透き通った空気を堪能しながら。


 本当にこの世界は空気がおいしい。排気ガスに覆われた地球とは大違いだ。こうやってのんびりしていると余計にそれを実感する。


 気づけば、僕らの言い争いのもとになっていた雲も消え去って、青空がいつもより近い。どこまででも行ってしまいそうだ。


「それにしてもなんにもないな」


 あまりにもやることがなさ過ぎて、無意識に僕は呟いた。やることがなさすぎるとこうなってしまうみたいだ。


「あの二人は俺たちのことを探してくれてるんだろうか」


 もうお気づきの方がいるかもしれないけど、僕たちの旅の仲間である松田とアドミはこの場にいないんだ。諸事情で僕と川合はこの眺めのいい場所であの二人を待っている。


「僕たちがいないのに気づいてなかったりして」


 あの天然コンビでもそんなことはしないと思いながら、僕は冗談めかして言った。


「ありそうで笑えないんだけど……」


 川合には冗談に聞こえなかったらしく、不安そうに辺りを見回していた。見える範囲にはもちろん二人はいないし、車もない――遥か彼方に見える小さな街と真っ直ぐな道と、森、草原だけしか見えない。


 当然だよね。あの二人がいるか、車があったら大手を振っていつもの旅に出発しているんだから。


「暇だし山手線ゲームでもする?」


 僕はこの美しく怠惰な光景に飽きてきていたから、川合に提案してみた。川合も何時間も似た風景を眺めてられる酔狂な人間じゃないしね。


「なんでまた山手線ゲーム?」


 無粋にも川合は理由を尋ねてきた。なんて趣のないやつなんだ。どうせ暇なんだから二つ返事で承諾すればいいものを。


 しょうがないから僕は言ってやった。


「いや、不意に思いついた」


「やることないし、やるか。お題はどうする?」


 やっぱり暇を持て余していた川合はすぐに食いついてきた。


 僕はそんな川合をほくそえみながら、満を持していつかはやってみたいと思っていたお題を発表した。


「一度は言ってみたいこと」


 アドミラルにくる前からいつかはやりたいと思っていたことだ。そんなくだらないことを話しながら酒の肴にでもしようと思っていたこと。まさか二人きりで、こんな状況でするとは思わなかったけど、しょうがない。暇すぎるんだ。


「あのさ、山手線ゲームやりたかったら普通に言ってくれればいいんだよ? 不意に思いついたとか言わなくても。どうせ暇だから付き合うんだし」


 僕が間髪入れずに言ったもんだから、いつもは見せない明晰な推理を川合は披露しだした。まったく察しのいいやつだ。これが長い事一緒にいることの弊害かもしれない。


 だからって、僕はその通りだなんて言わないけどね。自分が思っていたことをずけずけと言われて「はい、そうですよ」なんて言うのは悔しいからね。みんなもわかるだろ?


「別にそんなんじゃねーし」


 だから、僕はぶっきら棒に答えた。これが男としてのせめてもの抵抗とでもいうように。実際、こんなシチュエーションに出くわしたらみんなもそうするはずだ。


「わかった、わかった。じゃあ、どうする? 一ノ瀬から? あと手拍子いらないよね? 面倒くさいから」


 川合は僕の気持ちを察したのか、適当にあしらってさっさと話を進めた。


「手拍子はなしでいいよ。じゃあ、いくぞ……」


 お題を出しながらも、僕は少し黙った。あまりにも川合が早く折れたせいもあるし、いきなりすぎて考えていたことが一瞬言葉にならなかったから。


「責任はすべて俺がとる」


 言い切って、確信した。これは会心の一撃だ。川合も完全に同意するだろう。そんな空気が漂っている。


「言わないね。いや、言えないね。特にここ異世界だしね。責任全部負ったら死ぬ」


 僕の考え通り、川合は同意してくれた。


 こうやって、お互いの感性に引っかかると「友達でよかった」とか「やっぱりこいつはわかってる」なんて思うわけだ。そして、信頼が育まれていく。今さらどうしようもないほど、僕らは親密だけど。


 僕は気分を良くして川合に促した。


「だよね。じゃあ川合いいよ」


「毎朝俺の為に味噌汁を作ってください」


 一瞬の躊躇もなく川合が言った。


「お、おう。そういう系ね」


 僕はそれくらいしか言えなかった。あまりにも真に迫っていたから。誰だってそうなると思うよ、僕はね。


「なんだよその反応! 男なら言ってみたいだろ!」


 川合が僕の反応に意外そうな顔をしながらがなり立てた。


「確かにそうだけど、この世界ではたぶん無理だし、ちょっと古風な感じだし……。しかもマジトーンで言うからびっくりした」


 川合には前科もあるし、二人きりの状況で言われたら誰だって僕みたいな反応を示したはずだ。それは断言できる。本当に川合の目はマジだったんだ。言いたかないけど、食われるかと思った。


「お前は馬鹿か! まだ呪いが解けてないんじゃないか!?」


 僕の反応に思うところがあったのか、痛いところを突いてくる。なんてやつだ。ちょっと前にその話は止めようと話したのに。


「やめろって、その話はなしだ!」


 僕は殴り掛からんばかりの剣幕で言った。お互いに苦い思いしか抱かない話に終止符を打つために。


 少しの間お互いに睨み合って、気まずい雰囲気が流れそうだったから、僕は折れて山手線ゲームを続けることにした。


「じゃあねぇ……、関係者を集めてくれ!」


「探偵っぽい。いいなそれ」


 川合もあの話はしたくなかったみたいで――しっかり話し合いたかったと言われても困るけど――いつもの調子に戻った。


「だろ? 言う機会なんてないけど」


 僕はそう言って次を促そうとすると、川合が口を開いた。


「月が綺麗ですね」


 まるで宵闇を支配する妖艶な月を目の前にしているみたいな表情だった――今は真昼間だけど。


「あの、川合君て、もしかしてロマンチストさんなんですか?」


 僕は冗談めかしながら聞いてみた。そんなトーンじゃないと聞けないからね。もし、これで真剣な顔で頷かれたりなんてした日には、これからの関係を見直さなきゃいけない。


 これまでいろいろあったわけだし。川合が松田に劣情を抱いたとか、呪いの件だとか。呪いの件では本当に助かったけど。


「そういうわけじゃないんだけどね。でもなんか憧れるじゃん?」


 ダメだ。完全に恋に恋する乙女だ。幻想に溺れてやがる。でも、それを僕たちに押し付ける気はなさそうだ。キラキラした瞳で、ありもしない月を眺めているように見えるから。


「そだねー」


 これ以上、川合の趣味についてとやかく言うつもりはなかったから、適当に相槌を打ってゲームを続けた。


「ほら、とっておきな」


「お金とかぞんざいに渡しながら言うんでしょ? 確かに言ってみたい」


 妄想も終わったみたいで、川合は僕の言葉に興奮しながら同意した。こんな言葉でも興味を示すから、川合がなにに反応するのかよくわからなくなってきた。


「だろ? お金なんてたいして持ってないし、アドミが全部管理してるから無理だけどね」


 川合が同意してくれたから僕も嬉しくなったけど、すぐに現実に引き戻された。だって、僕らはお小遣いを管理されている子供みたいにほとんどお金を持っていないから。必要な時は必要な分だけアドミがくれる。別に不自由はしないけど、なんだか悲しくなってくる。


「じゃあ、俺は……。俺についてこい!」


 川合は金銭を管理されていることに不満はないのか、ちょっと考えてから言った。恋に恋する乙女じゃないけど、夢見がちな少年みたいだ。なんだかむず痒くなってくる。


「あの、もしかしてまたそういう系ですか?」


 まさか川合がこんなに純粋無垢な人間だとは思っていなかったから、驚いたし、軽くひいた。いつものヘラヘラした感じとあまりにも違い過ぎる。


「そうじゃなくて、単純に迷ってるやつとかを励ますというかさ、俺がなんとかしてやるよみたいな」


「そっか、ならよかった」


 ちょっと不機嫌そうに言う川合を見て、少し安心した。実は今までの自分は嘘だったんですなんて言われたら、申し訳なくなってくる――ゲスイ話とかいろいろしていたからね。


「なにがよかったんだよ。いいから次いけ!」


 僕の反応に納得いかなかったのか、恥ずかしがっているのかぶっきら棒な言い方だった。そんな言い方にいつもなら僕がケチをつけてひと悶着起こすところだけど、やめておいた。僕も大人だからね、無用な争いは避けるんだ。特に二人きりの場合は。仲裁してくれる人がいないからね。


 だから、僕は次に言うことを少し考えて、ゲームを続けることにした。


「おあとがよろしいようで」


「落語?」


 半信半疑な調子で川合は言った。これぐらいのことなんの躊躇もなく言いきってほしいもんだ。


「そう、普通じゃ使わないし、一度は言ってみたいだろ?」


「そうかもしれんな……」


 僕が言った言葉の意味をわかっていないのか、一度は言ってみたいと思はなかったのか判然としないけど、渋柿でも食べたような顔をしている。


 僕はどんな理由にしろ、そんな表情をされて快く受け入れられる人間じゃないから、少し小言を言って先を促した。


「なんだよその反応。じゃあ、次どうぞ」


「あの虹の先にはなにが待っているんだろう」


 またしてもこれだ。白馬の王子様を夢見ているような表情をしている。川合は一体なにを求めてるんだ? 僕はどうすればいいんだ?


「だから、なんなのその感じは? メルヘンなの? ファンシーなの? 乙女なの?」


「一度は言ってみたいんだよ! 気にすんな!」


 夢を馬鹿にされた少年みたいな表情で、川合は吐き捨てた。ちょっと言いすぎちゃったかな。


「お、おぅ……。ならしょうがないな。これ以上は言いますまい」


 予想外の反応に僕は少し罪悪感にかられながら、ゲームを続けようとした。


「じゃあねぇ、次は……」


 そんな僕を無視して川合が叫び出した。


「おーい! ここだー! 助けてくれー!」


 僕の番なのにそれも忘れちまったみたいだ。立ち上がって、両手を振って合図している。どれだけいじられるのが嫌だったんだ。まったく、誰かがいるわけでもないし。


 そう思いながらも、優しい僕は茶番に付き合おうと、川合の見つめる先を見てみた。すると、そこには僕たち二人が求めていた頼もしいガイドの姿があった。


「助けてくれー!」


 僕も言わずにはいられなかった。人生で一番と言っていいほど、力の限り声を張り上げた――。


「どうしたんだい? そんな大声をあげて」


 必死に声を張り上げていた僕たちの様子なんて気にも留めずに、マイペースにふわふわと飛んできたアドミが不思議そうな顔で僕らに言った。


「どうしたんだい? じゃないよ! 見りゃわかるだろ! 俺たちがいた場所がごっそりえぐれて宙に浮いてるんだぞ!」


 川合の言う通りだ。僕たちがいた場所は半径十メートルほど抉れて、エレベーターみたいに浮き上がっていた。今はもう下を見るのが怖くなるくらいの距離だ。なんだったら、木の根元から動くのさえ憚られる。


「だから言ったろ? 一緒に行かなくていいのかって」


 アドミはいつもの調子でなんでもないように言う。なんでもないように言うけど、僕らからしたら、大問題だ。下手したら、このまま遥か上空まで連れていかれて、冷たい真空の世界へ放り出されていたかもしれないんだから。


「言ったけどさ、こんな危険なことになるなんて思わないだろ?」


「危険でもなんでもないよ。君たちは言ったじゃないか、魔物が来なければいいって」


 至極もっともだけど、僕たちが言いたいのはそういうことじゃないんだ。ガイドとして、こんな状況に僕らを放置したことに物申したいんだ。


 それなのに、川合は翼をもがれた天使みたいに歯切れの悪い言い方をした。


「言ったけどさ……。危なくない? この状況」


 勇ましく怒鳴りつけるのを期待していたから、少なからず失望した。僕も何も言えなかったから、同じなんだけどね。


「ここほど安全な所はないよ。なぜか知らないけど、みんなここに寄り付かないんだ、魔物を含めてね」


 そりゃあ、安心安全だと思っていた場所が抉れて宙に浮き始めたら、誰も寄り付かないだろうさ。とも思ったけど僕はなにも言わなかった。さっさと車に戻りたかったし、議論する元気もない。こんなに長時間冷や冷やしたことはたぶんないね。


「そっか、そうなのか……」


 川合も僕と同じ見たいだった。浜に打ち上げられた魚みたいだ。


「こんなことはよくあることさ」


 やけに大人しい僕らを見ながらアドミは呟いた。多少の罪悪感を感じているみたいだ。


 なんだかいつも手遅れな気がする。


「今更だけど異世界ってスゲーな」


 僕は本心からそう言った。幾度となく窮地を乗り越えてきた僕たちだけど、この世界はまだまだ予想のつかないことで溢れている。気を抜く時間はないみたいだ。


「アドミラル怖い」


 川合がいつになくしょぼくれて言った。こいつもこいつで考えることがあったんだろう。ひしゃげたバールみたいだ。見ているこっちが辛くなってくる。


「ほら、もう地面が近づいてきたよ。飛び降りても大丈夫だよ」


 今日この時だけはアドミが空気を読めないやつでよかったと思う。変に気を使われても、僕らのちっぽけな自尊心を痛めつけるだけだからね。


 こういう時はいつも通りに限る。


「本当だ。松田も待ってるね」


 僕は抉れた地面の端に恐る恐る忍び寄り、思いのほか近づいていた大地と、見慣れた友人を見てほっとした。


 こんなにいつもの光景が安心するとは思わなかった。


 いつの間にやら僕の隣に立って、徐々に近づく大地を見ながら川合がしみじみと言った。


「あれだな、こんな時に言うのかもな。おあとがよろしいようでって」


 川合の締めの言葉が正しく使われているのか僕には判然としなかったけれど、それっぽく終われそうだからなにも言わないことにして、愛しの大地へ飛び降りた。


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