第2部 第1章
「決めた……決めたよ汐音……。私、宇宙飛行士になるっ!」
お昼休み。教室の自席で私とお弁当を食べながら友人のももちゃんが唐突にそんな宣言をした。急に……というわけではなく、きっとさっきの田島先生のお話に感化されたのだということは想像に難くない。
「うんうん、頑張ってね」
ももちゃんが何かに感化されやすいのは今に始まった話ではないので、私は適当に返事をする。この状態は持って三日というところだから、そんなに本気に話に付き合ってあげる必要はないと経験則で分かっている。
「宇宙飛行士になるにはまず何が必要なのかなぁ? 冷静に考えると私たちって宇宙飛行士について全然知らないよね! そもそも宇宙飛行士って会社員なのかな? NASAの職員さんとか?」
でもその三日間はこうして好奇心旺盛になるので相手するのは結構大変だったりする。
それにしても、確かに宇宙飛行士ってどういう人たちでどうやってなるんだろう。私も全然知らなかった。
「おいおい沢口……お前だけに良い格好はさせないぜ。目指すぜ俺も……宇宙(そら)を」
……と、隣の席で葉山君と一緒にご飯を食べていた鹿井かのい君が話に入ってきて、大きく手を上げて人差し指で天井を指さしながら良い笑顔で言った……歯には焼きそばパンの青のりが付いていたけれど。
「お、かのぷーも宇宙飛行士を目指すのかい? 負けないぜー?」
二人はグーにした拳を突き合わせて、ごつっ、と音を立てると、へへ、と戦友のように笑った。あなたたち本当に目指すんですか? 宇宙飛行士を?
ちなみに隣の席の葉山君はとっくにご飯を食べ終えていて、二人の話を聞いているのかいないのか、無反応で新聞に目を滑らせていた。口元にはカントリーマァムのバニラ味をさくさくと食べながら。
……新聞? あんまり葉山君が新聞読んでるイメージはなかったけど。
「でも宇宙飛行士って何なんだろうな。どうやってなればいいんだろう。そんなにたくさん日本人の宇宙飛行士がいるイメージってないよな」
「ねー。たまにやふーニュースとかに出てた気がするけど、ほとんど聞かないよね。本当はいるけど有名じゃないだけなのかな?」
確かに……宇宙飛行士さんって、よくニュースに出ている有名人が何人か居るけれど、そんなにたくさんいるイメージはないなぁ。宇宙飛行士ってどういう人たちなんだろう。
「……たまにJAEXAが募集をかけてる。十年に一回とかな。募集要項に載ってる条件を満たしてれば採用試験を受けられる」
……と、私たちが首をひねっていたとき、葉山君が新聞を読みながら口を挟んできた。葉山君が自分から会話に入ってくるのは珍しい。この人はコミュニケーション能力がない、というよりも、他人と仲良くすることに興味がない人なのだ。多分。そもそも高校生は彼の本業じゃないし。多分。
「流石葉山! 物知りだな! お前も宇宙飛行士目指すか⁉」
「目指さねえよ……いや、目指せねえよ」
「なんでー? そー君って結構頭良さそうだよねっ。一緒に宇宙飛行士になろう! ここで三人で桃園の誓いを立てよう!」
ちなみにももちゃんの本名は沢口ももも。もも、じゃないよ、もももで合ってます。ももちゃんは全ての男女をあだ名で呼ぶので、鹿井くんのことは「かのぷー」、葉山君……葉山総司君のことは最近「そー君」と呼ぶようになった。こういう風に男女問わず、クラス全員との距離が媚びてるわけでもなく近いから、ももちゃんはとても男女から人気がある……はっきり言って、モテます。容姿も笑顔がとっても可愛いし、男子からモテモテです。そのせいで一部の女子からはちょっと嫌われてるけど……。
あ、ただし、仲良しの友達であるはずの私はあだ名じゃなくて名前で呼んでくる。それはなぜなのかと聞いたら、汐音は友達だから特別、とよく分からないことを言われた。普通、逆じゃない?
「立てねえし、その雷とハンマーで戦いそうなあだ名はやめろ。大体、宇宙飛行士になるには英語の読み書きと英会話が必須だけどお前ら大丈夫か?」
「…………」
「…………」
葉山君が新聞を読むのを止めて放った突っ込みに二人は押し黙る。
「あと、理数系の大学出てなきゃいけないけど、そこも大丈夫か?」
「…………」
「…………」
鹿井君が文系か理系かは知らないけど、少なくとも、ももちゃんは文系だった。
「さらに倍率は三百倍以上だけど、覚悟はできてるか?」
「…………」
「…………」
とどめの一撃をくらって、二人は沈痛な面持ちで下を向いてしまった。
「なあ、沢口、宇宙飛行士だけが人生じゃないよな……?」
「うん、そうだね……職業に貴賤はないって田島先生も言ってたしね……」
……というわけで。
二人の宇宙飛行士への夢は、三分で断たれてしまったのでした。
夢を見る前に現実を見ろ、とはよく言ったもので。宇宙飛行士というあまりにも高い現実のハードルを見上げて、二人の心は折れてしまったみたい。ももちゃんの三日坊主を三分坊主にしてくれた葉山君には感謝。
そろそろ授業が始まる時間なので、二人は肩を落としてとぼとぼと自席に戻っていった。
「まぁ、俺もいつかは宇宙に行くことになるんだろうな……何十億年後かに」
二人の背中を余所に、葉山君は何やらよく分からないことを呟きつつ、カントリーマァムの小袋を開けて中身を口に放り込むと、再び新聞を読み始める。一体何の記事を読んでいるのだろう。私は好奇心で葉山君の読んでいる新聞をのぞき込んで、葉山君の目線の先にある記事を見る……そこには『緑市一家惨殺事件』という大見出しの記事が載っていた。
『緑市一家惨殺事件』。
この事件は私も知ってる。最近ニュースで大きく取り沙汰されている大事件。私たちの住んでいる県の隣の県で起きた、四人家族の両親が家庭内で殺し合いをした挙句、家族三人が死亡して大学生の男の子一人が意識不明の重体……。文字通り家庭内で起きた惨劇。警察が調査したところによると、父親が中学生の娘の喉を横一文字に裂いて殺害、続けざまに母親の背中を刺した。しかし母親は背中を刺されつつもまだ息があって、隙をついて父親を背後から撲殺した後に大学生の息子の頭を鈍器で殴った……後に母親は出血多量で死亡。生き残ったのは重体の大学生の息子一人と、ペットの犬一匹という、話を聞くだけでもおぞましい凄惨な事件。
この事件が世間を騒がせているのは、何故このような殺戮劇が起きたのかが、一切謎に包まれているところだった。
この家庭には特にこれと言ったトラブルの種はなく、一週間前まで一家四人で仲良く出かけて談笑している様子も目撃されている。母親と父親は共働きだけど、二人は周囲にも評判のおしどり夫婦。温厚で人に好かれる性格であり、職場でトラブルを起こしたこともなく、プライベートにも調べた限り何も問題はない。つまり殺し合いに至る動機が全く謎に包まれている。
どこにでもある温和な家庭で起きた謎の惨殺事件……。確かに誰の興味も引く大事件だったけれど、葉山君がこれをわざわざ新聞を買って読んでいるということは、この事件の正体(、、)のようなものが私には見えた気がする。
「まさかこの事件って、アドミが起こした事件なんですか? 真犯人は両親じゃなくてアドミ、とか」
「んー……」
私は小声で葉山君に話しかけると、葉山君は考え込んでから私に返事をする。
「生きて動いてるアドミはたくさんいる。だけど普通、こんな直接的な殺人事件を起こしたりしねえな」
「そういうものですか……」
この事件には関係がなかったけれど、生きて動いているアドミがたくさんいるという衝撃の事実。初めて知りました。恐ろしい。
「それと、前にも話したかもしれねえけど、普通に殺してくれるなら、そいつは随分優しいアドミだよ。でもまぁ……」
葉山君は新聞を閉じると、最後に小声で続ける。
「この事件に何らかのアドミが関係してるのは間違いないらしい」
そして、手に持っていたカントリーマァムの袋を折りたたんで私にゆっくりと投げ渡した。
私はいつものようにその袋を受け取って、中身を確認する。
その袋の中のカントリーマァムはバニラ味が食べつくされていて。ココア味だけしか残っていなかった。
え? ココアも結構甘いと思うんですけど。
・・・・・・・・・
――退屈だ。
人生は本当に退屈だ。
世の中の奴らはこんな退屈な人生で何を目標に生きているのだろうか。大人になれば何かが変わるかもしれない、と思っていたが、成人しても何も変わらない。
ちょっと勉強をして、ちょっと良い大学に行ってみればおれと同じことを考えてるやつがいるものかと思っていたが、実際のところそんなことはなかった。他人と接して思うのは「どうしてこんなことが分からないのだろう」「どうしてこんな簡単なことが出来ないのだろう」「どうしてこんな馬鹿らしいことで笑ってるんだろう」。そんなことばかりだ。世の中のやつらは、何故こんな簡単なことが分からないのかが分からない。
世の中は馬鹿ばかりで、本当に退屈だ。対等に話せる人間が一人もいない。
観念的な哲学の話、高度な政治学、経済についての持論。そういうものを同等に語れる相手と出会ったことがない。おれが普段頭の中で考えていることをさらけ出せる相手がいない。
退屈だ。なんで世の中には馬鹿しかいないのだろう。
まぁ、そんなことは今に始まった話ではない。昔からおれはそうだった。勉強も、スポーツも、娯楽も。大体どんなことだって、おれが少し頑張ればすぐに他人よりも上手くなってしまった。そのこと一つに打ち込んでいるやつには勝てないときもあったが、おれがそいつと同じステージに上がればおれが勝っていたことは疑いようもない。おれにそこまでのやる気がなかっただけだ。
自分は他人とは違う。そのことに気付いたのは幼稚園のときだった。
それから少しの優越感とかなりの生きづらさを抱えながら生きてきたわけだが、一時期、わざと馬鹿なフリをしたこともあった。小学校高学年の頃だったか。振り返ってみれば、友達が欲しかったのだろう。わざと馬鹿な行動をしたり、馬鹿な言動をしたり、テストでわざと悪い点を取ってみたり……そういうことをして、他人に歩み寄ろうとしたときもあった。今思えば『人間失格』と似ているな。道化を演じていたのだ。酒やギャンブルや女に耽溺すればこの退屈から一時でも逃れられるのだろうか。……その話は置いておいて、確かに道化を演じていたそのとき一瞬だけ友人は出来たが、話が合わないし、煩わしい人間関係に巻き込まれるのが面倒で、すぐに自分から距離を置いた。
そのときに、他人と付かず離れずの距離感を学習出来たのは人付き合いをして得た価値あることの一つだ。おかげで、それからは尖っていたおれも馬鹿なやつらとの付き合い方を覚えて、人間関係のトラブルに巻き込まれず、つまらないことに付き合うこともなく無難に学生生活を過ごせた。
……ああ、友人と疎遠になった、というのは語弊があったな。
一人だけ、ずっと仲が良かった男がいた。親友と言っても差し支えない男だった。名前を加藤祐一という。そいつはおれと同類だった……というわけではない。ただ人が良いだけの平凡な男だった。温和で人当たりが柔らかく、人と衝突することを好まない。楽しいことや頭の良いことを言うわけでもないが、一緒に居ても不快にならず、むしろ落ち着く。だからこそ、おれのようなやつとも上手くやれていたのだろう。今思えばつまらないやつで、付き合う価値があったかどうかは疑問だが。
裕一とは中学生の終わりまで仲良くしていたが、高校に入るときに裕一は親の仕事の都合で他県に引っ越していった。それからも連絡は取りあっていたが、先日、そいつの身に衝撃的な事件が起きたことをおれは新聞で知った。
『緑市一家惨殺事件』
信じられなかった。あの裕一の両親が、家庭内で殺し合い? いったい何が起きたらそんなことになるのだろう。あいつの家には何度も行ったことがあるが、両親はとても仲が良く、妹もごく普通の子だった。なるほど、こんな両親に育てられれば、こういう人の良い兄妹が育つのだな、と思ったこともある。
……まぁ、家庭の内情なんてものは余人が窺い知れるものではないのかもしれない。だがそれでもこの事件は信じられなかった。
不幸中の幸い……と言えるほどの幸いではないが、あいつ自身は重体ながらも生存しているらしい。頭を殴打されたとのことなので、後遺症が残らないといいのだが……。
それともう一つ。気になることがあった。
事件が起こる前日、あいつからおれにこんなLINEが送られてきていた。
『お前の家に箱を送った
俺が取りに行くまで絶対に中を開けるな
中の物に触るな』
どういうことなのかを尋ねる返信をしたが、あいつからの返信はなかった。メッセージが既読……読まれることもなかった。
そして翌日。おれはその日、あいつの身にそんな事件が起こっていることなど知る由もなかったが、LINEのメッセージのとおり家に宅急便で荷物が届いた。
その荷物を開封すると、なるほど、確かにそこには箱が入っていた。小さいけれども頑丈そうな作りの金属製の箱。せいぜい小物入れと言った大きさだ。軽く振ってみると、中で何かが転がってぶつかる音がする。そして四桁のナンバーロックの南京錠で封がされており、中を開けることはできない。
一体何のために何を送ってきたのかは分からないが、あいつが開けるな、というのなら開けないでおこう。送られてきた当時はそう思い、その箱に対する興味を失うと押し入れにしまいこんだ。……おれが眠っているとき、箱がときどき、かた、かた、と音を立てていた気がしたが、気のせいだろうと思いそのときは放置していた。
それからおれはその箱のことを一時忘れて過ごしていたが、それからほんの二日後、あいつがとんでもない事件に巻き込まれたことを知ったとき、その箱に対する興味が首をもたげてきたのは自然なことだと思う。
あの箱の中身は一体なんだ? ひょっとして、事件に関係しているものじゃないのか? 重要な証拠か、事件の鍵となる何かが入っているのでは? ときどき、かたかた音がして箱の中のものが動いているような気がするのも気になる。まさか生き物が入ってることはあるまいが、一体なんだ?
箱の中を覗きこもうとしても、隙間なく閉じられたその箱を開けることは出来ない。何度振ってみても、カタカタと音を立てるだけで、一体中に何が入っているのか窺い知ることはできない。
……この箱をおれが持っているせいで、おれが事件に巻き込まれるという可能性はないだろうか。あの事件は、この箱の中の何かを探しに来た誰か……第三者によって引き起こされた事件で、両親が殺し合いをした形跡はその第三者による偽装だという可能性。あの両親が殺し合いをした可能性よりも、そう考えた方がしっくりくる気がした。この箱の中身が、自分の身を危険に晒しかねない可能性がある以上、おれはこの箱の中身を確かめておくべきだ。そして、必要に応じて警察に提出することも考えなければならない。
……いや、これは言い訳だ。おれは単にこの箱の中身を知りたいという欲求に抗えないだけだ。事件との関連性。事件を予期していた(?)あいつが隠したかった何か。それは一体何なのか。好奇心に勝てなかったのだ。おれの退屈な人生を紛らわせるだけの価値ある何かがここには眠っている気がした。
四桁のナンバーロック。計算してみる。
フェルミ推定と呼べるほどのものではない。ほぼ全ての条件が出揃っている。
組み合わせは言うまでもなく十の四乗で一万通り。0000から順番に確かめていくとすれば、一通りを試すのに二秒……おそらく二秒はかからないだろうが、二秒と仮定しておこう。二秒が一万通りなので、全てのパターンを試すのに掛かる時間は二万秒。約三百三十三分。五時間半といったところか。一日三十分ほど試せば十日ほどで解除できる計算だ。
その日からおれは、暇を見つけては箱を開けるためにナンバーロックの解除を試みることとなった。我ながらあまり頭の良い方法ではないと自覚しているが、あいつの個人情報から考えられる組み合わせは最初に試している。鍵を破壊することも考えたが、もしも箱の中身があいつが個人的に隠したいだけの何かだった場合、中身を見てしまったという事実を隠せなくなってしまう。
そして今日。今。解除を試みてから六日目。
鍵のナンバーが7423を表示したところで、かちり、と音を立ててロックが解除された。おれは心地良い達成感と喜びに包まれながら、大きくため息をつくと指先で南京錠を外して机の上に置く。
俺は震える手で、箱の蓋を開ける。
ようやくだ。ようやくこの箱の中身を知ることが出来る。
まるで箱の中の何かに誘惑されている気さえした。
封印されていた箱がゆっくりと開かれていき、その中身が光と空気にさらされる。
そしてその箱に入っていたものは。
「……ん? これは……?」
なんだ、これ。
なんでこんなものをあいつは俺に――?
・・・・・・・・・
その日の放課後。私と葉山君は二人で帰り道を歩いていた。ももちゃんや鹿井君は部活動があるので、一緒には帰らない。葉山君がどこに住んでいるのかは知らないけれど、とりあえず駅までの帰り道は一緒だった。
「あ、そういえばこの道、前に私が攫われた道ですね」
その道は知る人ぞ知る駅までの近道だけれども、人通りが少なく細い路地であり、あんまり通る生徒はいなかった。暗い時間は危なくもある。
……実際にこの前は危ない目にあってしまったし、一人で通るのは私も避けているのだけれど、今日は葉山君がいるから大丈夫。
「そういえばそんなこともあったな。一般人にスタンガンとか、あいつらとんでもねえことしやがる」
まだそれほど前の話ではないのだけれど、葉山君は懐かしそうにポケットに手を入れて歩きながら言う。
「どうして葉山君の組織は本部の場所を知られたくないんですか?」
葉山君の勤めている組織……会社? アドミニストレーターズ、だっけ。場所を一般人には知らせないって、まるで悪の秘密結社みたいだ。
私は一度その組織の中に連れられて行ったことがあるのだけれど、建物の中ではほぼ目隠しをされていたし、外に出て車に乗せられたときも車を下りるまでそのままだったので、あの場所が一体どこにあったのか見当もつかない。
「そりゃお前、やばいものがたくさんあるからだよ。捕獲したアドミ本体とか、調査中のアドミの実験室とか、外に出せない一次接触者の成れの果てとか、誰も立ち入れない謎のコールドスリープ装置がある部屋とか……」
「ソウジ、あまり組織の内情を一般人に暴露するものではない」
……と、葉山君がアドミニストレーターズ内部の果たして言ってしまっていいのかどうか分からないような秘密を指折り数えて話し始めたとき。
背後から誰かに葉山君が声を掛けられて、私と葉山君は同時に後ろを振り向く。
「いくら自分の女と隠し事なしの関係を約束していたとしても、お互いの良い関係のために言わない方がいい秘密もある」
後ろを振り向くと、そこには半分が白く染まった髪の毛をオールバックにした大男……身長百九十センチくらいはありそうな四十歳くらいの男の人が仁王立ちしていた。顔の彫が深くて、顎と口にたっぷりと灰色の髭を蓄えていて、まるで外国人みたい……あれ、よく見ると目の色もちょっと青みがかっているような……ハーフ?
「自分の女じゃねえし。前の案件で知り合った二次接触者だよ。あんた何しに来た?」
「組織と女には隠し事が山ほどあるものだ。それは周知の事実だが暴き立てるのは野暮な行為だ」
「話聞けよ。つーか、男には秘密が少ないのかよ?」
「秘密が多い男もいる。左手の薬指に拘束具が嵌められている類の男がそれだ」
まるで洋画に出てくる俳優みたいなことを言いつつ、その男の人は一歩こちらに近づいてきて、私はつい両手を胸の前に当てて身構えてしまう。どうやら葉山君の知り合いみたいだけれど、またスタンガンとか、危ないことをされるんじゃ……。
その男の人は、私が怖がった様子を察すると、両手を顔の横まで上げて無抵抗だというポーズをしたまま話を続ける。
「おっと済まない。怖がらせるつもりはない。俺は山田・ゲイリー・一郎。アドミニストレーターズの調査員で、ソウジの同僚だ。ゲイリーと呼んでくれ」
「山田と呼んでやれ」
「……えっと」
山田・ゲイリー・一郎さん。
え、こんな俳優みたいに渋い人なのにそんな名前なんだ?
「ほら、早く呼んでやれよ。一郎でもいいぞ」
「そこまでだソウジ。それ以上言うとお前は今まで払ってきた年金を無駄にすることになる」
どうやら山……ゲイリーさんは自分の名前にコンプレックスを持っているということが窺えました。その口調は怒ってはいなかったし表情は無表情のままだったけれど、若干の嫌悪感が見えた……気がする。
ていうか年金って未成年でも払うんだっけ? それともお給料もらってる人は勝手に引かれちゃうのかな。
「無駄に出来るものならしてほしいもんだ。あんたも人の三倍の年金払って大変そうだな」
「貰える額も期間も三倍になると思えばそう悪いことではない。もっとも、制度崩壊まで貰えるお前には両方とも劣るが」
二人は何やら皮肉めいた会話をしていたけれど、私には何を言っているのかさっぱり分からなかった。
「えーっと、それでゲイリーさん?」
話がなかなか進まなかったので、私は二人の間に入ってゲイリーさんの名前を言う。
「それでいい、ガール」
「葉山君にご用事なんですよね。私はお邪魔でしょうから、先に行きますね?」
ちゃんとゲイリーさんと呼ばれてご満悦なゲイリーさんを尻目に、私はそそくさと先に駅に向かおうとした……けれど。
「待つんだガール。君も一緒に話を聞いていけ」
「おい待てよ、仕事の話じゃねえのかよ」
私の言いたいことを葉山君が言ってくれたので、私は黙って再び二人の方を振りむく。私にも何か用事があるのだろうか。
「お前だけに用事なら俺はこんなクソの掃きだめのような路地裏でお前たちを捕まえたりはしない」
……まるで今立っているこの場所を治安の悪いスラム街の裏道みたいに表現するゲイリーさん。確かにちょっと薄暗い通りだけど、明らかに言い過ぎですよ?
「新たなアドミの存在場所を特定した。定形無機非生物の非自発的行動型と思われる。既に接触者の確認も取れている」
そう言いながらゲイリーさんはジャケットの胸ポケットから手帳を取り出してページを破り始めた。
「葉山調査員は速やかに接触者とコンタクトを取り、アドミを確保せよ……と、親愛なる我らがドン、伊達局長からの伝言だ。確かに伝えたぞ。これが接触者の連絡先だ。接触者の名前は蘇我久臣。二十歳の大学生だ」
そして、切り取ったその手帳のページを葉山君に手渡した。
伊達局長、っていうのは、この前本部で会った、葉山君の上司みたいな人のことかな……?
「新しいアドミはあの緑市の殺人事件と関わってるんじゃなかったのか?」
「そうだ。一人生き残っている大学生の被害者が、その接触者に宅急便で対象アドミを送ったようだ。事件直前にな」
「へぇ……なんで送ったのかも気になるが、もっと気になるのは送った後に事件が起きたことだな」
「それが今回の子猫(アドミ)のハートを掴む鍵かもしれんな」
私のことを置いてけぼりにして、二人は仕事についての話を続ける。私がここに居る意味は一体……。ていうかこんな話聞いてていいのかなあ。私、後で消されたりしないよね?
「個人的には、先にその重体の大学生と話がしたいけど、状況はどうなってる?」
「命に別状はなく、数日中に目覚める見込みらしい。だが、意識が戻っても後遺症が残って話せない可能性もあるようだ。別に話を聞けるまで待っても構わんぞ。伊達局長の腰が曲がり始めるまで待つ覚悟があるならな」
「……分かったよ、次の土日に直接コンタクト出来るようにするよ……またおっさんに殴られるのは俺も嫌だからな」
「お前がマゾヒストではなくて一安心だ。今回は緑警察署の関係機関だと名乗れ。裏を取られても大丈夫なように根回ししておいた。委任状はお前の自宅に今日明日に届くだろう」
「緑警察署ね……了解。で、四条がここに居る理由はなんだ?」
黙り込んでカカシのように二人の話を聞いていた私に、ようやく話の矛先が向いた。
「伝え忘れていた。接触者とコンタクトするときは、ガールも同席させろ」
「は⁉」
「へ⁉」
葉山君と私の驚きの声が思わずハモってしまった。
「ああ、無理にとは言わないし、無論、それなりの報酬は出す。どうだ?」
ゲイリーさんは無表情のまま私にそんな提案をしてくる。この人、さっきからずっと無表情だから感情の変化が見えないんだよね。
「ちょっと待て。どうして四条を同席させる必要がある?」
「お前ひとりだと怪しくて話が上手くいかない可能性が高い。高度で複雑な人間心理の問題は坊やには分からないかもしれないが」
「あんたみたいなおっさんに若者の心理が分かるとも思えないがな。……第一、同席が必要ならあんたがすりゃいいだろ」
「俺が? 俺がお前と一緒に接触者と会うだと? なんだ、拷問をするつもりだったのなら早く言ってくれ。喜んで同席しよう」
拷問……葉山君は少し目つきが悪いけれど、言うほど見た目は怖い人ではない。……だけど、決して愛想の良い方とも言えない。ゲイリーさんは……うん、言うまでもなく怖い。ずっと無表情だし。こんな二人が会いに来たのなら、どんな人だって第一印象で心を閉ざしてしまうというのは私にも分かる。
拷問をしに来たと思われても確かにおかしくはない。
「あんたじゃなくて鬼瓦のやつが来ればいいだろうが!」
「どうやって? 出てくるまで眠り続けろとでもいうのか。良いアイデアだ。睡眠薬を魔法の霊薬(エリクサー)代わりに使えるお前ならではのな」
葉山君は、ぐ、……みたいに苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべて反論できないでいると。ゲイリーさんは私の方を向き直り、もう一度同じことを言う。
「普通にバイトするより高額の報酬を用意すると約束しよう。どうだ?」
「やめとけ、どんな危険があるか分からねえぞ」
葉山君はそう言ったけれども、どうするかなんて考えるまでもなかった。
「分かりました。私にお手伝いできるなら、やります」
私は自分が真剣なことを伝えるために真面目な声と表情でゲイリーさんの瞳を真っすぐに見てこくりと頷いてみせた。
「おい!」
葉山君に睨まれたけれど、私は真剣だった。
「良い目だ。ソウジ、お前は良い女を捕まえたな。では詳しい打ち合わせはソウジとしてくれ。ベッドの中でゆっくりな」
え。ベ、ベッドの中て。え? そういう意味?
いきなり恥ずかしいことを言われて思わず赤面してしまう。葉山君とは全くそういう関係じゃないから照れる必要ないですけど。ああもう、自分にあんまりそういう耐性がないのが露呈してしまう。
「ああもう、突っ込むのも面倒くせえ! その報酬の伝票はちゃんと切れるんだろうな⁉」
「さあな。執行残があったのは間違いない。お前の会計室との交渉術に期待する」
「俺がやるのかよ!」
「危険手当も追加してやれ。お前が言い出したことだ」
葉山君の突っ込みを受けながら、ゲイリーさんはゆったりとした歩調で私たちに背中を向けて手のひらをひらひら振りながら歩いていき、路地から姿を消した。
「ったく、山田の野郎は本当にしょうがねえな……」
「ふふっ」
「……何がおかしいんだよ?」
「いえ、今みたいに対等の相手と話してる葉山君は初めて見ましたから。面白くって」
葉山君はいつも私たちにはたっぷり余裕をもって……ある意味、上から接している感じがしていたけれど、今日のゲイリーさんと接していたときは対等に話をしていた気がする。
「まぁな。山田は同僚だし……」
葉山君にとって、私たちは対等な関係ではないと思われているのだろうか。それは少し悲しい話だったけれど、葉山君はこういう世界で生きているのだから仕方がないのかもしれない。
「それにしても、ゲイリーさんは面白い人ですね」
「口調がハードボイルドなマッチョみたいで対応してて疲れるけどな……ちなみに山田はあいつの教育係だぞ」
「あいつ?」
「ほら、お前の幼馴染のメンヘラの」
「え、こうちゃんの⁉」
こうちゃんが無事に退院して、アドミニストレーターズで勤め始めることを決意したのは知ってたけど、まさかあの人が教育係なんて。
「そうそう、浩平な。あいつ、精神状態やべえよな……俺に昔、会ったことあるんじゃないか、なんて言い出すしな。俺はこの街に来るのは生まれて初めてなのに」
「へー、おかしなこと言い出しますね、こうちゃん」
そう言われて、私もそう言えば葉山君と初めて話したとき、こうちゃんと似たようなことを思ったのを思い出す……まぁ、気のせいなんでしょうけど。
「あいつ山田に、モテる男の条件について持論を語られてたよ。『心に余裕を持つんだ。ビッグになれ少年。その女がお前を手放したことを後悔するくらいにな。小さいことを気にしてうじうじ昔の女に未練がましく拘ってるふにゃちん野郎に付いてくる女は金目当ての商売女だけだ』……とか言われてて思わず笑っちまったよ」
それを聞いて私も苦笑してしまう。こうちゃんから私にまたメンヘラチックなアプローチが来ることはなくなったけれど、それはあの人の指導のおかげだったのかもしれない。
「まぁ、山田達は何から何まで助けてやるほど甘くはねえから、ものになるかどうかはあくまであいつ次第だな」
「はい……」
こうちゃん。彼に私がしていたことを思い出す。思えば私はこうちゃんの成長の機会を奪い続けていた。
今思えば、私は無自覚に人を信じていなかったから……こうちゃんは自分では変われないと決めつけていたから、こうちゃんのことを助けたがっていた。でも今は、人は、こうちゃんは自分の力で変われるんだ、と信じたい。
……ていうかこうちゃんの昔の女じゃないですけどね、私は! だから手放したことを後悔したりもしませんけど!
「さて、山田の話はいいんだが、お前は何考えてんだ?」
「えっ?」
「だから、俺に付いてくる、って話だよ。アドミと接触したら何が起こるか分からないなんて、お前は嫌というほど知ってるだろ?」
「はい、知ってます。心配してくれてるんですか?」
私は少しだけ悪戯っぽく笑いながら聞いてみることにした。いつも葉山君にはやられっぱなしだけど、たまにはこのくらいの攻撃は許されると思う。
「馬鹿、巻き込まれた一般人に何かあったら寝ざめが悪いのは当たり前じゃねえか。どうして引き受けたんだ。どうなっても知らねえぞ」
残念ながら私の攻撃で葉山君をうろたえさせることは出来なかったようだけど、心配してくれていることは事実だったので嬉しかった。少しだけね。
「だって、危ないのは葉山君だって一緒ですよね?」
「もちろんそうだが、それがどうした?」
「この前みたいに、私が居るおかげで葉山君のピンチを救えることだってあるかもしれません。そう思ったら……付いていかないわけには行きません」
私が居ることでひょっとしたら葉山君が助かる可能性が上がるかもしれない。だったら、絶対についていったほうが良い。それは単純な話だった。なぜ葉山君だけがいつも命の危険を冒さなければならないのだろう? 私は納得がいかない。
「アホか……頭のネジ外れてんのか、お前。お前がいたせいでピンチになることだってあるかもしれねえだろ」
私は少し考えてから。
「確かに。そのときは助けてくださいね? 逆に葉山君がピンチのときは私が助けますから」
「馬鹿じゃねえの……」
この攻撃には、葉山君も少しはダメージを受けたみたいで。
言い返せないでため息をつく葉山君だったけれど。私は単純に嬉しかった。
私が葉山君の役に立てる機会がまた訪れたことに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます