第2部 第2章

 おととい、警察の関係者を名乗る男から電話があった。


 そのやり取りはこうだ。




『お忙しいところ恐れ入ります。私、緑警察署の関連機関に勤めている葉山と申します。蘇我さんの携帯電話でよろしいでしょうか?』


「はい、そうですが」


『今、お時間よろしいでしょうか?』


「ええ、大丈夫です」


『実はですねー、お友達の加藤祐一さんのことについて、少々お伺いしたいことがありまして……その、申し上げにくいのですが、蘇我さんは加藤さんが事件に巻き込まれた話、ご存じでしょうか?』


「ええ、もちろん」


『そうですか。お友達があんなことに巻き込まれてショックをお受けのところ恐縮なのですが、少々蘇我さんに確認したいことがありまして……』


「加藤からおれに送ってきた小包のことですか?」


『あっ、そうですそうです! 実は現場の捜査をしていたら、加藤さんが事件前日にあなたになにか宅配便を送った伝票が見つかりまして……』


「確かに送られてきました」


『その、送られてきたものについて、事件に関係があるかもしれないので、是非とも拝見させていただきたいのですが、近々ご自宅にお伺いしてもよろしいでしょうか?』


「自宅に来られるのはちょっと。どこかその辺りのファミレスとかで待ち合わせることはできませんか?」


『うーん……そうですね、あまりしないことですが、何かご事情があるということであればそうします。三丁目のダニーズでどうでしょう。明日か明後日でご都合の良い時間帯はありますか?』


「じゃあ、明後日の午後三時でお願いします」


「承知いたしました。明後日、日曜日の午後三時、ダニーズで。必ず加藤さんから送られてきたものと、あと認印で結構ですので印鑑をお持ちください。私と部下の二人で席を取っておきますのでよろしくお願いいたします」




 ……大体こんなやり取りだ。なるほど、宅配便の伝票の控えか。足がついてしまうのは当然のことだったが、特におれにやましいことは何一つない。事情を説明して、無意味な疑いを晴らすのはやぶさかではない……が。


 少し気になることがあった。


 さっきの男は「緑警察署の関係機関に勤めている」と言っていた。


 関係機関。緑警察署に勤めているわけではないのか? まるで詐欺師がよく使う「消防署の方からやってきた」という手法に似ていて多少気になった。だから自宅に招くのを拒否してファミレスを待ち合わせにしたわけだが……。土日だと両親が家に居て説明するのが面倒というのもあったが。


 それに、表示されていた相手の番号が携帯電話の番号だったのも気になる。普通は警察署の電話から掛けてくるのではないか?


 だがその後、直接緑警察署の電話番号を調べて電話で確認したところ、間違いなく葉山は我々の関係機関に勤めている者である、という言質が取れた。我々が委譲した部分についての捜査権限もあると。


 ……どういうことなのか分からなかったが、警察の関係者だということは間違いないらしい。考えすぎなのかもしれないし、後は本人に聞いてみることにしようと考えた。






 そして今日。約束の日。時間は午後二時五十五分。おれはダニーズの前にいる。


この時間帯のファミレスは空いている。店の外から中を見ると、窓際の席に男女二人組の客が居る。男は濃紺、女性はまるで就職活動で着るような黒系のスーツを着ていて並んで座っている。休日のこの時間帯のファミレスにはおよそ似つかわしくない格好だ。おそらくあの二人組だろう。


おれは店内に足早に入店すると、案内をしようとしたウエイトレスを手で制してそのまま窓際の席に向かう。


俺の接近に気付いた二人が立ち上がってお辞儀をする。




「どうも。葉山です。蘇我さんですか?」




 濃紺のピシっとしたスーツを着た男が立ちあがって俺に尋ねる。……年齢不相応に良いスーツを着ている。オーダーメイドだろうか。サイズがぴったり体格に合っている。眼鏡をかけていて髪の毛をワックスでサラリーマンらしく小奇麗にまとめて爽やかな笑顔を見せているが、何か作り物のような印象を受ける。まるで無理をしてそんな振る舞いを見せているような。……まぁ、根拠はないので、ただのおれの直観だ。


 対して、もう一人の女性は……スーツを着慣れていない感がありありと出ている。スーツに着られている、という表現はこういうときに使うのだろうな。新人だろうか。顔だちも幼く、立ち居振る舞いもぎこちないというか……何となくそわそわしている。おれより若いと言われても驚かない。




「はい、蘇我です。お待たせてしてすいません」


「いえいえ、今来たばかりです。どうぞ、座ってください。よく私たちのことが分かりましたね」




 一直線に二人の元へ向かってきたことを言っているのだろう。確かに店内には二人組の男女は他に数組居る。だが、ちゃんとこの二人が目的の相手だと思った理由はある。




「二人組なのに向かい合うんじゃなくて並んで座ってましたから。きっとおれを待ってるんだろうと思いました。言っちゃ悪いですけど、あんまり二人とも休日のファミレスには似つかわしくない格好ですし」




 おれが二人の向かいのソファに腰かけながら二人を特定した理由を述べると、葉山と名乗った男は、ぽん、とグーの横で手のひらを叩いてオーバーリアクションを取ってから言う。




「なるほど! 言われてみればそうですね。いやはや、素晴らしい観察眼です。頭良いですね、蘇我さんは」


「それほどでも」




 ……この程度のことで驚かれてもな。


 そんなことは言われ慣れているし、自分でも知っている。今更そんなことで喜ぶほど子供じゃない。少なくとも、警察の使いパシリをしているお前たちよりは頭が良いだろうな。


 おれはにこにこと微笑んでいる男と、緊張してそわそわしている女を品定めする。……やはり二人とも若い。おそらくは新人なのだろうな。高卒でおれと同い年くらいの可能性もある。




「あ、自己紹介が遅れました。私、こういうものです」




 そう言いながら、男はテーブルの上に名刺を差し出す。




「ほら、名刺……」




 葉山と名乗った男が名刺を差し出す傍らで、その様子をぼーっと眺めていた隣の女性(女性?女の子と言った方が正しいんじゃないか?)を肘で突く。




「あ、す、すいません。えっと、私、こういうものです」




 その女性は慌てて自分のポケットから名刺入れを取り出すと、隣の男に続いて名刺をテーブルの上に置く。なんだかその動作がぎこちなくて危うかったが……むしろ苛立ちよりも微笑ましさを感じてしまう所作だった。




「すいません、おれは学生なので名刺は持ち合わせていなくて」


「もちろん、存じております。お気になさらずに」




 葉山と名乗った男はにこりと微笑んでそうおれに言った。


 改めて差し出された二枚の名刺を眺める。同じ会社だからか、装丁やレイアウトは同じだった。なになに……日本ADM調査公社アドミニストレーターズ。男の方の肩書は調査一課「調査員」葉山総司。そして女性の方の肩書は調査一課「準調査員」四条汐音。


 聞いたことのない会社名だ。本当に警察の関係機関なのだろうか。




「我々は、警察から調査業務を一部委託されている公営企業でして。最近は行政も司法も、経費削減と業務効率化のために民間に業務を委託してるんですよ。ほら、違法駐車の取り締まりとか、あれやってるのも一般企業ですよ……あ、これが調査権限の委任状です」




 おれの心を読んだように言って、葉山さんは自分のバッグからクリアファイルを取り出すと「委任状」と書かれたA4サイズの用紙をテーブルの上に差し出した。そこにはおれに対する事情聴取等調査権限の全てを下記のものに委任する、という委任事項が記されていた。ちゃんと署長の公印らしきものも押されている。緑警察署への聞き取りと合わせて考えても、どうやら怪しい人間ではないようだ。


 と、考えていたところでおれのためにウエイトレスがお冷を持ってくる。




「ご注文お決まりになりましたらお呼びください」


「あ、すいません、注文いいですか?」




 と、お冷を置いたウエイトレスが一礼して去ろうとしたとき葉山さんがウエイトレスを呼び止めた。






「このミニ抹茶パフェを一つ」






 それを聞いたとき思わず口に含んでいた冷水を噴きかけた。


 ……おい。これはお茶会じゃなくて警察の事情聴取だよな?




「四条さんはどうします?」


「あ、えっと、じゃあ、私はアイスコーヒーで」


「蘇我さんはどうしますか? お好きなものをどうぞ」


「……じゃあ、おれもアイスコーヒーで」




 ウエイトレスさんは注文の復唱をすると一礼して厨房に帰っていった。




「さて、早速ですが、加藤さんのことについて、詳しくお話を聞かせてもらってもいいですか? まずはお二人のご関係ですが……」




 おれはそれからしばらくの間、自分と裕一の関係についてこの二人に話をした。と言っても、小学校からの付き合いで、高校で離れてしまったが、連絡は取りあっていてたまに遊んでいた、というような話をしただけだが。




「お待たせしました。こちらミニ抹茶パフェとコーヒーになります」




 と、その話が一区切りしたとき、ウエイトレスが先ほど注文した品物を持ってきて手際よくテーブルの上に置く。


 ウエイトレスが注文確認をして帰っていくと、葉山さんは早速そのパフェをスプーンで掬って口に運び始める。




「美味しいですか?」




 おれは少しの皮肉を込めてそう聞いてみる。




「うーん……」




 おれの言葉に葉山さんはパフェをゆっくりと咀嚼しながら頷いて。




「正直、イマイチですね。期間限定だったので頼んでみましたが、抹茶とバニラのバランスが良くない。苦味は良いのですが抹茶の風味が薄くて、これだったら普通のパフェでいいだろう、という感じですね。折角抹茶パフェを頼んだのだから、抹茶の風味と生クリームの織り成す抜群のコントラストを楽しませて欲しいところでした。それこそ、どちらを単体で食べても楽しめるし、同時に食べても楽しめるような。そもそも、抹茶と乳製品を組み合わせるという日本人特有の和洋の融合という発想には感服しますが、ただ当たった天才的アイデアを表面だけ模倣して何でもかんでも……」




 葉山さんはパフェについてイマイチという感想を述べた後、自分の抹茶パフェ論を延々と語り始める。




「あの、葉山さん、事情聴取は……」


「あっ、失礼しました! それで、加藤さんとあなたのことですが」




 熱くパフェ論を語っている葉山さんを四条さんが心配そうに止める。そして止めたあと、おれに向かって小さく申し訳なさそうに、ごめんなさい、とお辞儀をする。可愛らしい仕草だ。


 それにしてもなんなんだこいつは。きっと会社でも仕事が出来ない無能なのだろうな、と思わせるには十分な行動だった。


 ……しかもこの葉山という男、パフェが美味しくない、と言いつつも食べ続けている。その一事からもこいつの無能さが窺える。


 頼んだパフェが美味しくなかったのなら、一口で食べるのを止めればいい。こいつは今、パフェの代金だけではなく、パフェを食べる時間と摂取カロリーまで無駄にしている。


 ……まぁ、これはこの男だけじゃなくて大体のやつがこんな当然の合理的判断が出来ていないので仕方のないことだ。世の中の人間はほとんどがそうだ。まったく、馬鹿ばかりで嫌になる。




「加藤さんから先日、あなたに送られてきたものですが、お持ちいただいてますか?」


「ええ、これです」




 おれは自分のバッグから、裕一から送られてきた、ずしりと重い頑丈な金属の箱を取り出してテーブルの上に置く。南京錠はこの間外したが、とりあえずまた戻しておいた。




「これは……箱、ですね」


「この箱が送られてくる前日、加藤からLINEで連絡が来ました。これです」




 おれはスマホの画面を操作すると、その画面を開いてテーブルの上に置き、葉山さんに見せる。そこには『お前の家に箱を送った 俺が取りに行くまで絶対に中を開けるな 中の物に触るな』という三行の簡素な文章が書かれている。


 四条さんはその文章を見ると、一生懸命手帳にメモしていた。




「なるほど。……ちなみに、中身は確認されていない、ということでよろしいでしょうか?」


「いえ、確認しました」




 まだ開けていない、と嘘をつく選択肢もあったが、そうするとこの箱ごと警察に押収されてしまう可能性が高い。裕一のLINEに「誰にも渡すな」という文言はなかったが、ここで警察に押収されてしまうことを裕一はよしとはしないだろう。


 いや、まぁ、そもそもこの箱の中身のものは、大事に手元に置いておきたいようなものではないはずだが……。




「ほう、もう中身を見られているんですね」


「ええ。だけど、これは事件には何の関係もないものだと思いますよ」


「中には何が?」


「見てもらった方が早いですね」




 おれは箱についているナンバーロックを手早く解除する。ナンバーは7423。もちろん記憶している。


 ピン、と音が鳴って南京錠が開くと、南京錠を回して鍵を外す。そして久方ぶりに箱の中身を外の明かりに照らす。




「これは……石? ですか?」


「そうです、ただの石コロですよ」




 箱の中に入っていたものは、ただの石コロ。ガチャガチャから排出されるような透明のカプセルに入っているが、わざわざカプセルから中を取り出すまでもない。直径は十センチ程度で、角はなく、いびつな球形をしている。河原に行けばいくらでも転がっているようなただの黒っぽい灰色の石コロ。


 加藤は頭がおかしくなっていたのだろうか。そんなものを俺に送ってきたのだ。




「ふむ……手に取ってみても?」


「どうぞ」




 葉山さんはそのカプセルを手に取ると、色々な方向からカプセル越しにその石を眺める。振ってみたり、下からのぞき込んだりしているが……何もおかしな部分は見受けられないはずだ。おれだって散々調べてみた後だ。




「確かに、どう見てもただの石にしか見えませんね」




 葉山さんは十分にその石コロを調べたのだろう。カプセルを箱の中に戻してから言った。




「そうなんですよ。どうしてあいつはこんなものを送って来たのか、さっぱり分かりません」


「うーん、何か事件に関係がありそうなものだったら参考物件として押収させていただこうと思っていたのですが……全く関係ないものとなると、そういうわけにもいきませんね」


「はぁ」




 それは確かにそうだろうが、それが一体どうしたというのだろうか。




「仕方ない。単刀直入に言いましょう。この石を私どもに譲っていただけませんか?」


「え?」


「もちろん、無料で、とは言いませんよ」




 ちょっと待て。その話はおかしくないか。色々とツッコミどころの多い話だ。




「いやそれは……おかしくないですか? ただの石ですよ?」


「カプセルを開けて中身の石を詳細に調べれば、何かが分かるかもしれない。調べる価値はある、と当方は判断しました」


「警察がこの石を現金で買い取るんですか?」


「その石が事件と無関係であることが判明したので、この事情聴取は終了しました。警察にも加藤祐一さんから蘇我さんに送られた品物は、事件とは無関係の品だったと報告します。ここから先は我々『アドミニストレーターズ』からの提案です。警察ではなく、我々が石を買い取ります」




 葉山さんがにこりと微笑みながらそう言っている間、四条さんはカメラでぱしゃりぱしゃりとその石コロを色んなアングルから撮影していた。




「いやでも、友人から送られてきた品ですし、そう簡単には……」




 おれにも信義というものがある。金を積まれても、親友から送られてきたものをそう簡単に売るわけにはいかない。




「ふむ、ではこうしましょう。加藤さんの意識が戻ってあなたに石の返却を求めた場合、私どもは速やかに加藤さんに石を返却します。それでいかがでしょうか? 無論、石の代金をあなたから返してもらうこともいたしません。レンタル料、とでも思って頂ければ」




 必要ならば契約書も書きますよ? と爽やかな笑顔を見せながら言う葉山さん。


 なんだこの人。さっきまでは無能に見えていたが、淀みなく冷静にこちらの逃げ道を塞いでくるこの感じ、やり手の交渉人に思えてくる。断る理由が見つからなくなってくる。


 ……落ち着け。冷静に考えておれがこいつらに石を売るメリットはほとんどない。少しばかりの金を得られるだけだ。そんな取引をして裕一との友情を損なってしまう可能性を考えれば、長期的に見て売らない方が得というのは間違いない。……そもそもこいつらが裕一にちゃんと石を返却する保証はないしな。


 それに……なんとなく、この目の前の男が気に入らない、というのもあった。




「どうでしょう。言い値で買い取りますが」


「百万円なら売りますよ。びた一文まけません」




 おれは目の前のこの男を諦めさせるためにそう豪語した。




 百万円。




 どう考えてもこの石に払える値段ではあるまい。これは金額の提示ではなく「この石を売る気はない」というおれの意思表示だ。石だけにな。


 無能なサラリーマンのくせに、おれのことを少しでもたじろがせた罰だ。せいぜい必死こいて困り顔で惨めに値下げ交渉でもしてみせろ。おれは絶対に応じる気はないがな。


 おれの百万円という言葉を聞いた葉山さんは、にこやかな表情を変えずに、席に置いたバッグの中身を何やらごそごそと探し始めて。そこから取り出した何かを、机の上に置いた。何か。紙の、厚い束。おいおい、これって、まさか。






「――百万円です。どうぞ、ご確認ください」






 机に置かれた紙の束は、一万円の札束だった。


 頭がくらくらする。目が飛び出るかと思った。まさか、本当に、苦も無く百万円を出してくるとは。


 いったい何者なんだこいつらは。だってこれはただの石コロだぞ?


 これに百万円の価値があると、一体どうやったら判断できるんだ?




「ちょ、葉山く……さん、ここ、ファミレスですよ。しまって、しまって……」




 四条さんが百万円をテーブルの上に置いた葉山さんにあせって、その百万円をしまわせようとするが、葉山さんは笑顔のままそれを手で制しておれの方に差し出す。




「これ、本物かどうか確認しても……?」


「もちろん。何なら今からATMに何枚か持って行って実際に振り込めるか確認していただいても構いませんよ」




 なんという自信。震える手で無作為に何枚か一万円札を取り出して透かしなどを確認してみるが……本物にしか思えない。おれは素人だが、これはまず間違いなく本物の百万円なのだろう。




 屈辱。




 こいつに石を諦めさせるというおれの目論見は失敗し、目の前の男は余裕の表情のまま交渉を成功させようとしている。そもそも、おれはただ、目の前での余裕の笑顔を見せている男にみっともなく値下げ交渉をさせて、それをすげなく断るという快感を得たかっただけだ。百万円など出せるはずがないと、高を括ってしまったのがまず間違いだった。おれは、いいようにこいつにやられてしまったというのか。




「それでは、この石は頂きますね。加藤さんから返却のご要望があった場合は、その名刺の番号に……」


「ちょ、ちょっと待ってください」


「まだ何か?」


「やっぱり二百万円じゃ……駄目ですか?」




 ……自分が格好悪いことを言っているのは分かっている。別に金が欲しいわけじゃない。だが、最後の抵抗くらいはさせてくれ。


 葉山さんはおれの言葉をどう解釈したのかは分からないが、笑顔のまま鞄の中を再び漁ると、もう一つの札束を元々の百万円の上に乗せた。


 机の上の紙の束が二倍の厚みになる。二百万円。なんなんだこいつは? 造作もなく札束を積み上げるこいつに不気味な何かを感じる。




「じゃあ、二百万円で――と言いたいところですが。それは通りませんよ」




 そう言うと、葉山さんは机の上に重ねた百万円の札束を一つ、鞄の中にしまった。




「だって、それが許されるのなら、あなたは限度額まで値段を吊り上げることが出来てしまう。最初から二百万円と言ってくれればその値段で買いましたけど」




 あなたはチャンスを逃しました。


 と、葉山さんは少し意地悪そうに呟いた。……今、この男の本性を垣間見た気がする。


 く、さらに恥の上塗りをした形になってしまった。


……だが、仕方がない。葉山さんの言っていることは悔しいが正論だ。石を百万で売ると言ったのはおれだしな。金額を提示したにも関わらず、やっぱり売らないというのは信義にもとる。それに、さらに冷静に考えれば、この石コロを売って百万円という大学生にとって法外な金額が手に入るのならば全く悪い話ではない。それは、裕一がこの石コロを返して欲しいと言ってきたときに、もしこいつらが返さなかったとしても、だ。その場合は裕一に百万円のうち三十万円ほど渡してやればおそらく丸く収まるだろう。この石が何だか分からないが、その金でもっと良い石を探してもらえばいい。


 リスクを補って余りあるリターンがおれにはある。


 少しの金額で売るならデメリットの方が上回ったが、百万円となれば話は別だ。売りたくないのはただのおれのプライドの問題であり、売ってしまった方が明らかに利得は上回る。




「……分かりました。売りましょう。ただし、中身だけでいいですよね?」


「ええ、それでも構いませんよ」




 最後に少しだけ抵抗を見せて。


 透明なカプセルを開けて中の石を指先で摘まみ上げる……その瞬間におれは思い出した。






 そういえば、中のものに触るな、って裕一は言ってたな。






 ……その石を摘まんだ瞬間だった。


 おれの身体に電撃が流れたような衝撃が走った。


 ……何だったんだ、今のは。この「石」のせいか? この「石」……。




「…………」




 指先で摘まんだ「石」を、目の前に持ってきて間近で眺めてみる。


 なんて……なんて美しい「石」なんだ。色合い、形、光彩、匂い、手触り、全てが完璧だ。ひとかけらも手を加える余地がないし、何か削っていい要素もない。これほど美しいものがこの世にあったとは。どうしておれはこの「石」の素晴らしさに今まで気付かなかったんだ?




「あの、蘇我さん?」




 「石」を眺めていたおれのことを邪魔するように葉山さんに声を掛けられる。


 「石」に見惚れてしまって目の前の葉山さんを放っておいてしまった。この「石」を葉山さんに渡さないと……この「石」を、葉山さんに、渡す……?


 ……何を言ってるんだ。この「石」をたった百万円で売るだって? 馬鹿を言うな。この「石」にはもっともっと価値があるに決まってる。一億円だって売る気はない。売っていいわけはない。




「あー……すいません、やっぱり売るのやめます」


「は?」




 約束とか信条とか信義とか、そんな自己満足でしかない概念は、この「石」の魅力の前ではどうでもよくなった。なぜおれがこの「石」を売らなければならないんだ?




「すいませんね、本当に。失礼します」




 おれはそれだけ言うと「石」を持って立ち上がり足早にレストランを後にした。背中から何か呼び止める声が聞こえた気がしたが、もう今まで話してたあいつらのことなんでどうでもいい。おれは駆け足で家路を駆けていく。


 おれは馬鹿だった。なんでおれは今までこの「石」の価値に気付かなかったんだ。


 もっと早くちゃんと見てやればよかった。もっと早くちゃんと愛でてやればよかった。今は早く家に帰って、ちゃんとこの「石」を眺めてやりたい。あらゆる方向から見て、触って、抱きしめて、匂いを嗅いで、キスして、舐めて、味わって、写真を撮って、動画を撮って、一緒に眠りたい。もうひと時もこの「石」と離れることなど考えられない。


 加藤が絶対に中を開けるなと言うわけだ。こんな素晴らしいものなら独占したがる気持ちは分かる。だけど今からこれはおれのものだ。おれだけのものだ。


 おれはようやく自分の生きる意味を知った。


 おれは、この「石」に出会うために生まれてきたんだ。






・・・・・・・・・






 ダニーズ店内。


 二人取り残されてしまった私たちは呆然としていた。


 いきなり人間が豹変したようにお店から駆け出して逃げるように立ち去ってしまった蘇我さんを追いかけるでもなく、その背中を見送って私たちはいつまでもそちらの方を向いていた。




「な、なんだったんでしょう。いきなり豹変しましたね」


「ああ」




 もう、石を譲ってくれる寸前のところまで行っていたのに。一体なぜ、あんなことになってしまったんだろう。




「お前の演技が下手だったのがダメだったのかもな……この大根役者が」


 葉山君はそんなことを言いながら私の頭をぽすん、と叩く。


「もー、そんなこと言ったってしょうがないじゃないですか。一日で社会人のマナーをマスターしろなんて無茶ですよう。ていうか、それを言うなら抹茶パフェ頼む方がおかしいと思うんですけど。私、止めた方がいいのか迷いましたもん」




 自分の叩かれた頭を押さえながら葉山君に反撃をする。私がわたわたしてしまって、上手く社会人みたいに振舞えていなかったのは事実だけれども、多分、こういう席で抹茶パフェを頼むのはないんじゃないでしょうか。




「馬鹿、あれはわざとだよ。ああいう隙みたいなものを見せることで相手が油断するんだ。決して期間限定の抹茶パフェが気になったわけじゃねえ」


「本当かなあ……」




 それにしては抹茶パフェの味について異常ともいえる拘りを発揮してた気がするけれど(流石にあれは止めました)。


 この人の食への拘り方はなんなんでしょう。ただ単に葉山君は甘いものが好きなスイーツ男子かと思っていたけど、どうやらそれだけではないみたいで。




「まあ、冗談は置いといて……どうやらあれがあの石のアドミたる所以なのかもしれねえな」


「何が起こったんでしょうね……」




あの石に直接触れた瞬間、あの人はいきなりぼーっとし始めて、態度が豹変した。




「あいつに何が起こったのかは分からねえが……あの石に直接触れることが何らかのトリガーになってるのかもな」




 なんとなく、じーっと葉山君のことを眺めてみる。




「なんだよ?」


「いえ、眼鏡男子だなあ、って。こういう真面目なフリも出来るんですね」




 今はもう、すっかり普段の偉そうな葉山君の喋り方に戻ったけれど、さっきまでの葉山君はなんかこう……気持ち悪かったです、うん。




「フリとかじゃねえよ。TPOによって態度を使い分けてるだけだ」




 葉山君は伊達眼鏡を外しながら面倒くさそうに言う。




「はー、TPO?」


「お前だって友達と話すときと怖い先生と話すときじゃ、口調も対応も違うだろ? そういうもんだよ」


「あー、なるほど……」




 確かに、言われてみれば私だって無意識のうちにそういう使い分けはしているし、誰だってしているはずだ。




「さて、ここで待っててもしょうがねえし、とりあえず出るか」


「はい。そうしましょう」




 私は残っていたアイスコーヒーを一息に飲むと(にが……)、残された石の入っていた箱やお金をバッグにしまって、立ち上がってレジに向かう葉山君に続く。




「えっと、このスーツってどうしましょう」




 レジを済ませてお店の外に出るときに私は尋ねる。このスーツは昨日、葉山君に買ってもらったものなので、私の物ではないのです。


ちなみにコーヒー代は奢ってもらってしまった。自分の分は払いたかったんだけど。




「あ? お前、俺がそのスーツを返せとかその分の金は後で払えとか言うと思ってんのか? やるよ、そんなもん」




 私たちはお店を出て、公道を歩きながら話す。




「でも、高いものですし。悪いですよ」




 スーツの上下だけならともかく、今日のためにワイシャツ、ヒール、バッグ、髪留めまで買ってもらってしまった。……このたった三十分の事情聴取のために。


 葉山君は何しろ凝り性で、やるからには徹底的にやるタイプだから昨日の特訓は大変でした……。その話は機会があればいずれ。




「多分必要経費でどうにかなるから安心しろ。俺の懐は痛まねえ」


「そうなんですか。それなら……」




 と、お店を出て二人で道を歩いて話しているときに、葉山君のスマホが振動し始める。


 葉山君はスマホを操作すると、耳元にスマホを当てて通話を始める。




「もしもし? どうした、今日も山田か」




 ……どうやら先日のゲイリーさんからの電話みたいで。葉山君は軽口を叩く。




「その臭い口を閉じろて。なんで電話で分かるんだよそんなこと。――あー、事情聴取は終わったが、すまん、確保は失敗した。この案件は長期戦になるかもしれねえ」




 そう言って葉山君は何かゲイリーさんの言葉を聞きながら私の方を振り向きつつ言う。




「四条? ああ、居るよ。……なんで? まぁ、別にいいけどよ」




 葉山君はそう言いながら、スマホの通話をスピーカーへと変えて。相手の声を私にも聞こえるようにしてくれた。




『お疲れ様、ガール。初体験はどうだった?』


「緊張しました。勉強不足だったし、こんなやり方で大丈夫なのかな、って、すごくドキドキしてました。あと、こんな格好するの初めてだからすごく恥ずかしくって」


『それでいい。初体験はみんなそういうものだ。大人の階段を一つ登ったな。最初は恥ずかしかったり痛かったりするが、慣れてきて上手くできるようになると段々と快感に変わってくる』


「……お前ら、バイトの話してるんだよな? 痛いってなんだ? 心が痛いのか?」




 ……? 葉山君は一体何を言ってるんでしょう。




『ガールの初体験の楽しそうな話はあとでゆっくり聞かせてもらおう。……ソウジ、局長の腰が曲がるまで待つ必要はなくなった。ハリー・ポッター(生き残った男の子)がお目覚めだ』




 …………?


 私にはそれがどういう意味かすぐにはよく分からなかったけど、葉山君はすぐに合点がいったようで返事をする。




「なるほどな。連絡ありがとう、ヴォルデモート(名前を呼んではいけないあの人)」








 ……その後、私たちのところにすぐにゲイリーさんが車で迎えに来てくれて。


 私たちはその足で隣の県の病院に向かうことになった。


 さっきの話はつまり、例の殺人事件の生き残りの子……蘇我さんに箱を送った加藤さんが目覚めた、という話だったらしい。


 加藤さんのケガは重く、あまり長時間話せる状態ではないけれど、加藤さんは一刻も早く何かを誰かに伝えたい、ということを主張しているらしい。だけど、医師や看護師にはどうも要領を得ないことしか伝えられていないと。


 お医者さんはそれはまだ脳の機能と言語機能が回復していないからだ、と判断したらしいけど、私……私たちにはぴんときた。加藤さんはきっと、アドミのことを誰かに伝えたいのだ。だけどアドミの情報は二次接触者以上の人にしか伝えられない。だから病院の人や警察に伝えられずしどろもどろになっているのだろう、と。


 私たちは警察の関係者を名乗って、特別に加藤さんと面会をさせてもらうこととなった。ただし、あまり大人数はまずいので、葉山君と私の二人だけ。どうして葉山君とゲイリーさんじゃないんですか? と聞いたら「この案件の担当はソウジだし、ガールが聞いておいた方が後々役に立つこともあるだろうからな」と言っていた。後々ってどういうことだろう。


 葉山君と二人、医師に案内されて病室の前のドアに立つ。


部屋に入る前に初老の医師に、十五分間だけ。あまり患者を興奮させないこと。容体が急変したらナースコールをすぐに押すように、という注意を受けて、私たちは病室の中に入る。




「失礼します」




 葉山君は病室に入る前に再び伊達眼鏡をかけてからそう言うと、個室のベッドに横たわっている加藤さんに近づいていく。私もその後ろについていく。




「こんにちは。私、警察関係者の葉山と言います。こちらは四条。こんな状況なのに申し訳ありません。しかし、至急話したいことがあるということなので、お伺いしました」




 私は葉山さんに紹介されると、ぺこりと頭を下げた。




「………………」




 ベッドの上で頭に包帯をぐるぐる巻きにされている男性は、横を向いて葉山さんのことを品定めするように見ると、口を開くべきかどうか慎重に考えているようだった。


 それはそうだろう。もしアドミのことを説明しようとすると、そのことを忘れてしまうかもしれない。忘れたことすら忘れてしまう。あの無力感は辛かった。私もよく覚えている。




「単刀直入に聞きましょう。あなたが話したいのは、蘇我さんに送った石についてですね?」


「そ、そう、です。あの「石」、「石」、は、どうなりまし、たか」




 加藤さんは葉山さんの言葉に寝たままこくこくと大きく頷くと、言葉を話すのも辛そうにしながら痛々しく話し始める。




「落ち着いて。ゆっくり話してください。ああ、私たちにはその話が出来るのでご安心を」








 ……面会終了後。


 私たちは病院の廊下の床をコツコツと音を立てながら歩いていた。うう、ヒールって歩きづらい。葉山君、もうちょっとゆっくり歩いてくれればいいのに。


 加藤さんは呂律があまり回らない状態だったので聞き取りをするのが難しかった。けれど、話をする辛さよりも、話を早く伝えなければならない義務感の方が勝っていたようで、一生懸命私たちに知っていることを伝えてくれた。その話を要約するとこうだ。




 先々週、父親が飼い犬を散歩させているとき、その犬が公園の草むらかどこかから「石」を咥えて持ってきた。普段からその犬は何か変なものを咥えてくることが多々あったが、すぐに興味を失ってその辺りに捨てていたので、いつものようにそんな行動も放っておいた……が、その「石」については少々様子が違っていた。散歩中に「石」を咥えて持ってきたまま、離そうとしない。散歩が終わって家に帰っても、ずっとだ。ただの石だし、別に放っておけばいいとしばらく父親は思っていたようだが、その犬はいつまでも「石」を咥えてずっと離さなかった。食事中や水を飲むときは離すこともあったが、それが終わればまた「石」を咥えて離さない。


 そんな状態が一日も続けば、流石に異常だと思い、父親は犬から「石」を無理やり取り上げようとした。犬は抵抗したが、流石に人間の本気には勝てずに父親は犬の口から「石」を取り上げた。


……その時から、父親の様子が一変してしまった。


今度は父親が「石」の虜となってしまったのだ。父親はそれから仕事にも行かず、食事もろくに取らずに、暇さえあれば「石」を触って眺めていた。一体何が起こっているのか分からずに家族は困惑していた。……家の外に居た犬は、昼夜を問わずにずっと家の父親の部屋を見上げて吠え続けていた。まるで「石」を返せ、と主張するかのように。


 やがて父親は、その犬のうるささに辟易したのか、まるで敵を排除するかのように犬のことをバットで殴りつけて大人しくさせた。……とても可愛がっていたはずの自分の愛犬をバットで容赦なく殴りつけた父親の異常な行動に中学生の妹は大泣きし、大問題となった。犬は動物病院に運ばれ治療を受けたので軽傷で済んだが、もう家族は全員、あの「石」のせいで父親がおかしくなったことを何となく理解していた。自分たち家族は三人で父親の部屋に押し入り、なんでそんなただの石コロが大事なのかと問い詰めた。父親は俺たちが自分から「石」を取り上げるつもりなのだと解釈し、ろくに話も聞かずに半狂乱になった。暴れる父親を俺が取り押さえてその間に母親と妹がその「石」を取り上げた。そして、その「石」をどこかその辺りに捨ててくる予定だった。


だが、その予定が叶うことはなかった。


母親と妹がその「石」に触った瞬間、二人もその「石」の虜となってしまったからだ。三人は、「石」の素晴らしさを共有し、語りあい、褒め称え、三人でキッチンのテーブルに「石」を置いて、ずっと三人で触ったり眺めたりして、恍惚の表情を浮かべながら至福の時を過ごしていた……いや、その至福は本人たちにとってだけであり、傍から見ていた俺にとっては悪夢に他ならなかった。何しろ三人は、学校にも会社にも行かず、家事もせず、風呂も入らずにずっとその「石」を眺めているのだ。夜になれば少しの睡眠をとって、それ以外の時間の全てをその「石」を眺めて触れることに費やしていた。放っておけば食事もとらなかったかもしれない。


俺はそのときに確信した。どういう原理が働いているのかは知る由もないが、「石」に触れてしまったら最後、「石」に心を囚われてしまうのだということに。


このままではいけない。いいわけがない。そもそもあのままでは三人は衰弱死してしまうかもしれない。俺は病院に今の状況を相談しようとしたが、どうしてもそれは出来なかった。物理的にできなかったのだ。何度も病院に行って説明しようとしたのだが、説明する直前でそのことを忘れてしまう。救急車を呼ぼうとしても同じで、何度やっても救急隊員にそのことを伝えられず、俺はすっかりイタズラ電話の常連という扱いになってしまった。……誰にも相談できない。俺は途方にくれたが、結局は自分でどうにかするしかないのだと悟った。


とりあえず、三人からあの「石」を遠ざけるしかない。だが、どこかに捨ててくるわけにはいかない。誰かがまたその「石」を拾ってしまったらまた同じような悲劇が繰り返されてしまう。俺は迷った挙句、「石」をとりあえず友人の家に預けることにした。俺の一番の親友で、知る限りもっとも頭の良い男、蘇我久臣。


俺は河原から出来るだけあの「石」に似た形状の石を見つけてくると、夜、キッチンで三人が眠っている間にその「石」を拾ってきたただの石とすり替えた。直接触れるのはまずいと分かっていたので軍手をしてその「石」に触れたが、その「石」の虜となることはなく、ほっとした。


そして俺は家に転がっていた透明なカプセルにその「石」を入れると、夜中の内に家を飛び出した。深夜までやっているディスカウントショップで手ごろで頑丈そうな箱を買い、南京錠で封をすると、深夜零時まで営業している中央集荷郵便局で「石」をその箱ごと久臣の家に送った。そして蘇我にLINEを送り、箱をしばらく保管しておくように伝えた。


 ……そして家に帰ると、恐ろしいことが起きていた。


 テーブルの上に乗っている石が本物の「石」でないことはどうやら三人には一瞬で分かったらしい。深夜零時を超えていたにも関わらず、三人は近所に響き渡る大声でケンカをしていた。ふざけるな、あの「石」をどこへやった。お前が一人占めする気なのだろう、私じゃない。そんなことするはずないじゃない。私も違うよ。お父さんがどこかにやったんじゃないの。など、不毛な言い争いが延々と繰り広げられていた。


 俺はどうすればいいのか分からず、とりあえず三人に落ち着くように言った。……とても俺に事実を伝える勇気はなかった。事実を伝えたら、この三人の怒りの矛先は全て俺に向いてくる。そうなって無事に済むとはとても思えなかった。


 ……どこで俺は選択を間違えたのだろう。どうしてこんなことになってしまったんだろう。俺は悔やんでも悔やみきれなかった。




 そこから先については、新聞記事に載っていた通りの話でした。口論の末、まず父親が妹さんを殺害し、それを見て逃げ出した母親の背中に包丁を突き立てます。そして、父親は加藤祐一さんに「石」の在処を知らないかを尋ねます。言い淀んで黙り込んでしまった裕一さんのことを問い詰めている父親を、まだ息の合った母親が背後から家にあったハンマーで撲殺。


 そして裕一さんは自分の引き起こしてしまった事態の重さに耐えかねて、母親に「石」を隠したのは自分だ、と懺悔すると、カッとなった母親に鈍器で頭を殴られてしまった……とのことです。……そしてその後、母親は出血多量で死亡。




 ……なんていうか、重い話です。重くて怖い話です。本当にあった重くて怖い話。


 十五分の話の約束は三十分まで延び、私たちはお医者さんに怒られて病室を逃げるように飛び出しました。「石」についてはどうにかする、と葉山君は病室を出る前に蘇我さんに約束していたけれど……蘇我さんが既に「石」に触れてしまったことについては言いませんでした。


 ……直接触ると絶対に虜になってしまう「石」。それが今回のアドミの本質のようです。




「あー、触らなくてよかったわ、マジで。あぶねえ」


「本当ですね。もし触ってたらどうなってたんでしょう」


「ババ抜きみたいに最後に触ったやつだけが虜になるんならよかったのにな。そしたらお前に押し付けて逃げられんのに」




 葉山君は病院を歩きながらそんなことを呟きます。葉山君は重い話を軽い感じで茶化す傾向があるので、逆説的に今回の話が重い話だということが分かる。




「でも、実際、どうするんですか? 蘇我さんはもう、あの「石」の虜ですよ。こうなったらもう……あの人から「石」を譲ってもらうのは難しいと思います」




 葉山君は病院内の廊下で立ち止まって眼鏡を外すと。




「なあ四条、お前、ギャンブルってするか?」




 唐突によく分からない話を始めた?




「え? ギャンブルですか? ごめんなさい、やったことないです」


「俺は麻雀が好きでさ、昔はよくやってたんだけど……なぁ、ギャンブルで金を賭ける行為ってのは、悪いことだと思うか?」


「えっと、犯罪だっていうのはもちろん知ってますし、あんまり良いこととは思わないですけど」




何を言い始めたんだろう、この人。前にもこんなことあった気がするけど。




「そうか、俺は逆に紳士的な行為だと思うがな」


「犯罪行為がですか?」


「そうだ。確かに犯罪だな。加えて言うなら、当人同士のギャンブルっていうのは負けたって法的に負け分を払う義務はねえんだ。そもそもギャンブル自体が違法行為なわけだからな。民法は手の汚れたものを保護しない。クリーンハンズの原則だ」


「はぁ……」




 つまり、何が言いたいのだろう。話が見えてこない。




「考えてみろよ。法的な拘束力がないにも関わらず、だ。負けたって金を払う義務がないのに、お互いがお互いの口約束を守るのがギャンブルなんだよ。これが紳士的な行為じゃなくてなんだ? お互いがちゃんと約束を守る限り、ギャンブルはこの世で一番紳士的な行為だ」




 なるほど、なんとなく、一理あるような気がしないでもない。……この世で一番は言い過ぎだと思うけど。




「葉山君のギャンブル紳士的行為論は分かりましたけど、それがどうしたんですか?」


「あいつ……あの蘇我ってやつは、俺に言ったよな。『百万円出すならこの石を売る』って。あいつは俺と約束をしたにも関わらず、それが履行されていない。それは許されないことだ。紳士的な行為とは言えないよな」


「……………………」




 え? あれってギャンブルでした? 交渉だったと思うんだけど。




「あいつには約束を履行させる。法律の問題じゃなくて、信義の問題だ。嫌だというなら強制的にでも履行させてやる」


「でも……相手が嫌だっていう以上、それは難しいんじゃ」


「その場合はあいつの家から石を取ってきて、代わりに百万円を置いてくることにする」


「……………………」






 え? 今、なんて言いました?






・・・・・・・・






 美しい。


 美しい。


 疑いようもなく、世界で一番美しい。いや、宇宙で一番美しい。


 どんな宝石よりも光り輝いているし、どんな芸術作品よりも完璧な造形を保っている。この「石」の美しさ、怪しさ、尊さを超えられるものはこれから先、決して存在しえないだろう。


 それほどまでに、美しい。


 いつまで眺めていても飽きないし、いつまで触っていてもうっとりできる手触り。匂いを嗅いだだけで昇天してしまうほどの芳しい香り。おれはこの石さえあれば、人生で他に何もいらない。最上の美食だろうと、究極の女性だろうと、至高の快楽だろうと、この「石」に勝る価値は見いだせない。


 なんという美しさだ……本当に、本当にこれさえあればおれには何もいらない。




「久臣ー、お客さんよー」




 ……と、おれが「石」の美しさを味わっていたとき、部屋の外からおれのことを呼ぶ声が聞こえてくる。




「久臣ー! お客さん!」




 くそ……。無視して「石」をずっと眺めていたいのは山々なのだが、家での人間関係を損なうのもまずい……結果としてそれは「石」と一緒にいる時間を少なくすることになる。そのくらいのことは猿にも分かる計算だ。おれの人生は「石」と一緒にあるだけでいい。だが、最低限やるべきことはやらなければ一緒にあることすら出来なくなってしまう。悲しいが我慢するべきところはしなくてはなるまい。


 仕方なくおれは部屋のドアを開けて廊下に立っている母親と対峙する。




「久臣、お客さん。女の子よ。スーツ姿で尋ねて来てるけど、知り合い? 四条さんって言ってるわよ」


「四条……? ああ」




 誰だったか一瞬分からなかったが、そうだ、この前、ファミレスで会った女性だ。葉山の印象ばかり強くて、四条さんとおれは一言も喋っていなかったのであまり覚えていなかった。


 四条さんか。葉山は一緒じゃないのか。一人でおれに一体何の用だ、こんな夜中に。……いや、用事はなんとなく想像がつくが。


 おれは気が進まなかったが一旦部屋に戻って「石」を押し入れの中に隠すと、再び部屋を出て外から鍵を掛け、ゆっくりと階段を下りて玄関に向かう……部屋に鍵を掛けておかないと、家族の誰かに「石」を見つけられて捨てられてしまう危険性もあるからな。「石」のことを知っている四条さんが対応相手だと、「石」を持っていくのはリスクが高いしな。無理やり奪われてしまう危険性を考えれば、部屋の中に置いていくのがベストだ。




「こ、こんばんは……先日はどうも」




 四条さんは階下に降りて行ったおれと目が合うと、ぺこりとお辞儀をして言った。相変わらずスーツ姿が様になっていない。オフィスレディというよりはまるで就職活動中の高校生のようだ。




「こんばんは。こちらこそすいませんね、いきなり帰ってしまって」


「いえいえ! あれは葉山く……さんが不躾なこと言ったせいですから、気にしないでください!」




 四条さんは両手を目の前で振りながらそんなことを大声で言う。


 ……なんだ、ずいぶん腰が低いな。もっと責められるものかと思っていたが、この人はおれに対して敵意を持っていないようだ。どうも……何か、しっかりしていない感じがあまり憎めないというか、毒気を抜かれてしまう。




「葉山さんは本当にひどいですよね。私もいつも困ってて……本当にあの人はもう。あのときはあんなでしたけど、いつもはもーっと偉そうなんですよ。会社に帰ってから葉山さん、上司に怒られちゃって。次はお前ひとりでいってこーい、なんて上司に言われて、今日は私一人なんです」




 ……四条さんは葉山に対しての悪口を言い始める。この人は何をしに来たんだろう。おれはてっきり「石」を譲って欲しい、という話をしにきたのかと思っていたのだが。




「あの……四条さん、今日のご用件はなんでしょうか?」


「要件ですか? あ、そうそう、これです。どうぞ」




 そう言いながら四条さんはバッグから何か紙包みを取り出すと、おれに差し出してきた。


 おれはその紙包みを受け取る……なんだ、これは?




「つまらないものですが、良かったら食べて下さい」


「……えっと」




 紙包みの外側に貼ってあるシールには品名「洋菓子」と記載されている。これを渡しに来たのが今日の要件、だと?




「もうあの「石」のことはいいんです。今日はこの前の謝罪に来ただけですから。葉山さんが失礼なことをして誠に申し訳ございませんでした。あ、アポなしで急に訪ねてきてご迷惑ではなかったですか……?」


「それは大丈夫ですが……」




 そもそもアポなしで訪ねてきたことを謝るタイミングがおかしい。普通、もう用が済んだあとに聞くか?


 だがなんだ。今日は「石」のことで来たわけではなかったのか。拍子抜けしてしまう。「石」を譲ってほしい、という話をしにやってきたとばかり思っていた。


 結局それから四条さんは葉山についての悪口や会社のこと、おれへの謝罪を十五分程度語ると。特になにか実りある話をするでもなく、帰っていった。


 ……一体なんだったんだ。まぁ、楽しい時間だったと言えばそうかもしれないが、今のおれには「石」の方が大事だ。常に「石」と一緒に居たい。


 おれは四条さんから貰った菓子をキッチンのテーブルの上に置くと、自分の部屋へと続く階段を上がっていく。ああ、また「石」と至福の時間を過ごすことが出来る……。


 おれは部屋の鍵を開けて中に入り、押し入れの中にしまった「石」を……「石」を……。




「ん……?」




 「石」がない。何故だ。


 「石」は球形に近いからか、たまに押し入れから転がって床に落ちていることもあったので探してみるが……やはり、ない。何故だ。


 おれはもう一度、押し入れの中を探してみる。冷汗が噴き出してくる。……ない。どこにもない。何故だ。深呼吸をして部屋を見渡してみると、机の上に見慣れない茶封筒が置いてあるのに気づく。


なんだこれは。それを手に取ってみる。ずしりと重い。




「……げっ」




 封筒の中には、札束が入っていた。学生のおれにとっては目のくらむような大金。最近見たばかりの大金。この札束は、まさか。札束を茶封筒から取り出して金額を確かめようとしたとき、その茶封筒に入っていた小さな紙片がひらりと床に舞い落ちる。おれはその紙片を拾い上げて書いてある文字を見る。




 石の代金 百万円也




 …………!


 おれは部屋からベランダに出るためのガラス戸を慌てて覗く。


 ……すると、鍵の辺りのガラスに円形の穴が開いており、この部屋を密室ではなくしてしまっているのが見えた。この穴があれば、外からガラス戸のカギを開けることができる。




「葉山……!」




 あいつがやったのだと直感出来た。


 あいつが、おれと四条さんが玄関で話をしている隙に、この部屋に忍び込んで「石」を盗んだのだ。つまり、四条さんはただの時間稼ぎ。おれはそれに気付かずに間抜けにも四条さんと話し込んでしまっていた、というわけか。




「くっそ……!」




 机の上をだんっ、と拳で叩く。


 おれが悪いというのか。あいつらがここまで、ここまですることを読めなかったおれが悪いというのか。まさか平気でこんな犯罪行為をやってのけるやつらだなんて想像できるものか。おれは悪くない。おれは負けていない。


 だが実際に、おれの手元に「石」はないというこの現実。葉山は今頃高笑いしてあの「石」を頬ずりしているのだろうか。


 ……身が裂けそうな想いだった。この世にこれほどの苦しみがあったのか。


 学生時代にクラスメイトが、恋した女が他の男とくっついたことで嘆き苦しんで、心を病みかけていたのを思い出す。そのときは、たかが女程度でそこまで悩むなんて、普通の男は馬鹿なんだな、程度にしか思っていなかったが……この張り裂けそうな胸の痛み、止まらない嗚咽。自分が恋焦がれたものが、別の人間の元に行ってしまって、決して自分の手の中には収まらない悔しさ。その揺るぎない事実を認めざるを得ないという現実。耐えきれない。きっとこれはあのクラスメイトが味わっていた苦しみと同じ類の苦しみなのだろう。何事も、紙の上の知識だけではなく、体験してみないと理解できないことがあるということにおれは気づいた。


 葉山の顔を思い出すだけで憎しみの炎に身が焦がされる。許せない。葉山。おれから「石」を奪った男。葉山、葉山……!


 くそっ、くそっ、くそっ。


 床に突っ伏して、目を瞑り、拳を何度も床にたたきつける。


 もう二度とあの「石」におれは会えないのか。もう二度と「石」に……。




「「石」……?」




 何かに、呼ばれた気がする。


 おれは呼ばれた気がする方向を探す……が、分からない。


 もう一度、目を瞑っておれは意識を集中させる。まぶたの裏に、光が見えた気がした。


 「石」がおれを呼んでいる……?








 ……蘇我さんの家を出た私は、足早にその場所を離れて合流場所に向かう。早く、早く逃げないと。元々約束していた場所には、一台の車が停車していた。よかった。葉山君はもう車に戻っているようだ。私は足早にその助手席のドアを開けると、乗りこんでシートベルトを締めようとする。




「お疲れ。ご苦労だった」


「はぁ、はぁ……。「石」は無事に手に入ったんですか?」


「ばっちりだ。さっさと逃げよう」




 そう言いながら、まるで泥棒のように真っ黒な上下の服を来た葉山君(いや、実際泥棒してきたんですけど)は、まだ息を切らしたままシートベルトを付けるのに苦戦している私を放置したまま、車を発進させる。ていうか葉山君って十六歳か十七歳じゃないんですか? 免許持ってるの?




「ふうう……なんだか、葉山君に会ってから、悪いことばっかりしてる気がします……。今までそんなこととは無縁の人生を送ってたのに」




 まさか、この私が泥棒の片棒を担ぐことになるなんて誰が予想したでしょうか。小学生の頃の私、ごめん。私は汚れてしまった。これ、警察に通報されたら私も捕まっちゃうんですか?




「学校から硫酸と硝酸盗んだり、建物をダイナマイトで爆破したりか?」


「それは葉山君がしたことなので私に罪を押し付けないでください」




 硫酸と硝酸は後で返したらしいけど。




「正しい目的のためならあらゆる手段は正当化される。さて、四条君、そういう考え方を何と呼ぶでしょうか?」


「えーっと……マキャベリズム、でしたっけ?」




 ぴんぽーん、と葉山君は言いながら軽快に車を走らせる。いつになく葉山君はハイになっていた。この人、ひょっとして、悪いことするのが大好きなんじゃ? 




「アドミの確保はあらゆる法や条例に優先される。ただし、その対象アドミによって今後引き起こされるであろう被害を明らかに超える脱法行為についてはその限りではない」


「……本当にそんなルールで動いてるんですか?」




 まぁでも、確かにあの「石」がとっても危険なものだっていうことは私にも分かる。早く確保してどこかに厳重に保管して誰も触れないようにしておかないと、これから先何千人の命を奪って何千人の人生を狂わせるか分かったものじゃない。


 ならこういう行為も仕方ないのかな。


 ああ、いけない。私も毒されてきてるのかなぁ……。


 葉山君と一緒にいるのはすごく楽しいと感じているけれど、こんな行為を普通にしちゃうようになるのはまずい気がするなぁ。


 のんきに鼻歌を歌いながら車を運転している葉山君をちらりと覗き込む。


 ああもう、でもやっぱり楽しいんですよね。

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