第1部 第4話

 葉山君に十日待ってくれ、と言われてから一週間が経った。


 葉山君はあれから学校を休んでいる。なんでも、先生が言うにインフルエンザだそうだけど……こんな時期に? 絶対嘘だ。


 何度かLINEで連絡をしてみたものの、基本的には既読スルーをされて。たまに返事がきたと思ったら「そう」とか「おk」とか「りょ」とか……。葉山君は三文字以上の文字を打ったら死んじゃうんですか? LINEのマナーを破った高校生が仲間内でどんな扱いを受けるのかその身に叩き込んでやりたい。


 ……でもあの人は絶対そういうの気にしないよね。


 ああもう、最近はこうちゃんと葉山君のことばっかり考えてる。二人の男性の間で揺れ動く乙女ですか私は。


 私は相も変わらずため息をつきながら通学路を歩き。下駄箱で靴を履き替えて。廊下を歩いて教室に入り私の席まで歩いていくと。


 隣の席には一週間ぶりに見る男の子の顔があった。




「よ」


「…………」


「ん? どした?」


「どした、じゃないです……」




 葉山君は自分の席で朝っぱらから机の上にサクマドロップスを置いて、口の中で転がしていた……懐かしい、おばあちゃんの家によくあったよね、これ。


 いやそれはどうでもいいんですけど、あまりにも普通にそこにいて普通に挨拶してきたのでなんだか脱力してしまった。やきもきしていた自分が馬鹿みたい。




「もうっ、私、あれからどうなったのかずっと気にしてたんですよ?」


「お前が気にすることねえだろ。後は俺が全部やっとくからよ」


「全部……って、私は何か手伝わなくていいんですか?」


「ただのJKのお前が一体何の役に立つんだ。まぁ……二次接触者は貴重だけどな」




 葉山君はやれやれと言った風に大げさに手を横に小さく伸ばして手のひらを天に向けるジェスチャーを取った。




「でも私がわがまま言ったのに――」




 何もしないのは嫌です、と言おうとしたところで。




「おはよっ、汐音っ」




 ももちゃんが会話に乱入してきた。




「あ、おはよ、ももちゃん」


「んーっ? 今、二人で何かお話してた?」


「うん、ちょっとね」




 あはは、と笑ってごまかした。会話内容は人に言えるようなことじゃない。ていうか多分、物理的にも言えない。




「こいつがメンヘラの男に付きまとわれててな。そんなやつのことは忘れろ、ってアドバイスしてんだけど、どうしても忘れられない、ってうるせえんだよ」




 葉山君がももちゃんに真顔でそんなことを言う。




「ちょっと! 話を捏造しないでください!」




 ……いや捏造じゃないかもしれないですけど!




「おやおや? なんか二人、仲良いねっ。汐音ちゃんはそんなプライベートなことまで葉山君に話してるんだ?」




 ももちゃんは葉山君の冗談を真に受けなかったみたいだけれど、別の着眼点から突っ込みを入れてきた。




「ち、違うよ。これは成り行きで……」


「そう、こいつ、俺のビジネスパートナーみたいなもんなんだけど、こいつのドロドロでぐちゃぐちゃに捻じれた人間関係に巻き込まれちまったんだよ」


「だからそういう捏造やめてくれますか⁉」




 ……だから微妙に捏造じゃないですけど!




「あははっ、葉山君って意外と面白いよねっ。ただの変人かと思ってたよっ」


「変人じゃねえわ」


「変人だと思います……」




 最初は変人だと思ったけど、実際接してみたら変人じゃないことが分かって、でも深く理解してみたらやっぱり変人だった。


 もうちょっと人に気を遣うことを覚えて欲しいです。




「それにしても、どうして汐音は葉山君に敬語なのっ?」


「え……っと、深い意味はないんだけど」




 なんとなく、葉山君が大人っぽい雰囲気を纏ってるから、としか言いようがないんだけど。




「実は俺、秘密にしてたけど二十六歳だからな。お前も俺に敬語使え」


「えっ⁉ 本当ですか⁉」




 葉山君の口から衝撃の新事実が!




「でもその年じゃ入学とか転校なんて出来ないはずですよ」


「住民票なんて簡単に偽造出来る」


「あはは、葉山君、悪いけど私は敬語は使えないなっ」


「何で?」


「私、人の手の甲見れば年齢は大体分かるからねっ! 葉山君が二十六歳ってことはないよ、年齢相応。十六歳から十九歳、ってとこ? 精神年齢は高そうだけどねっ」




 ももちゃんは葉山君の手を握ると手の甲をまじまじと眺めて言う。こういうことを意識せずにするから、ももちゃんはよく年ごろの男子を勘違いさせてしまうのです。




「へー……大したもんだな」




 葉山君は感心したように言う。


 ……葉山君の素性を知っている私は、二十六歳もあり得るかもしれないと思ったけれど、よく見れば葉山君の顔はそこまで大人には見えない。いいとこ十代後半から二十歳くらいだと思う。




「シャーロックホームズの真似事をしただけだよっ、リチャード!」


「なんでそこはクイーンなんだよ。ホームズの決め台詞ででいいじゃねえか」




 葉山君とももちゃんが私にはよく分からない謎の会話をして盛り上がっていると。




「見事な推理の褒美にこれをやろう」




 と、葉山君は机の上に置いてあったサクマドロップスの缶をももちゃんに放り投げた。




「え、いいのっ? ありがと!」




 わーい、と素直に喜んでその缶を受け取るももちゃん。カラカラと音がしてるから、実は中身が空っぽということはなさそう。


 と、そこで授業の開始を告げるチャイムがなって、ももちゃんはうきうきしながら席へ戻っていった。




 後で聞いた話になるけど、その缶の中にはハッカしか入っていなかったらしい。








「それで、結局今日は何のために学校に来てたんですか?」




 放課後、私は葉山君と一緒に通学路を歩いているときに尋ねてみた。葉山君の家がどこにあるのかは知らないけれど、とりあえず途中までは一緒の道らしい。


 葉山君は今日学校に来たけれど、授業中はほとんど寝ていた。どう考えても授業を受けに学校に来たわけではなさそう。ちなみに、寝ているにも関わらず、理数科目については先生に当てられたとき、ほとんど問題に答えられていた……なんか悔しい。




「聞かない方がいいぞ」


「え、どういうことですか」


「お前基本、真面目じゃん。聞いたら卒倒するかも分からん」


「私が卒倒するようなこと学校でしてたんですか……」




 確かに休み時間とか体育の授業中とか、居なくなってる時間帯はあったけど。


 学校でしか出来ないことってなんだろう……。




「でも、なんだかんだ言って、葉山君も根は真面目ですよね」




 本当に不真面目だったら、今の会話だって適当に誤魔化すことも出来たはず。でも葉山君はそうはしなかった。多分、今までも冗談はよく言っているけれど、私に対して不誠実なことはしていないと思う。




「俺が真面目なわけねえだろ。真面目なやつはこんなことしねえわ」


「それだって、私との約束を守るために色々動いてくれてるんですよね?」




 こうちゃんを助けてくれるという、約束。




「ちげえよ。結局俺もお前と同じなんだよ」


「私と同じって?」


「結局……俺は俺のために動いてるってこと。お前のためとかこうちゃんってやつのたにやってるわけじゃねえ」




 葉山君のその台詞は、照れ隠し、ではなくて自虐に感じられて。私は葉山君の言葉の意図を測りかねた。




「まぁ……自分のためってことを自覚してるだけまだ俺の方がマシだけどな」


「もー、またそういうこと言うんだから」




 この前はずいぶんと葉山君の言葉のナイフには心をえぐられたけれど、今日はそこまで傷つかなかった。


 なんというか、葉山君は全然私に気を遣わない。だから、私も気を遣わないで気楽に気軽に気安く言いたいことを言えるし、接することが出来るのだと思う。


 ……思えば、今までそういう関係になった男の子は居なかったな、と思う。こうちゃんと接してきたせいか、私は人の顔色を窺ってばかりだった気がする。




「朝も聞きましたけど、私に何か手伝えることはありますか?」




 二人の間に出来た言葉の隙間を埋めるように私は聞いた。




「大丈夫だ。今日学校で準備は大体出来たから」




 いったいこの人は学校で何をしていたのだろうか。




「でも、私のわがままで迷惑かけてるのに何も手伝わないなんて……」


「結局そうすると決めたのは俺だし、これ以上一般人を巻き込めねえよ」




 二人で歩いて住宅街の路地に入る。




「それに、朝返事した通り、マジでお前に手伝ってもらえそうなことがない」


 それを言われてしまうと辛い。確かに私はあんまり取り柄がないただの女子高生で、色々出来そうな雰囲気がある葉山君とは違うけど。


 けど。


 何か私に出来ることはないのだろうか。


私がうーんとうなっていると、葉山君のスマホがけたたましい音を立てて鳴り響いた。


 葉山君はポケットからスマホを取り出すと、苦々しい表情をして通話をタップするとスマホを耳に当てる。




「はい。ええ、順調です。……は? 今から、ですか?」




 そうスマホの向こうの相手に話しながら、葉山君は私の顔を見る。葉山君の声色はいつもよりずっと緊張していて、余裕がなさそうに見えた。


 まるで私が怖くて苦手な先生と話すときのような様子だった。




「いえ、そういうわけでは。ただ、現在、二次接触者とコンタクト中なので、出来ればもう少し……あっ」




 どうやら会話を一方的に打ち切られたようで、葉山君は話している途中でスマホの画面を見つめ、通話が終わったことを確認する。




「まずい。まずいことになった」




 葉山君は今まで見たことがないくらい慌てた声色を発して私の方を再び覗き見る。




「いいか、あんまり説明してる時間がないからよく聞け」


「はい?」




 葉山君は一体何をそんなに慌ててるんだろう。私はよく分からないまま首をかしげていった。




「何も喋るな。それと、もし何か聞かれても話を合わせろ。いいか、俺が何をされても、絶対に本当のことは喋るな。それがこうちゃんってやつを助ける唯一の方法だ」


「何言ってるんですか?」




 葉山君がいきなり何を言い出したのか全く理解できないまま私は聞き返す。まるで今、この場に何か危機が差し迫っているような言い方だったけど、私には全く実感がわかなかった。




「それってどういう――」




 と、私が言いかけた瞬間。背後に誰かの気配を感じた。


 それと同時に、ばちん、と音がして、背中に何か衝撃を受けた。


振り向く暇もなかった。何かで殴られたわけではなく。まるで電流を流されたような衝撃。




 電流……? これって電……気……?


 電気を身体に流された経験はなかったのでそれが何なのかはっきりと分からなかったけれど。


 そこまで考えたところで、私の意識は途切れた。










「ん……ここ……」




 意識が戻って、自然と目が開く。


どうやら絨毯の上に横たわっていたようで、上体を起こして周りを観察する。


……校長室? 私が横たわっていた部屋の第一印象はそれだった。赤紫のふかふかの絨毯に、本棚や絵画の額縁、ソファや机など、どれを見ても黒で統一された瀟洒な調度品。


部屋の一番奥に置かれた焦げ茶色の木で出来た事務机に設えられた椅子には壮年の男性が座っていて、その机の前には葉山君が後ろに手を組んで足を少し開き直立していた。まるで軍人のように姿勢正しくしていて、いつもの葉山君のイメージとは被らなかった。


部屋の奥に座っている男の人は、私が意識を取り戻したことを一瞥して確認すると、話を始める。私が目覚めるのを待っていたのだろうか。




「報告を始めろ」




 壮年の男性は低く無機質な声で葉山君に対してそう呟いた。まるで物を見るような無機質で射貫かれるような鋭利な眼光と合わせて、私は自分が言われたわけでも見られたわけでもないのに身をすくめてしまう。……目元に刻まれた皺から見て、年齢は四十台後半くらいだろうか。ももちゃんじゃないのでそこまで詳しくは分からないけれど、




「は。三日前に第二次接触者の女性を特定し、コンタクトを取ることに成功。以後は当該アドミについての情報を慎重に聞き出しつつ、存在位置の特定と特性の調査を進めています」




 葉山君はいつもとは違う緊張した声色ではっきりと答えた。やりとりからして、目の前の男の人はおそらく葉山君の上司のような人なのだろう。


多分、第二次接触者というのは私のことだと思うけど、葉山君は嘘をついている。葉山君が私を二次接触者と特定したのは一週間前だし、その日に今言ったことは全て済ませているのだから。


私は自分がどうすればいいのか分からなくて、とりあえず立ち上がる。あれ、身体に力が入りづらくて足がよろめく……なんだろう、初めての感覚。


 ……これは後で知ったことだけど、私はさっき道端にてスタンガンで気絶させられていて、人は電流を流されるとしばらくの間、脱力感に襲われるみたい。




「…………」




 葉山君の言葉を聞いているのか居ないのか……男の人は椅子に座ったまま、微動だにせず葉山君のことを視線で射貫いていた。


 私は葉山君の背中側にいるので、葉山君が今どういう表情をしているのかは分からない。




「葉山……お前があの学校に転入して、何日が経った?」




 葉山君が説明をしてからたっぷり二十秒は置いて、男の人がゆっくりと話し始めた。




「十日です」


「するとお前は、あの学校にいると分かっていた一次接触者、或いは二次接触者を特定するのに一週間かかったということになるな。偶然にも同じ教室に対象がいたという僥倖を得たにも関わらず、だ」


「……は。当初は主に九月一日に学校を休んだ生徒、または長期休暇の生徒を中心に調査を行っていました。まさか同じクラスの隣の席に対象が居たとは思いもよら……ず……」




 葉山君が話をしている間、男の人は椅子からゆっくりと立ち上がると、葉山君の前へゆっくりと歩を進めて向かい合った。その距離は多分五十センチもない。


 男の人の身長は、葉山君よりも十センチは高く、葉山君のことを至近距離で睨みつけながら冷徹な眼光を煌めかせている。


 葉山君は思わず言葉を詰まらせてしまったようで、次の言葉を見いだせなくなってしまった。




「盲点だった、とでも言いたいのか。まあいい。では次。三日前に対象と接触しておきながら、何故未だにアドミの居場所すら特定出来ていない?」


「……努力はしています。ただし、今回のアドミは接触自体が危険を伴う可能性が高く、慎重な対応を――」




 葉山君が少しだけ慌てた声でそこまで答えたとき。


 男の人は、問答無用で葉山君のお腹に思い切り拳をめり込ませた。




「ぐ……っ!」




 腹筋が殴打される鈍い音が部屋の中に鳴り響いて、葉山君はお腹を押さえたまま無言で……いえ、おそらくは呼吸困難で声も出せずに身体をくの字に折り曲げる。




「葉山君!」




 私が恐怖に震えた声でそう叫ぶと、苦悶に呻く表情で葉山君は私のことを睨みつける。それだけで葉山君の先ほどの言葉を思い出した。


『何も喋るな。それと何か聞かれても話を合わせろ』


 私はどうすればいいのか分からなくなって、成り行きを見守るしかなくなる。


 怒りに任せるのではなく、冷静なまま、しかもこの程度のことで不条理に、不合理に、人を殴りつける人なんて、私の人生に今まで居なかった。混乱する。どうしてこんなことが出来るのだろう。私は理解不能の恐怖を感じていた。




「努力はしています……? 学校に入学して、気分まで学生か?」




 男の人はそう静かに言い放つと、葉山君の頬を殴りつける。


 葉山君の身体が勢いよく横向きに弾けて、絨毯の上に倒れこむ。


 どうしよう。どうすればいいのだろう。


 だって、葉山君は今、私のせいで殴られている。


 葉山君は本当は、あの男の人が要求していることを既にやり遂げている。本当なら怒られることも、こんな風に理不尽に殴られる必要もないはずなのに!


 私が……私がわがままを言って葉山君の仕事を止めたせいで。




「慎重な対応? まるで結論を出すのにいちいち会議が必要な公務員のような言い分だな」




 その男の人は、うつぶせに倒れた葉山君を蹴っ飛ばして仰向けにさせると、その胸を踏みつけながら続ける。


 胸を踏みつけられた葉山君が苦悶の呻き声をあげる。




「私には、お前の思考も嗜好も志向も全て読めているぞ」


「あ……の」




 喉から声が出かかって止まる。きっと私がここで本当のことを言ったら、きっとこうちゃんを救うことは出来なくなってしまう。そのことが頭を過ぎって、私は結局口を出せなかった。




「よもやとは思うが……」




 その男の人は私のことを横目で見ながら、葉山君に対して言葉を続ける。私の絞り出したか細い声はどうやら聞こえていなかった。


 私はその人に睨まれただけでかちかちと奥歯を鳴らして震えてしまう。




「くだらん私情に流されて自分の職務を忘れているということはないだろうな……?」


「……まさか」




 葉山君はうめき声混じりの声でそう吐き捨てる。




「家族を救えなかった自分の姿を、二次接触者に重ねているなどということはあるまいな?」


「あり得ません」




 胸を踏みつけられ、尊厳を踏みにじられながらも、葉山君は毅然とした表情で言い切った。


 家族を救えなかった。


 私は今まで考えてもいなかったが、葉山君にはアドミのことが話せるということは、葉山君も一次接触者か二次接触者……。私と同じく何らかのアドミに関わってしまった人の一人なのだ。


 私がこうちゃんを失いかけているように、葉山君は家族を……?


 色々な感情が混じりあって頭が混乱しているとき。


 葉山君の意志を感じる言葉を聞いてその男の人は足をどけて言葉を続けた。




「ならばよし。『アドミニストレーターズ』としての自覚を持ち、職務を全うせよ」




 足をどけられた葉山君は、身体を震わせながらよろよろと立ち上がる。




「……失礼します」




 震えた声で葉山君が言うと、葉山君は浅く一礼して男の人に背中を向ける。そのときようやく私と葉山君の視線が交わり、葉山君は気まずそうに目を伏せた。


 葉山君の片頬は、痛々しいほどに赤く腫れ、口元には血が滲んでいた。




「明日までだ」




 葉山君の背中に男の人が話しかける。その言葉を聞いて葉山君は振り向かずに足を止める。




「明日までに成果を出せ。出来なければ……もう嫌だろう? モルモット扱いは」


「…………」


「以上だ。行ってよし」


「失礼します」




 葉山君は改めてそれだけ答えると、部屋のドアを開けて外に出る。私も慌ててそれに続いて逃げるように部屋の外に出る。


 私は結局、葉山君との約束を守った。守ってしまった。


 そのことが、たまらなく恥ずかしかった。










 その後、私は職員の人にアイマスクをさせられて車に乗せられて。先刻私が拉致(?)された場所で私と葉山君は降ろされた。


 さっき、アドミニストレーターズ?って言ってたっけ。葉山君の組織はとっても秘密主義らしい。


 アドミニストレーター。聞き覚えがあるけど、どういう意味の単語だっけ……。




「あー、痛てえ、あのクソ野郎……」




 葉山君は顔を手のひらで抑えて恨み節を言う。


 その頬は赤から青へと色を変えて葉山君の整った顔にまだら模様を与えていた。




「ごめんなさい、その……」




 私のせいで、私のために。どちらの言葉を使うべきか迷っていたところで、葉山君が私の心を読んだように続ける。




「お前のせいでもねえし、お前のためでもねえ」


「でも……」




 どう考えてもこれって私のせいで。


私はこうちゃんを助けることだけを考えていて、そのせいで葉山君が傷つけられたりひどい目に遭わされるなんて考えてもいなかった。


 ……結局、私は自分のことしか考えていない子供だったのだ。葉山君にも事情があるなんてこと、全く想像していなかった。




「俺が自分のために勝手にやってることだ。俺がそんなに良い奴のわけねえだろ」




 家族を救えなかった。


 さっきの男の人が葉山君に言った言葉が頭の中でリフレインする。




「あの人、何なんですか」


「俺の上司だよ。超こええ。ブラック企業にもほどがあるだろ」




 葉山君は悪い空気を無理やりにでも変えようとしたのか、軽い感じでそんなことを言う。




「企業……」




 会社なんですか、と、私が言いかけたとき。




「いやすまん、企業じゃなかったわ、俺、準公務員だし」


「え、準公務員って……そんなこと教えてくれていいんですか?」


「本当は駄目だけどあいつがムカつくから言っちまうわ」


「ええ……」




 内緒な、と葉山君はイタズラっぽく言う。準公務員ってなんだっけ……よく分からないけど、葉山君が超法規的に学校に入学出来たりするのは、そういう公的な力が働いているからなのかもしれない。


 だって、この人は絶対高校生ではない。年齢はともかく。




「えと、話が逸れました。あの人が葉山君の上司っていうのは何となく分かってたんですけど、どうして私の前であんなことをしたんでしょう」




 あの人は、わざわざ私のことを攫って、目覚めるのを待ってから私の目の前で葉山君に制裁を行った。一体何の意味があってそんなことをしたのか、全く理解できなかった。私をあの場所にいさせたことに一体何の理由があったのか。


 葉山君は少しだけ考えて、私の質問に答える。




「痛いだろ?」


「え?」


「痛くないか? 自分のせいで誰かが傷つけられるのは」


「…………」


「あのクソ親父は分かってんだよ。調査が進んでないのはお前が非協力的だからだ、ってこと」


「それって……」


「お前、さっき思わず言いそうになったよな、本当のこと。自分のせいで俺が殴られるのが嫌で」


「はい……」


「それがあいつの目的だよ。お前の行動の結果、何が起こるかを見せつけてやったんだ。非協力的なお前を協力的にさせるために」




 ……そんな悪魔みたいなことを考える人がいるなんて、私には想像もできなかった。殴るなら私を殴ってくれればよかったのに、あの人はあろうことか、私を傷つけるためにあえて葉山君を殴ったのか。




「だけどまあ……よく言わないでくれたよ、助かった」


「そんな……」




 葉山君は何も助かってないじゃないですか。お礼を言うのは私の方です、と、言いかけて言えなかった。それ以上言葉を出したら、涙が溢れてしまいそうだったから。


 葉山君は殴られて、踏みつけにされても口を割らなかった。私を助けてくれる義理も義務も友情も愛情も利益も報酬も何にもないのに、私との約束を守ってくれている。




「さて、だけど状況は変わった。明日までになんとかしなくちゃならねえ」




 葉山君は真剣な表情で私のことを見つめる。




「本当はこれから誰か手伝ってくれる同僚を探そうと思ってたんだが、そんな暇なくなった。だから……いや」




 葉山君は私の目を見てそこまで言いかけたけれど、やっぱり目を伏せて言いたかったことを言わなかった。


 けれど、私には葉山君が一瞬考えたことが分かった。




「協力します」




 私は葉山君の目を見て言った。そんなこと、迷ったり考えたりする必要はなかった。




「いやすまん。気の迷いだ。一般人を手伝わせるわけにはいかねえ。俺一人でやる」


「協力します」




 私は心に力を込めて、もう一度同じセリフを言った。




「お前は軽く考えてるかもしれないけど、死ぬかもしれないんだぞ」


「私のせいで葉山君が死ぬよりマシです」




 葉山君は頭を掻きながら、俺は大丈夫なんだけどな……などと小さな声で呟いて。




「お前って、言い出したら聞かねえよな。一瞬でも隙を見せた俺が馬鹿だった」


「そうですよ? 私って頑固ですから」




 くす、と私が笑って見せると、葉山君は諦めたように言う。




「……クイーンパフェは、俺が奢る側になったな」








 その日の夜。


 部屋にいる私に、葉山君から連絡が来た。まずは、明日の集合場所と時間。そして葉山君がこの一週間してきたこと。


 葉山君はこの一週間、あのアドミのところに足しげく通って生態(?)を調査していたらしい。曰く、理解不能の存在や現象には根源的な恐ろしさを感じるけれど、理解を深めていくことでその恐ろしさは薄れていく、とのことだった。


 それによると、あのアドミは特に近づいても触っても傷つけてもこちらに攻撃してくることはないらしい。すごい。私にはもあれに実験的に触ってみる度胸なんてない。ましてや傷つけるなんて。それと、強度を調べたけれど強力な刃物なら十分に切れる、とも。そういえば、私が噛んだときも歯形がついていた気がする。


 そして、明日の手順について。


 まず、葉山君がこうちゃんの食べられている左手を引っこ抜いてから、あのアドミの触手を刃物で全部切る。


 その後が問題で、次にアドミがどんな行動に出るのか予測がつかない。何も起こらないならそれでいいけれど、補食対象を失ったあれが、誰かを捕えようとして……もしもこうちゃんか私があの触手に狙われたら、葉山君がアドミに石油をかけて火をつけて燃やす。葉山君が狙われたときは、私が石油をかけて燃やす。上手くいけばそれで終了……だそうです。


 こうちゃんが捕まってる状態で燃やしたら、こうちゃんにも石油がかかって燃やしてしまう可能性があるので、まずはこうちゃんを助けてから燃やすとのことです。


 ちなみに、私があれは殺せるものなんですか? と聞いたら、破壊できる場合もある、とのことでした。


 破壊できる場合もある……まぁ普通に考えて石油を掛けて燃やせば生きていられる生物はいないよね。


 いないよね……。


 私は過ぎる不安を胸の奥にしまい込んで寝ようとしたけれど。


 その日の寝つきは悪かった。


 恐怖、不安、緊張。


 今日が人生最後の夜かもしれないと思えば、当然のことかもしれない。

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