2

「……待って」


 かすかにそんな声が聞こえたようだった。私は振り返る。


 例の彼が何かを右手に持って掲げていた。それは……私が背負っているバッグに付けていたはずの、マスコットのぬいぐるみだった。


「これ……落としたでしょ……」


 荒い息づかいの合間に、彼はそう言った。


「!」


 とっさに私はバッグを背中から下ろす。確かにぬいぐるみがない。


 そうか、この人……それを拾ってくれたんだ……


「あ、そうだったんですね……すみません……」


 私は恐る恐る彼に近づく。


「はい」


 彼がぬいぐるみを私の目の前に差し出した。


「ありがとう……ございます……」


 私が受け取ると、彼は眼鏡を外し、ハンカチを取り出して顔の汗を拭く。


 あれ……眼鏡がないと、この人、意外にイケてる……?


「もう……全然追いつけなくて参ったよ。君、速いよね」そう言って彼は笑顔になる。「僕も通学路で君を見かけるたび、追い抜いてやろうと頑張ってたんだけど……」


「でも、ここまで私についてこれる人は初めてです。あの……お名前聞いてもいいですか?」


「!?」彼は一瞬面くらったようだが、やがてはにかみながら告げる。


新鳥野にゅうとりの 高生こうせい。新しいに空飛ぶ鳥、野原の野。高いになま。数物科学類の2年だ。君は?」


一石いちいし  光子みつこです。一石を投じるの一石に、『ひかり』に子供の子。地域創造学類の1年です」


 とたんに、彼――新鳥野さんの目が真ん丸になる。


「ちょっと待って、『いちいし』って、一つの石? それドイツ語でアインシュタインだよ! しかも光子みつこって……光子こうしだよね? フォトンじゃん! もう物理学者になるしかないよ!」


 ……。


 ダメだ。やっぱこの人普通じゃない。ちょっとでもイケてるとか思ってしまった私がアホでした。


 新鳥野さんは続ける。


「そうかぁ……君はフォトンだったのか。そりゃ追いつけないわけだ。確かにニュートリノもほぼ光速だけどさ、質量ゼロのフォトンよりは遅いからなぁ……」


「ニュートリノ?」


 私は思わず聞き返す。それってこの人の名字……?


「ええっ? 知らないの?」新鳥野さんが呆れ顔になる。「素粒子の一つだよ。岐阜のカミオカンデがその検出で有名で、日本人が二人もノーベル賞貰ってんだよ?」


 そう言われても……文系の私には全然わからない。


 と、いけない。講義開始時刻だ。


「あ、私、講義行かなきゃ。新鳥野さん、ありがとうございました!」


 私はぺこりと頭を下げると、教室に向かってそそくさと駆け出した。


「ああ、それじゃね」


 背中越しに、彼の声が届いた。


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