イコン

うぉーけん

 飽食のきわみに屠られて。

 食まれて千切られ無限の断片と化した、あなたはどこにいるの?


◆ ◇ ◆



〝時は身をかたむけて、わたしにふれる、

 あかるい金属のひびきをたてて。

 感官はふるえる、わたしは自分の可能を感じ――

 そして造型の昼をつかむ。〟



 耳元で風が轟々と唸りをあげる。急激な気圧変化により、鼓膜がきぃんとなった。あまい風味のエプロンドレスに重ね着した耐熱耐火服の上を、激しい気流が滑っていく。まばたきをほんの数回するあいだに、フェイスシールドの耐熱ガラスの向こう側に広がる世界が、ぐんぐんと迫ってきた。


 捻くれたように隆起している茶色の地面が、ピオニアの朱鷺色の瞳に写りこむ。



〝わたしが観るまでは、何ひとつ完成していなかった、

 あらゆる生成がしずかに停まっていた。

 いまこそわたしの眼差しは熟し、そのひとつひとつに

 望むものがくる、花嫁のように。〟



 釣瓶のように地面に向かって落下するピオニアは、薄い唇を震わせ思い出に残るリルケの詩を諳んじる。

 大好きだった「あなた」が白い指先で示しながら、一節一節を謳い、蒙をひらき、知性のきらめきをもって新たな世界をピオニアに敷衍してみせたリルケの詩だ。


 懐古のさなか、自身の体重よりもずっとずっと重い装備品に包まれた体が、重力のくびきにつかまっている。上空三〇〇メートルよりピオニアを投擲した古臭い輸送機は、老人の衰えた呼吸器さながらに咳き込んだエンジン音をたてながら遠ざかっていってしまった。


 がくん、とピオニアの体を衝撃が襲った。


 突然不可視の怪腕に握られたように思えた。落下速度が減速する。フェイスシールドのなかで、銀糸の髪が舞い踊った。貧弱な肉体を構成する、全身の骨がぎしりとなった。


 低高度開傘。風防素材に絹を使用した半球型パラシュートが、落下途中のピオニアの肉体と速度を受け止める。



〝わたしにとって小さすぎるものはなく、しかもわたしはそれらを愛し、

 金地のうえに大きく描く、

 そしてたかだかとささげ、そうしてそれが

 だれのたましいを解き放つかを知らない……〟



 見えた。

 めくるめく落下の衝撃のさなか、ピオニアの鋭敏な視覚が、目的の建造物を捉えた。


 ピオニアは目を細め、夕闇に沈みつつある空間を凝視した。これから起こる惨劇を予感させる血の色に滲んだ大気のなかに、おぼろげに浮かび上がるひとつの建物があった。

 本来ならば威風を放ち鎮座すべき重野砲は赤錆に塗れ、稼動する様子はなかった。機関銃座から除いているはずの銃身もない。だがそれでも、いまだ堅固な雰囲気を佇ませるコンクリート製の構造物だ。


 ピオニアの知識に寄れば、建設において鉄筋が使用されているため、空軍による生半可な爆撃では崩壊させるのが困難な代物のはずだ。


 それは、本来ならば東方で連邦制をいただくさる大国による帝国への侵攻を防ぐために建築されたものの、突如として出現した「蠢くもの」どもによる攻撃のために解体処理されることもなく放置された古いトーチカだった。


 東方大国との戦争では、数えるのが億劫なほどの死者が出た。


 だから、地獄がいっぱいになりすぎて、死者の残骸が溢れて零れて神様にすら捨て置かれ、死と血と腐臭に惹かれた貪婪なるものどもが深淵より這い出て来てしまったのだ。


 トーチカは帝国側の決死の駆除活動により蠢くものどもとの戦線が移った現状では、誰からも忘れられた建物にすぎない。


 少なくとも、そうであったはずだった。


「そこに、あなたはいるのかな?」


 風と重力にさいなまれながら、ピオニアは呟いた。


 すべてが懐かしい。春を告げる鳥たちのように囀る美声も、ピオニアの不器用な指先がなめらかになぞっていく白磁の肌も、微熱を混じらせる紺碧の眼差しも。


 たとえ醜く変じていても、一目見ればわかる。片時も、忘れはしないのだから。


 利用する兵のいなくなったトーチカ周辺付近で、蠢くものどもの活動が頻繁に報告されるようになったのはつい最近のことだ。


 偵察班が提出したレポートに寄れば、蠢くものどもは、地下に埋設されているトーチカ内部に巣食っている。気温と湿度が一定に保たれている地下の限定空間は、さぞかし狭間に潜み蠢くものにとって過ごしやすいのだろう。


 あいつらは、人間とは異質の生命だ。


 ピオニアは遠方のトーチカの観察をやめ、視線を足元へと向ける。もうじき落着する。地面が迫ってきた。思考の中断を余儀なくされる。


「いるのかな? いるのかな? 会えるのなら、嬉しいな」


 期待に胸が高鳴った。ガラス張りのフェイスシールドのなかで、高揚のあまりに少女は歌うように囁く。


 軍の空挺降下に使用されるパラシュートは降下速度が極めて速い。自由落下より幾分かまし、という程度だ。故に降下地点の精密なコントロールには高い技量を要する。

 そして残念なことに、ピオニアはまだその高みに達していなかった。


「あ、あ。あ。まずいよね」


 ピオニアは呻いた。降下予測地点がよろしくない。突き出た花崗岩の岩盤がせまってくる。激突が確実に思われた。頑丈さだけはお墨付きを貰っているピオニアだが、できれば無駄な怪我はしたくない。


 躊躇いなくパラシュートを強制切断。


 ピオニアは通常の人間ならばまず重症を負うであろう高さを、一気に飛び降りる。全備重量状態で百キロを超す肉体が地面に激突する衝撃を、ピオニアの華奢な両脚が受け止めた。


「うぐぅ」


 くぐもった声が喉から漏れる。


 地面が抉れていく。パラシュートを開傘したときを上回る衝撃が、足先から脳天へと突き抜けた。筋肉の膨張と関節の稼動とを上手に使い、可能な限り衝撃を逃がす。土煙が派手に上がった。

 いきなり重量物の激突を受けた地面はあいにくと耐え兼ね、ひび割れたが、ピオニアは危険極まりない着地に成功する。


 もし「あなた」が見ていれば。強引でみっともない空挺降下に、きっと笑ったことだろう――笑ってくれたのなら、それだけでピオニアは満足だったのに。


 下半身がじんじんと痛んだ。


「会えると思っておめかししたのに」


 痛みを務めて無視し、耐熱耐火服についた土埃を払い落としながら、ピオニアは不機嫌に声を発した。


 今の行為は上手いとはいえない。舞い上がった土煙を危惧する。人の立てる音と臭いに敏感な蠢くものどもに知覚された可能性は十分にある。


 ピオニアは地面に落下した衝撃で、装備品に破損がないか確認する。可愛げのないねずみ色の溶接用皮手袋を着用した右の指先が、装備をなぞっていく。


 頭部を覆う耐熱ガラス仕様のフェイスシールドは大丈夫。


 エプロンドレスの上に着用し、ピオニアの華奢な体を不恰好なまでに着膨れさせている皮製の耐熱耐火服にも異常なし。背部に背負っているランドセル式の大小のボンベ二つおよび発射ノズルにも問題はない。タンク隣にある爆薬二個を収納したリュックサックも無事だ。腹部のハーネスにくくりつけている自衛用の自動拳銃に、鉄条網切断用の大型ワイヤーカッターも所定の位置にある。肩から下げている小銃弾ポケット付バックには予備の爆薬とガスマスク、発煙弾がきちんと収まっている。


 重量五〇キロを越える装備品は、いずれも準備万端だった。


 ピオニアは帝国に所属している強化兵だ。


 現在の所属は国防軍第三歩兵師団戦闘工兵大隊司令部付。ピオニアのご同輩の多くが人間とは比較にならない戦闘能力を生かすために直接的な打撃部隊の任務につくことが多いのに反し、ピオニアはあくまで戦闘工兵という立場にある。


 ピオニアの教育担当官を務めた「あなた」は、攻撃的な部隊に配置されることのなかった自分を慰めるかのように、常にこういっていた――戦闘工兵は確かに戦場の花形ではない、その存在を軽んじられることはある。だが、さまざまな専門技術を駆使して味方部隊の活動を支援する必要性を誇りに持つべきである、と。


 それが、ピオニアの矜持となった。


 ピオニアは平時のときから、フェイスシールドと耐熱耐火服に身を包んでいる。他者からの視線は苦痛以外の何者でもない。少しでも身を隠したかった。病的な人見知りのため、いまだかつて人の目を見て会話をしたことすらない。


「あなた」は、そんなピオニアがまともに会話できる数少ない人物だった。


 柔和な笑みを浮かべて彼女が常々口にする戦闘工兵の主任務を、ピオニアはつねに胸に抱いている。


 ピオニアの内包する世界観の背骨、それは彼女の言葉だ。


 戦闘工兵のなすべきことは、友軍の進軍を支えるため障害物の破壊・除去ならびにトーチカや掩体壕の建設などの築城作業、橋の架設や敵前での漕渡などの渡河作業、道路の補修・構築または各種交通網の破壊などの交通作業、その他測量および製図などの雑務作業だ。


 最前列の戦闘状況下での土木作業を行う戦闘工兵は極めて死傷率の高い兵種だ。その危険な作業を人間よりもずっとタフな強化兵にやらせてみてはどうか、という軍の思考の下に作出されたのが戦闘工兵のピオニアだった。


 今回の作戦目標はそのものずばり、戦闘工兵の得意とするトーチカ内の戦力の撃滅だった。


 地上軍による攻撃ではトーチカはびくともしない。空軍による爆撃では精密さにかけ、下手に半壊なぞさよせようものなら、蠢くものどもが逃散する結果を招きかねない。

 以上の理由から、工兵大隊内において暇を持て余していたピオニアが巣の殲滅のために借り出されることになったのだった。


 全身を奇怪な防護服に包み、剣呑な備品を身に付けた少女が荒野を歩き出す。


 トーチカに早くたどり着かねばならない。ピオニアの小さな口で行う呼吸音がフェイスシールドのなかで幾度も反射し、人の鼓動を思わせる旋律となって自身の耳朶に響いてくる。


 焦燥と期待がないまぜになり、リルケの詩は脳裏から消えていった。


 重い装備を背負った状態で脚を屈伸させ、大きくジャンプする。強化兵の身体的機能を生かした跳躍だった。有刺鉄線の残骸を飛び越え、ひび割れたトーチカの外壁へと取り付く。

 トーチカ内部から、数え切れないほどの生物が蠢く気配があった。ピオニアは銃眼からそっと中を覗き見る。


 吐き気を催す濃厚な官能の世界が、そこに広がっていた。


 名状し難い奇怪な生物たちがいた。外骨格により装甲された扁平な楕円形の体からは、節に覆われ発達した六本の脚が伸びている。体節の隙間からは、白い筋肉がうねっていた。地下に入り込んだ西日が、油ぎり黒光りする装甲を極彩色に色めかせている。

  

 そのおぞましい肉体が幾つも重なり合い、交接を重ねている。


 フェイスシールドのフィルターごしですら、つんと鼻を突く性の臭いがあった。羽を広げた大型の個体の背中に生える刺激体と呼ばれる器官を、小型の雌らしい個体が丁寧になめまわしている。異形のものたちの優しい愛撫だった。雄の力強さに恍惚とした雌は、尾部から突き出た性器を互いに結合していた。


 奇怪な肉体が、快楽に打ち震えている。


 彼らもまた、子孫を残すべく営みを行っているのだ。すでに子を宿しているのか、体の小さい雌と思われる個体は、尾部から卵鞘といわれる卵の塊をぶら下げていた。


 無数の蠢くものどもの、饗宴だった。


「うわ、うわわわ。わわ」


 ピオニアはあまりの光景に、眩暈を覚えた。名状しがたい異形の愛。いつまでも見つめていたら、正気を失いかねない。知れず、小さな悲鳴が口を付いて出た。


 性の快楽のさなか、突如として入り混じった不快な人間の臭いと声に、蠢くものどもが一斉に反応する。感情のない複眼がピオニアを映し出す。

 人類には理解できない害意がそこにあった。


 恐怖に震えて一歩後ずさる。のけぞった後頭部が、フェイスシールドの内側にぶつかる。


 小さな衝撃。ふいに、「あなた」に引っ叩かれたのを思い出す。火器の取り扱いを怯えるピオニアを叱咤激励するための軽い一撃だった。後頭部を手刀でこつんと叩いたあと、朱唇をやわらかく開き、まごつくピオニアを諭すように彼女は囁いた。


「なすべきことを」


「なすだけだね」


 思い出のなかの呼びかけに答える。混乱するピオニアを支えたのは、けっきょく、「あなた」との記憶だった。


 嫌悪を堪え、踏みとどまる。躊躇は必要ない。ただ求められることを、実行するだけだ。

 与えられた教示は、ピオニアにとって同時に信条でもあった。


 ピオニアは銃眼に、ランドセルから伸びるノズルを差し込んだ。タンクの弁を開放し、放出用コックを左手で捻る。地下空間に散布された極めて有害な液体が、蠢くものどもの装甲の隙間を通し体の中に染み渡っていく。複眼を、口内を、呼吸器を、装甲の中の脆弱な肉を腐食する痛みに、蠢くものどもが苦痛の喘ぎをあげる。


 発射器の引き金を右手でひき、イグナクターを点火。


 眼前に煉獄が現出する。緋色の炎が暴れ周り、耐熱ガラスを激しく明滅させる。


 重油とタールを混合した液体可燃剤が充填されたタンクと、燃料放射のための圧力源になる不燃性圧縮ガスが充填されたタンクからなるボンベから、猛烈な勢いで燃料が噴射されている。

 燃料放射用ボンベよりずっと小型の点火用ボンベから水素ガスが放出され、ノズルに取り付けられた電熱線を水素が流れると、即座に火種が形成された。


 電熱線水素ガス点火方式と呼ばれるイグナクターから放たれた火種は、空間に散布された燃料をいっきょに燃え上がらせた。


 塹壕やトーチカを潰す際、火炎放射器による制圧は極めて有効なことが知られている。半密閉状に限定された地下空間のあらゆる場所に炎の舌が這いずり回り、逃げ惑う生物たちを容赦なく炭化させるからだ。


 戦闘工兵が有するフレンメン・ヴェルファーがすべてを炎上させる。


 無慈悲な灼熱地獄に叩き込まれ、蠢くものどもがコンクリートの火葬場のなかでのた打ち回るのがわかった。体の内側に浸食した燃料が、内部から肉体を炎上させていく。蠢くものどもの複眼から、口内から、呼吸器から、装甲の隙間から紅蓮の炎が噴出する。


 逃げおおせるものなどいなかった。体内の水分が一気に蒸発させられ、気体となったそれが呼吸器から噴き出る音は、間の抜けた衣擦れの音に似ていた。

 間抜けで甲高い音は、蠢くものどもの絶命の声だった。炎が地下の酸素をすべて消費しつくすなか、不愉快な死が数え切れないほど撒き散らされていく。


 ピオニアは炎の逆流を防ぐために、マニュアルに記載されている時間きっかりで燃料の放射を一時中断する。耐熱耐火服が、眼前で発生した膨大な熱量のために熱を帯びているのが理解できた。

 顔面を保護するフェイスシールドの耐熱ガラスも、いまにもひび割れてしまいそうだった。


 火炎放射の中断があと少し遅れていれば、ピオニア自身も炎上していた。


 蠢くものどもの装甲内部の筋肉と神経を焼き尽くした悪臭が、トーチカ内部より溢れ出す。それはまさに油ぎった死の臭いだった。


 ピオニアは屈託ばかりの吐息を漏らす。


 がんばったのに。なんて残念なんだろう。業火のなかに「あなた」は微塵も混じっていない。


「臭いがしないんだ。あなたの髪の毛が、皮膚が、脂肪が、焼け落ちる臭いがしない。灰色の骨が炭化していくさまを、わたしは感じられない。あなたはどこ? ここにはいない。飽食の果てに、食まれて千切られ無限の断片と化した、あなたはどこにいるの?」


 ひとしきり虐殺を繰り広げたあと、ピオニアはうなだれる。そのままくるりと踵を返す。溜めた涙が零れ落ちると、憂鬱に歩き出した。

 炎は審判だ。あらゆる事象を焼き焦がし、純粋に清めて葬る。もはや蠢くものどもの血となり肉となった存在ですら、例外なく浄化する。


 ピオニアの心は満たされない。なぜなら、ピオニアは炎に見出した幻像に耽溺しているのではなく、原像を愛おしく思っているからだ。

 欠片たちは、いずこに持ち去られたのだろうか。


 あなたの救済の日は遠い。

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