第九話『突入』

 タケルは社の真正面に立っている。合図があればすぐに飛び込めるように、聞き足を引いて神経を研ぎ澄ませる。正直あまり運動をしてこなかった方なので、飛び込んでいける自信は全くないのだが、ミコト曰く「そこは"始祖の血"の力で何とかなる」らしいので、とりあえずその言葉を信用することにした。

 ミコトはタケルと同じ社の正面に、二人の間に挟まれて夜桜、社の両端に和己とその父親がタケルの知らない呪文を唱えながら立っている。

 正面を見据えれば、和己の弟・博己がこちらに背中を向けて座っている。遠目からは落ち着いているように見えるが、先ほどに比べて震えが大きくなり、集中が切れるのも時間の問題といったところだ。

 なるべく早く救出作戦に入りたいところなのだが、博己の周りを止まることなく歩き続けている少女が張ったと思わしき結界がかなり厄介なようで、神官二人がかりで一瞬解くのにも時間がかかっているようだった。

 あの社の中で一人座る少年、さぞ辛く寂しいだろう。タケルは少年の心の内を想像して、自分まで寂しくなってきた。正直、あの得体のしれない少女の領域に踏み込むのは筆舌に尽くしがたい恐怖というものがあったが、自分よりも年下の子が絶えているのだ、それに自分の力で誰かを助けられるなら助けてあげたい。その気持ちで自らを奮い立たせた。

 そのとき、すっと音もなく和己の左手が上がったのが見えた。突入可能になった合図だ。あの手が振り下ろされた瞬間に、三人同時に社の中に飛び込む。

 和己には夜桜が見えないので、代わりにミコトが頷いて準備完了の意を伝える。和己が頷き返した瞬間に、手が振り下ろされる。タケルとミコトは同時に地面を蹴りだした。

 驚いたことに、駆けだしたほんの二歩で建物が目の前に迫る。先ほどは一メートルほど手前までにしか接近できなかったが、三歩目には社の入り口に足がかかっていた。その二歩目と三歩目の間に、飛行機で上空に上がった時のような不快感が耳を襲った。しかし、その不快感も一瞬だけで三歩目の足が着地した瞬間には消え去っていた。

 地を駆ける二人よりほんの少し早く社に到達した夜桜が、少年の周りを歩き続ける少女に飛びかかる。虚ろな顔だった少女の顔が、一瞬驚いた顔になったが、すぐに鬼の形相へと変貌した。

 なぜ少女がこんな顔をしなくてはならないのだろうかと思うほど、その眼光は恐ろしい。一体何が、彼女をこんな顔にしたものか。

 少女の意識が夜桜に向いた瞬間に、二人は少年を保護した。救出に現れた人間の顔を見て安心したのか、ほんの少し顔に赤みが差し、意識を失った。

 少年は保護した、後は社から脱出するだけなのだが、その部分に関しては最後まで教えてくれず、博己を守りながら指示が出るまでその場で待機しておいてほしい、とのことだった。

 タケルが博己の体を抱え、ミコトがその前に立ちはだかるようにしている正面で、夜桜と少女がにらみ合っている。こちらに背中を向けている夜桜の表情はうかがい知れないが、少女の顔つきは鬼の形相のままだ。


「なあ、いつまで荒ぶっておられるつもりか」


 桜の少女の問いに、神と呼ばれた少女は鼻で笑って返した。それと同時に、ミコトもピクリと反応した。

 夜桜は、少女のことをと言った。目の前のあの恐ろしい存在が、だって?

 この国には八百万の神々がおり、荒々しい側面をもつ神も、温和な側面をもつ神も、総じて神聖なる存在として祀られているが、彼女のようにいかにもと呼ばれるような存在で、幼子の姿をもつ神がいるという話は聞いたことがない。もちろん、姿のない神の姿は人間が作り出したものである、という場合も考慮してである。彼女が思い出せる限りでは、あのと呼ばれる存在に該当する名前がない。もしかすると、民間信仰のかみさまかもしれない、また外つ国から来たかみさまかもしれない。いろいろ考えを巡らせたのだが、今は成り行きを見守ることしかできない。


「ふん、たかだか如きの存在で我にたてつく気か?」


 鬼神の口から発せられたのは、とても少女のものとは思えない、地獄の底から響いてくるような恐ろしい声だった。ぬくもりなど微塵も感じさせないその声に、二人は背筋が凍る思いがした。それに、こんな声など全く聞いたことはないのに、どこかで聞いたことがあるような……。


「たてつくつもりなど毛頭ありませぬ。ただ、そろそろお帰りにならねばいけないのでは?あなたが求めているものは、ここにはありませぬ」


 いつもとは違う夜桜の口調で、背中を向けている以上表情は全く見えないのだが、声音だけで彼女が不敵に笑っていることは感じ取れた。

 その表情を見てか、それとも社の前に駆け込んできた人物の姿を認めたからなのか、鬼の形相から苦し気な少女の顔に変化する。


「チッ、邪魔が入りおった」


 その言葉を投げ捨てた次の瞬間、少女は忽然と姿を消した。ただ最後に、今まで一瞥もくれなかった二人の顔を睨んだように見えた。その顔には、恨みと謎の希望が混ざりあった色が浮かんでいた。


「何があった、大丈夫か!?」


 聞き覚えのある声に、二人はハッとする。社の前に駆け込んできた人物は、景虎だったのだ。ミコトが社から出ようとしたので、タケルもそれに続こうとしたが、情けないことに、小さな男の子一人抱え上げられなかった。

 ここに寝かせておくわけにもいかないし……と困っていると、いつの間にか近づいてきた人間が代わりに少年を抱き上げた。

 竜吾だった。


「僕が抱えていきますので大丈夫ですよ、タケルくんは立てますか?」


 優しく微笑んでこちらを覗き込む叔父の顔に、心底安心した。今回は戦っていないので身体的な傷はないのだが、先ほどの鬼神の声があまりにも恐ろしくて、今までの彼であればこのままうずくまって動けなかったであろう。

 それを見越して竜吾も声をかけてきたのだが、神守衆に入ってから彼は成長していた。まだ少し恐怖は残るが、この程度で怖気づいていたら、どこにも進めない。


「俺は大丈夫です。それより、景虎さんと竜吾さんはどうしてこちらに?」


「詳細は省いて後で説明しますが、一つはここの神官からの通報、もう一つは、ええとあの馬鹿が……」


 基本的に誰にでも丁寧語を使う彼が、唯一『馬鹿』と表現するのはもう一人の叔父しかいない。確か、今日彼は夜勤だったので、非番で家に待機していた竜吾に直接電話して「タケルが大変だ!」とでも言ったのだろう。口では馬鹿と罵り、顔には明らかに迷惑そうな表情を浮かべてはいるが、電話しなければしなかったで後でたっぷり文句を言ったのであろう。

 常々過保護な叔父たちである、とは思っていたが、今日はその過保護さがありがたい。

 二人が揃って社の外に出ると、まず竜吾の元に博己の家族が駆け寄ってきた。


「気絶しているだけです、あんな状況下にてすごく疲れているはずなので、ゆっくり休ませてあげてください」


 そう言って博己を預けると、夫婦は何度もお礼を言った。母親が抱えて住居に戻ろうとすると、和己が父さんも一緒に戻っていていいよ、と提案した。でも、とまごつく父親の背中を息子が押すと、博己を寝かせたらすぐに戻ってくるから、といって住居がある方に消えていった。

 ミコトは一足先に景虎と合流しており、その横に夜桜も浮いている。その姿を見て、先日叔父が帰ってきたときに慌てて姿を消していたのを思い出した。なにに慌てていたのかは知らないが、今竜吾がここにいて大丈夫なのかと思ったが、今回は平然としているあたり消えなくてもいいようだ。


「大丈夫か?タケルくん」


「は、はい。特に怪我はしていないです。ところで、どうして景虎さんがここに?」


 当然の疑問だ。景虎といえば、先日まで別の地方に出張というか遠征をしていたはずで、おまけに副長が自ら出てくるケースは珍しい、とミコトから聞いていた。

 同様の疑問を抱えているようで、横でミコトもうんうんと頷いている。


「それは少し長くなるからね、また明日本部で改めて話をしよう。まあ、それはさておきだね……」


 景虎は夜桜に体を向けた。何故か夜桜は、それを見てにこにこと笑っている。


「いままでどこほつき歩いていたんですか、

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