第三話『藤の社』
アスファルトの上は太陽の照り返しもあって、上からも下からもジリジリと焼かれていたが、森の中に足を踏み入れると一転、直射日光が当たらないだけでこんなにも暑さが変わってくるものなのか。普段都市部では鳴いていない、聞き覚えも何の虫なのかもわからない鳴き声を聞きながら歩みを進める。
『藤の社』と呼ばれる場所は、奥の院というだけあって、本宮のある場所から、背後にそびえる山を登って行った所にあるそうだ。山道とはいうが、信仰の場であるために、所々に石段を設置して、いくらかは歩きやすくはなっているものの、普段家からあまり出ないタケルは、ほんの少し歩くだけで疲労感に襲われた。
「本当にこの先に、『藤の社』が、あるの?」
息を切らしたタケルが途切れ途切れに問う。彼の前を歩くミコトが、少しだけ振り返って、しかし歩みは止めずに答える。
「麓の神主さんがあるって言ってたからあるでしょ。ほら、ちゃんと私たちみたいな人のために、案内の看板も立ってるし」
そう言って道の端の木に括り付けられた看板を指さす。そこには確かに『この先奥の院』と書かれている。
歩き始めて三十分は経つが、直ぐに息が上がったタケルに比べて、ミコト少しの息の乱れがない。おそらく普段から鍛えているお陰だろう。体を動かす機会というのが、ほんの少し外に用があったときしかなかったタケルには、ちょっとしたハイキングのような山道でさえ、険しい山道に思えた。
『藤の社』に行くといいと助言したのは夜桜だが、今日は彼女はいない。てっきりいつもの様に姿を消しているのだろうかと思っていたのだが、ミコト曰く、そもそも気配がないので今日はいないと言っていた。自分が提案して、おまけに自身の守り刀を置いている場所なのだから自ら赴いてもよさそうなものなのだが、ここまで来ないとなれば何かしら事情があるのだろうか。
タケルがふぅと息を着くと同時に、先導者の足が止まる。背中にぶつかりそうになり慌てて歩みを止めて彼女を見ると、どうやらこの坂の先、つまり斜め上を見ているようだった。その視線の先を追って、タケルは息を飲んだ。
山の頂上に立っていたのは、石鳥居だった。
石鳥居は、随分と古いものであちこちが苔むしていたが、何故だろう、見た目に特徴があるわけでもないのに、今まで見た事のあるどんな鳥居よりも、神聖で荘厳に感じられた。
タケルが見入ってる間にも、ミコトは無言のまま再び歩き出した。慌ててそれを追いかける。その間にも、二人の目線が石鳥居から逸らされることはなかった。
ゆっくりと、ゆっくりと残りの石段を登る。いつの間にか、周りで鳴いていた虫の声も聞こえなくなった。ただ聞こえるのは、二人が歩む、トッ、トッという音のみ。残り三段、二段、一段、石鳥居の足元に近づいていく。
そして、視界が開けた。
石鳥居の向こうには、真っ直ぐ伸びる石畳があった。そして、その終点には、あまり大きくない社が、季節外れの藤の花に囲まれてぽつりと鎮座していた。
石鳥居の手前でミコトが一礼する。ぼぅっとしていたタケルも、それを見て慌てて一礼する。まともな、未だに信仰を集めている神域に足を踏み入れるのは何年ぶりか、すっかり作法を忘れていた。
しんと静まり返った空気の中、石鳥居をくぐり抜ける。すぅと息を吸い込めば、肺の中に冷たく、澄んだ空気が取り込まれる。遮るものが何も無い山頂だというのに、照りつける太陽の暑さが全く気にならない。まるで、真上に透明な傘でも覆いかぶさっているのではないだろうかと錯覚する。この社には、今までに行ったどこの神社よりも神聖な空気が満ちている。疲労で傷んだ足が、ゆっくりと癒される気がした。
「ここが、『藤の社』……?」
「だと思う。夜桜さんは、藤の花で満たされている場所とは言わなかったけど、見た目からしてここで正解でしょ」
ミコトがゆっくりと社に向かって歩いていく。当たりを見渡しながらタケルも後に続く。
社に向かって真っ直ぐ石畳があるが、その脇には手水舎と小さな祠が安置されている。山頂にある社ではあるが、どうやらしっかりと人の手が入っているらしく、辺りには木の葉ひとつ落ちていない。ここには、その他の建物、社務所らしきものは見当たらないので、下の本宮から上がってきて清掃しているのだろうか。まさか毎日この道を登ってきている人間がいるのだろうかと、タケルは要らぬ想像をした。
「社に来ればわかるって夜桜さんは言ってたけど、どこかに由来かなにか書いてある看板があるのかな。まさかお社の中に無断で入るわけにはいかないし」
顎に手を当てて、考える仕草をしながらミコトが呟く。本当なら本宮にいた神職の人間になにか聞けたらよかったのだが、何故か全員慌ただしそうにしていて、とても長時間話続けられる雰囲気ではなかったのだ。そのため、とりあえず奥の院まで上がってくればなにかわかるのではなかろうかと考えて、登ってきたのだった。
最初は二人で辺りを見渡し、次に二手に別れて、社を囲む藤棚の下を歩いて、社の周りに何かしらヒントがないものかと探してみる。しかし、結果は芳しくなかった。
「とりあえずここまで来てみたけどさ」
「うん」
「なにも、なかったね」
二人は揃って腰掛けた石製のベンチの上で溜息をつく。タケルは無駄な体力を使ってしまったと後悔し、ミコトは何もなかったことに落胆している。
「やっぱり、お社の中を見なくちゃいけないんじゃないかな」
「まぁ、確かに。俺が前に見た社では、天井画に由来が描いてあったよ。でも、ここのどんな由来が、俺の祖先に関係あるんだろう」
「このお社を建てた人とか?でも、それならタケルの家に何かしら伝わってそうだよね、それもないんでしょ?」
「うーん、ひた隠しにされてたからなんとも言えないけど、知ってる限りではそんな気配はなかったかな」
タケルは唸りながら天を仰ぐ。
彼の言う通り、自宅にある祭壇や儀式的なものも、多少簡略化されてはいるものの、特に変わったところはない。もしこれが社の建設に携わっているとすれば、一般家庭の様式とは微妙に違いが出てくるのだ。また、ここの社は『藤の社』という名は、おそらく周辺で咲き誇る藤の花から来ているものもあるのだろう。それならば家に藤の花に関連するものが何かしらあってもいいものなのだが、そのようなものを見かけたことはない。建立に携わっているという線は薄いだろう。
「本宮にいた人たち忙しそうだったから、今から下って話を聞くのも気が引けるね」
「うん。あとは、ここを手入れしている人がここに来てくれたら話を聞けるのかもしれないけど」
そう言ってタケルは辺りを見渡す。随分と綺麗に掃き清められているが、今日の清掃はもう終わったのだろうか。そして、目線を藤棚から石鳥居に移す。その瞬間、タケルはベンチから立ち上がる。
「誰かいる……!」
「え?あ、ホントだ」
ミコトも体を乗り出して石鳥居を確認する。確かに石鳥居には人影が見える。だが、少しだけ様子がおかしい。
「神職の人……?ではないよね、見たことがない服着てるし、観光客とかでもなさそう」
「神職の服はわからないけど、ミコトが言うなら違うんだろうね。地元の人、にしてもあんな服着るかな?」
石鳥居の下に佇む人影、おそらくシルエット的には十二、三歳ぐらいの少女だろうか。彼女は和服のようなものを身にまとっているが、よく見ると和服ではない。貫頭衣のような服だろうか、その上に目の覚めるような紅の羽織を羽織っている。赤みがかった髪を肩の上で切りそろえ、微動だにせず立ち尽くしている。
最初は地元の子がここまで遊びに来て、見知らぬ人間がいるので様子見をしているのだろうかと思っていたが、よく見るとそれはおかしい。
佇む少女は靴を履いていないのだ。
この山は、山全域が神社のものであり、神職に携わる人間しか住んでいない。少女は、神職に就く人間が着る服を着ていない以上、地元の人間であると推測されるのだが、それでも不自然だ。裸足の少女の足は、あの坂道を上がってきた割に、少しも傷がついていない。
それを不審に思ったタケルが、石鳥居に向かって歩きだそうとするのを、ミコトが手を挙げて制止する。彼女は目配せしてここから動かないでと伝えると、ゆっくりと歩み始めた。その様子を、タケルは息を飲んで見守る。
そろりそろりと少女に近づく。しかし、その間も少女は微動だにせず、目線すらも、ぼんやりと遠くを見ているようだった。その瞳を見た瞬間、ミコトの心臓が飛び跳ねた。彼女の瞳は、二人と同じ真紅の瞳だったのだ。
「ねぇ」
思わずミコトが声をかける。それが聞こえたのか、少女はゆっくりと顔を上げる。ミコトと少女の目線が絡み合う。そして少女は、燃えるような真っ赤な瞳で、幼子らしからぬ妖艶な笑みを浮かべる。
「よく来たねぇ」
背筋がゾクリとする。この少女は、誰だ……?
しかし次の瞬間、少女は煙の如く消え失せた。その後には、
「あら、お客さんですか?」
箒を抱えて石段を昇る少年だけが残された。
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