第26話 海軍(2)

「ちょっと散歩してくる」


「いってらっしゃい」


 何時間も本を読んでいたせいか,体のあちこちがバキバキする.隣で本を静かに読む弟の背筋は,伸びていて,何時間も同じ態勢なのにどうして体が痛くならないのか,謎が解けた気がする.そんな弟に一声かけ,俺は,図書館を出る.


 日は沈み始めており,大通りには,今日の夕飯の材料を抱えた主婦の姿が多く見られた.大通りに出るのは,あの日以来だが,半年前と特に変わっているところはなさそうだ.

 もちろんあの納豆クレープとかいう激マズメニューが置いてあるクレープ屋も健在だ.俺は,深雪に納豆クレープを押し付けられた苦くも楽しかった思い出に浸りながらクレープ屋の前を通る.

 昼に食べたオムライス以来,口には何も入れていなかったため,腹は鳴っていたが,さすがにクレープの気分ではない.


「お客さん,お金足りないよ?」


「え? あ..ほんとだ,すみません」


 クレープ屋の店員の太い声とクレープを購入しようとしている女性の声がする.


「はい,確かに頂いたよ.ほい! 納豆クレープね!」


 え?


 思わず,その不意打ちの如く発せられたワードに反応してしまう.


 今,なんて言った? 納豆クレープ?


 俺は,クレープ屋の方を振り向き,その客の持つクレープを凝視する.


 まじかよ..深雪以外にも買う奴いんのかよ.あんなんサンプル見ただけで買う気失せるけどな.

 

「やっぱ紙のお金は,慣れないわね.D地区ぐらいよ? 未だに紙幣制度なの」


 納豆クレープを持つ客が何やらグチグチと言っていたが,その内容までは,聞き取ることができなかった.俺の進む方向とは,逆の方向に去っていく納豆クレープの客.


 怪しいな..


 俺は,その離れていく納豆クレープの客の背中に疑念の目を向ける.


 あれを購入した時点で怪しい奴,とは思っていたが..よくよく見ると怪しさマックスじゃねえか.納豆クレープに気を取られたせいで気付けなかった.

 身長は..深雪と同じくらいか? さっきの声からするに女性であることは確定.

 だが問題は..あの左腰に差した身長の半分以上の長さがある刀,そして,フードを深く被り,顔を隠しているところ..怪しすぎる..

 てか,あんなに深く被って前見えてんのか?


 そんなこんなでそのフード女を観察していると,案の定,道の段差につまづき,正面から地面へと思いっきり転ぶ.それと同時に手に持っていた納豆クレープが宙を舞い,地面に無事着地.もはやクレープの原型はそこにはなかった.


「あ..私の夜ご飯..」


 転んだことによる痛みよりも納豆クレープを失った痛みの方が大きいようで,それが相当ショックだったのか,納豆クレープを見つめながら,その場から動かなくなってしまう.道行く通行人は,誰も足を止めず,その哀れなフード女を横目に通り過ぎていく.


 俺も無視すべきか..声を掛けてみるべきか..まぁ,どちらにせよ,あの怪しい奴を野放しにすることはできない.それに..納豆クレープの縁だ,声掛けてみるか.


 少し警戒感を強め,そのフード女に近づく.


「大丈夫か?」


 俺は,似合わないながらもフード女に手を差し伸べる.声掛けに気付いたのか顔を上げる.目まで隠していたため,はっきりとした顔までは確認することができなかったが,雪のように白い肌をしていて,年齢もおそらく俺と近い.


「ありがとう,問題ないわ」


 と言いながらも,俺の差し伸べた手に手を合わせるフード女.


「恥ずかしいところを見せてしまったわね」


 俺の前に立つフード女,正面から見るとその長い刀を本当に振り回せるのか疑問に思ってしまうほどに女の子の体をしていた.

 そして,何かを俺に懇願するかのようにもじもじし出す.


「あの..一つお願い聞いてもらってもいいかな?」


「面倒なことじゃなければ」


「お金..貸してください」


 俺は,道に落ちたクレープを見る.


「また,あれ買うのか?」


「ええ..とても美味しそうだったから」


 どうして よりによってあれなのか,どこを見て美味しそうだと感じたのか,問いただしたいところではあるが.好みは人それぞれだ..そう..人それぞれ..他人が口出しをしてはいけない.

 ダメだ..トラウマすぎて見てるだけで気持ち悪くなってきた.


「そうか..」

 

 俺は,何も考えず,そのフード女に納豆クレープ代を渡す.


「ありがとうございます! ちょっとここで待っててください! お金は今日返すので」


「いや,別に返さなくても..」


 俺の言葉を最後まで聞かずに行ってしまった.当初,見た目だけで怪しい奴とは思ったが喋ってみてわかった,あれは間違いなく白だ.納豆クレープ好きに悪い奴はいない,心に刻んでおこう.

 数分後,こちらに あれを片手で持ち,戻ってくるフード女.


「迷惑かけてしまってごめんなさい,お金は家にあるから,取りに帰るわ.だから付いてきてほしいの.私がこのまま一人で帰ったら泥棒みたいで何か嫌だし」


 顔は見えないが,育ちはそこそこ良さそうに見える.

 

 いるからなぁ..たまに,ちゃっかり金返さない奴.

 そして,見知らぬ男に家の場所を教えるのは,いかがなものかと思うが.その刀の腕に相当の自身があるということか.


「別に返さなくていい,そんな値の張る物でもないしな」


「それは,私のプライドに傷がつくのでできません」


 おいおい..真面目ちゃんかよ.家に付いて行くの面倒すぎるんだが.


「いや..でも」


 面倒だとも言えずに言葉を詰まらせてしまう.


「どうしても無理と仰るなら,この納豆クレープお返しします」


「よし,行こう.早く行こう」


 華麗な超即答.


 あれだけは勘弁だ.あれは人類が生み出してはいけないダークマターの一種.家まで付いて行くだけでその危機を免れることができるのなら安いものだ.


「随分と切り替えが早いのね..では,行きましょうか」


 俺は,そのフード女のあとを後ろから追う.


 しかし..少し変わった刀だな,何だあれ.


 フード女の腰に差された刀は,形こそ普通の刀と同じだが,鞘の上部から下部までに一直線の線が刻まれていて,その刻ませた部分の線がオレンジ色に発光している. 


「ねぇあなた,後ろに歩いてたらおかしいでしょ? 隣りに来なよ.ほらほら!」


 俺は,その言葉通り黙って隣に並び歩く.


 こいつ..お喋りするのが大好きなタイプか? それならどうして顔を隠す? もしかして..俺をはめようとしている? 研究都市の回し者という可能性は十分ある.それに深雪を誘拐した当事者やその関係者の可能性もある.真相はわからないが,もしそうなら,返り討ちにして,深雪の居場所を吐き出させる.


「あなた,さっきから顔怖いよ? 何かあったの?」


 俺の顔を覗き込んでくるフード女.


「顔を隠してる奴だけには言われたくないな.どうして顔を隠す?」


 この際だ.こいつのフードの下にある素顔を見て,こいつの目的をはっきりさせてやる.


「えっと..これには深いわけがありまして..フードを取ると色々面倒になると思うから..ね?」


 謎の同意を求めてくるが意味が分からない.やはり研究都市の一員という可能性が高い,このまま,人通りの少ないところに行って,真相を明らかにするのも一つの手.


「私の家に着いたら,フードの下見せるから,それまで我慢して! お願い!」


 俺の方に両手を合わせ,お願いをしてくるフード女.


 不思議と悪意は一切感じない.殺気を隠すのが上手いということか? それに,家に着いたらフードの下見せるって..完全にアジトに呼び込んでそこでやり合う気満々だろこいつ.

 まぁ良い..そっちがその気なら,こっちも手加減はしない.刀使いなら氷で簡単に束縛することもできるだろうし.


「わかった,それまでは我慢する」


 俺は,横目で納豆クレープを食らうフード女を見る.

 

 しかしまぁ..よくも,ここまで美味しそうに食うよなそれ..味覚終わってんだろ,こいつ.納豆の匂いも鼻に突き刺さるし,ダメだ..隣にいるだけで倒れそう.


 俺は,必死に耐えながら,それを食らう女の横を歩くのであった.



 このフード女と歩き始めてから約10分.

 すでに納豆クレープの存在は,胃と言う名のブラックホールに吸い込まれ,姿を消していた.

 そして..俺の読みはどうやら当たっていたらしい.案内された場所は,家など絶対にないであろう港.


 ここら辺にこいつらのアジトが?


 俺は,気を張り詰めらせ,いつ襲われても良いように能力の発動を準備する.

 気を張ってから数分後..

 

「ここが私の家! 歩かせちゃってごめんね」


 俺は,ただ茫然とするしかなかった.もちろん,こいつとやり合う意志など今はどこにもない.


「ここが..あんたの家?」


「ええ」


 本来なら目の前には,海があるはず.だが,今,目の前に広がるのは海ではなく黒色の壁,その黒色の壁は数百メートル先まで見える.上を見上げると,ミサイル,アンテナ,レーダ探知機など,素人には説明できない物が見える.それに,辺りには海軍のメンバーらしき人もちらほらいる.


「軽空母..」


 間違いない..昼,D地区のあのビルから見たものだ.それが今,目の前にある.


「うん,軽空母の花ちゃん」

 

 色々と突っ込みどころはあるが,愛称の込められ名前にクレームを入れようもんなら,ミサイルの雨が降り注いできそうなので口を紡ぐ.


 俺は,一度,冷静になり,さっきの自分の心の声を振り返る.


 「見知らぬ男に家の場所を教えるのは,いかがなものかと思うが.刀の腕に相当の自身があるということか」

 「まぁ良い..そっちがその気なら,こっちも手加減はしない.刀使いなら氷で簡単に束縛することもできるだろうし」

 

 うん..どうやら殺されるのは,俺の方らしい.てか,空母に案内されるとは思わんだろ. 最初は,港にある倉庫でリンチに合うのかなぁとか,普通にごく一般的な家に招待されるんだろうな,とか思ってたけど,想像してたものと180度どころかなんなら5回転半も違う.


「どうしたの? いきなり黙っちゃって」


 フード女の声が聞こえてくる.


「いや..初めて間近で見たもんだから,少し驚いた」

 

 つまり,こいつは,この軽空母のメンバー.つまり,海軍の一員ということだ.これから海軍とは仲良くやっていく必要がある.そういう意味では,俺の今回の善意は,D地区全体にとってプラスに働くかもしれない.

 そうポジティブに捉えれば,今日は,有意義な時間を過ごした,と言えるだろう.


「あ! そういえば,私のフードの下見せる約束してたね.別に面白いものでも何でもないけど..」

 

 そう言い,フード女は,上から羽織っていた黒色のフード付きマントを取る.

 太もも辺りまで届いた,黒の二―ソックスと白色の線が入った青色のスカート.上には,赤色のネクタイと白色の制服のようなものを着ていた.周りにいた海軍の他の女性の服装から見るに,これは海軍の女性服に当たるものだろう.


「んー,そんなにマジマジ見られると何か恥ずかしいなぁ」


 俺は,このフードを取った女の外見から感じる懐かしいものに一瞬,この女と深雪を重ねてしまっていた.

 深雪と同じくらいの身長,白い肌,そして,その「桜」特有の白い髪.ただ..もちろん深雪ではない.

 その目の前にいる「桜」の一人であろう女は,背中辺りまで髪を伸ばし,その特徴的なサイドテールを桜の花が2つ咲いた髪飾りで縛っていた.


「「桜」..」


 咄嗟に出た言葉がこれだ.

 俺は,驚きながらもミブロに聞いた海軍に所属する一人の「桜」の話を思い出す.

 もしかして,目の前にいるこいつが..


「挨拶が遅れちゃったね」


「初めまして,研究都市中央軍統制下海洋防衛軍のリーダーやってます.桜霧花サクラキリカと申します.よろしくね」


 スカートを広げ,深々とお辞儀をする海軍のリーダ―,桜霧花.


 世界に五人しか存在しない「桜」.

 俺は今,深雪に続く二人目の「桜」,桜霧花の目の前にいる.

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