第21話 壊れた日常
苦しい..息苦しさが止まらない.呼吸がどんどん速くなっていくだけで吸っても吸ってもまるで酸素が体の中に入ってこない.
そんな俺をミブロはただ優しく背中をさすってくれていた.
人間という生き物は不思議で一時的に感情や痛みがピークに達すると,それ以降は,何事もなかったかのように落ち着き元に戻っていく.
「少しずつだ.大きく息を吸って,吐くんだ」
ミブロに言われるとおりに,深呼吸をすると,ひどかった過呼吸も少しずつ治まっていく,苦しいながらも少しずつ..少しずつ..酸素を取り込んだ.
「よし良い子だ.やればできるじゃないか」
いつもなら,バカにされているだけだ,と思うこの言葉.でも..このときだけは居心地が良く,制御の利かなかった心が落ち着いていくのを感じた.
「令司君,立てるかい? 一回戻ろう.捜索は他の者のも頼んでいるから,今日は休もう」
俺は,ふらふらになりながらも立ち上がり,月の出ていない夜空の下を何も考えず,ただ茫然と歩いていた.
時刻は20時過ぎ.
「落ち着いたかい?」
ミブロから暖かいお茶を出されるが今は何も口に入れたくない.
戻ってきたときには,ミブロ部屋にマリーの姿はなく,今は俺とミブロの二人だけだ.
「....」
口を開く気にもなれなかった.
「すまない..D地区は比較的安全だと言っておきながらこのざま.管理者失格だ..本当に..申し訳ない」
頭を下げてくるミブロ.
顔こそ見えなかったが,そこには,後悔と俺に対する謝罪,そして,何より大切な仲間の一人,深雪を守ることができなかった..という気持ちがあるように感じた.
俺は,そんなミブロの普段しないような格好の意味が理解できなかった.
どうしてお前が謝る? あのとき,気付いてやれなかった俺の責任だというのに..
こいつは..ミブロは..俺と深雪に住む場所をくれた.知識もくれた.そして,今日も俺が報告するなりすぐに行動してくれた.一緒に深雪を捜してくれた. 泣きわめく俺を見守ってくれた.
頭を下げるのはこちらのはずなのにどうして..お前が頭を下げるんだよ..
そして..それを理解していながらも,それができない俺は人間失格なのかもしれない..
加えて,深雪を守ることもできなかった..
「俺って..何もできないんだな..」
俺がその言葉を発すると同時に部屋のドアが勢い良く開けられる.
「リーダー!! 周辺の捜索終わりました!」
部屋に入ってきたのは,手に数枚の資料を抱えたリアだった.
「これ見てください!」
テーブルに広げられた資料に目を通すミブロとリア.
「これは..どういうことだ..? どうして監視カメラに映っていた三人が殺されている..」
どうやら深雪の捜索関連の話をしているようだ.
俺は二人の会話に聞き耳を立てる
「おそらくですが,この三人は同じ毒で殺されています.そして,注射跡があったことからも,その毒は三人とも手首の辺りから注入されていると考えられます.あと眼球の方も見ましたが..超能力者ではないようです..ただの人間でした」
初めて会ったときのリアからは想像もできない迅速な仕事ぶり.ますます自分は,何もない人間なんだと思い知らされる.
「じゃあ一体誰が..バタバタしていて考えていなかったが,それ以外に不可解な点は2つある..」
「不可解な点?」
顎に手を当てて考え込むミブロにリアが聞き返す.
「あぁ..まず,リア君も知っていると思うが,僕の能力はD地区全域の人たちの視覚を借りるものだ.でも,使い方によってはこの能力を外部からの人間を探索することにも使える」
「それなら知ってますよ..」
「話はちゃんと最後まで聞きましょう..続けると,僕は,視覚を借りるときに人の脳波の情報を読み取っているんだ.そして,この脳波を僕は記憶している.つまり,僕はD地区全域の高能力者を除く,全ての人の脳波を記憶しているということだ」
「はぁ..だから何なんです?」
面倒な話が言葉の如く面倒なのか理解できないのか,リアの言葉も反応も適当になっていく.
「僕がどうしてこのD地区に景観ぶち壊しのビルを建てたかわかるかい? この最上階から常に僕の脳波リストに載っていない怪しい者の脳波を検索するためだよ.僕はこの操作を眠りながらも10分間隔で行っている.だが,おそらく深雪君がいなくなったであろう夕方頃,怪しい反応は一つもなかったんだよ..」
「そうなんですか..本当に10分おきにやってるんすか?」
「嘘を付いてどうする? 別に視覚を借りているわけじゃない..ただ僕の記憶したリストと整合性をチェックしてるだけだから,そこまでは疲れないよ」
ここでリアはようやくその違和感に気が付く.
「もしかして..その超能力者でもない三人の男の脳波を読み取れなかったってことですよね?」
険しい顔をするミブロ.
「そういうことだ..そしてこの三人は,D地区の住民ではない..どうやってすり抜けた?」
考え込むミブロ..部屋には時計の針が進む音が鳴り響いていた.
そんな誰も喋らない空間に我慢ができないリア.
「もう一つの不可解な点っていうのは何すか?」
ミブロは腕を組みながら自分の席に座る.
「もう一つは,深雪君の輸送方法だよ..D地区から一番近いB地区でも距離は60km以上離れている.D地区は他地区と違って
謎は3つ.
なぜ深雪を襲ったであろう三人が殺されている?
なぜ殺された三人は,僕の能力を超能力者でもないのにすり抜けた?
どうやって,深雪君を他地区へ運ぶ? もしくは運んだかだ..
会話が少し途切れたところで無言を貫いていた俺がようやく口を開く.
「ミブロ..部屋に戻ってもいいか..?」
突然の令司の声,その声に一番驚いたのがリアだった.
「うお!? 令司君居たの!? 気が付かなかったよ..」
令司君と目が合う.
私のいなかったところでも泣いていたのか,その目は赤く腫れあがっていた.
そして,その目は捨てられた子犬のように弱々しく,再び,泣き崩れてしまうのを我慢しているかのようだった..
「....」
目を逸らし,ふらふらと部屋に戻っていく令司.
「令司君..」
「今日はそっとしておこう..あれでもマシになった方なんだよ..」
そう言っているリーダーも能力の使い過ぎか,椅子にもたれかかりぐったりしていた.
「リーダー..でもあれは相当やばいですよ..」
私は,初めて令司君と出会ったときを思い出す.
身長が高くて,そこそこイケメン..これが私の第一印象.令司君と深雪ちゃんが二人一緒に歩いているのを見たときは,こんなお似合いで絵になる理想のカップル本当にいるんだと衝撃を受けたのを今でも覚えている.
実際に喋ってみて,私の話を常にだるそうにしながらも,しっかりと内容を聞いてくれて本当は誠実で優しい人なんだとすぐにわかった.
でも,今の令司君はまるで悲しさだけが残ってしまった空っぽの抜け殻のようだった.人というものは,短時間でこんなに変わってしまうと思うと,とても怖い気持ちになる.私も人のことは言えないけど..
だから,私は,令司君が本当に壊れてしまう前に助けたい.深雪ちゃんの友達として深雪ちゃんの彼氏を助けないと..次会うとき,深雪ちゃんが可哀そうだもん.
初めて会ったとき,必ず君の力になる!って一方的だったけど約束したしね!
部屋のドアの前に立つ.
もしかしたら,深雪がもう帰ってきていて,いつものようにおかえりを言ってくれるのではないか..そんな淡い期待を込めながらドアを開ける.
真っ暗な部屋.
もちろん,わかってはいたが,深雪はいない.僅かな希望が絶望に変わった瞬間だった.
俺は,今日図書館で借りてきた料理本をテーブルから取り,ペラペラとページをめくる.
図書館でのうのうと本を読んでいた自分が腹立たしく,料理本を壁へと思いっきり投げつける.
「何が知識の吸収だよ..こんなことしたって意味なかったじゃないか!! はは..でももう図書館に行く必要もなくなったな..時間の無駄遣いとはまさにこのことだ! バカだな~俺.俺にお似合いの末路じゃないか..」
身体的にも精神的にも疲れたのか,何もする気が起こらず,ベッドに仰向けになって転がる.深雪のベッドの方をチラッと見るが,誰もいない.
数時間ほど仰向けになったまま天井をただボーっと眺めていたら,体は正直なのかお腹が鳴る.正直,何も作る気が起こらず,喉にも何も通る気がしなかったが,深雪が作ってくれたケーキが冷蔵庫に入っていたことを思い出す.
俺は鉛のように重くなった体をベッドから起こし,ケーキを冷蔵庫から取り出す.
ケーキはよく見るホール型のショートケーキでイチゴが綺麗に並べられていた.
「ケーキでかすぎんだろ..バカかよあいつ.さすがに全部食べるのは無理だぞ..」
俺は,他に一緒に食べる人がいないにも関わらず,ケーキを8等分にして切る.
「そういや..今日,俺誕生日だっけ?」
誕生日とかいう,特にいつもと変わらない日などどうでもいい..どうでもいいが..
「よりによって今日いなくなるとか..地獄かよ..この世界は」
俺は,深雪が俺の17歳の誕生日のために作ってくれたケーキを自分の乾ききった口に放り込む.
口に放り込むと同時に無意識に抑えつけていた大量の涙がボロボロとテーブルとケーキに落ちていく.
「甘すぎるんだよ..深雪..何もかも甘すぎなんだよ..」
昨日までは当たり前のようにいた深雪.今日の朝,当たり前のようにそこの椅子に座っていた深雪.
「どうして! どうして! どうして俺を一人にしたんだよ深雪!! 俺はお前とただ普通に暮らしたいだけだったのに!」
俺は怒りの矛先をどこに向けて良いのかわからなくなっていた.もちろん深雪に責任はない.
わかっている..わかっているんだ..本当の怒りの矛先は研究都市だということを..でも無理なんだよ..レベルが..敵の格が..違いすぎるんだよ.深雪を..助けられるわけがない..
今の俺には,そんな目の前に広がる研究都市という名の絶対的な壁に立ち向かう勇気さえなかった.
俺は,一人無言でケーキを食べ続けた.すでに体は食べ物を寄せ付けなくなっていたが,それでも無理やり胃の中にケーキを押し込んだ.
深雪がせっかく作ってくれたんだ..食べなきゃ..俺が全部..
言うまでもなく,俺の思考は正常な判断力を失っていた.
台所で胃に無理やり押し込んだケーキをひたすら戻していく.
「結局..吐くのかよ.何がしたかったんだ俺は..」
ふと俺は置いてあった包丁に目が留まる.
俺は包丁を手に持ち,その先端を首元に当てる.
「もう..いいかな? 深雪が仮に生きていたとしても研究都市から助けることなんてほぼ不可能だ..なら一層のこと」
先端を首に当てると,いとも簡単に皮が切れ,血が流れだしだ.
だが..
「邪魔してくんなよ! 深雪! どうしてさっきからお前の笑顔! あの笑顔が..俺の頭の中にあるんだよ..もう..いやだ」
俺は包丁を足元に落とし,腰から崩れ落ちる.
「深雪..」
少年から発せられるその言葉は非常に弱く,細く,今にも消えてしまいそうであった.
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