第11話 D地区(6)

 顔半分に蜘蛛の刺青を入れ,白衣を着た青年の狂った言葉に私とお姉ちゃんはただ震えていた.


「私が....人間..やめたら 妹には..手を出さないんですよね?」


 そのときのお姉ちゃんの姿は一生忘れることはないだろう.


 顔は青ざめ,声は震え,今すぐにでもその場から逃げ出したい そんな気持ちに駆られていたと思う.


 でも,逃げ出したら恐らく自分も妹も殺されてしまう.


 生き延びるためには彼の言葉に従うしかない.


 そんな絶望的状況の中で自分を犠牲にしてでも私を助けようとしてくれるお姉ちゃん.


「もちろん! 妹ちゃんには一切手を出さない. 約束しよう」


 そう言って刺青の青年がポケットから手のひらサイズの銀色に塗られた頑丈そうな箱を取り出す.


「この箱の中にはね..僕の汗と涙の結晶が詰まっているんだ. お姉さん是非受け取ってほしい.. この僕が作り出したシュリムストを!!!!」


 箱の中から出てきたのは中に透明の液体が入った注射器のようなものだった.


 私はこれがお姉ちゃんの体の中に入るんだと瞬時に理解した.


「お姉ちゃん!! 駄目!! 私は大丈夫だから.. もう諦めよ..」


「リア.. 私はお母さんとお父さんを守ることができなかった. ただ見ていることしかできなかった. だからね..せめてあなただけは守らせて 私はあなたの自慢のお姉ちゃんなんだから!」


 言葉とは裏腹にお姉ちゃんは涙を流し,体中が震えていた.


 そんなに怖がっているのにどうして..どうして..


 私なんかを守るためにそこまでするのか理解ができなかった.


「素晴らしい..本当に素晴らしい!! 恐怖に飲まれながらも愛する者を想う気持ちは決して揺るがない! 僕にはそれが理解できない. いくら研究しても人の愛する気持ちというものだけはわからない. 羨ましいよ..」


「お姉さん..そんな素晴らしい心の持ち主を今から僕自ら壊してしまうというのが本当に悲しいよ..」


 これからお姉ちゃんの身に何が起こるのかはわからない.


 ただ,絶対にあの注射器だけは打たせてはいけない.


 壊さなければ..


 今度は私がお姉ちゃんを守るんだ!


 ポケットには家から出る直前に念のため忍ばせておいたカッターが入っている.


 これであいつを殺す..


 殺意.. 大切な人を守るためとはいえ,子供がこんな感情を抱くとは.. 私もこの刺青の青年と大して変わらないのかもしれない.


「さ~てとお姉さん 動かないでね~ 少し痛いかもしれないけど我慢我慢♪」


 このときの私は全神経を奴の手元に集中させ,ただ隙を伺っていた.


 殺すそのときを..


 そして,注射器の針がお姉ちゃんの皮膚に触れそうになった瞬間, ポケットに忍ばせたカッターをギュッと握りしめて奴の心臓部を狙う!


 しかし,刺青の青年の手が突然止まる.


「そうそう言い忘れていたよ. 殺意の隠し方がまるでなってない. 駄々洩れだぞ?」


「え?」


 私は困惑した.


 最初,誰に向かって何を言っているのか理解することができなかった.


「君だよ妹ちゃん. ポケットの中身出してごらん?」


 あぁ....無理だった..


 わかってはいた.

 

 絶対に殺すことのできない相手だと.


 子供でも直感でそのぐらいは会った瞬間に理解できる.


 でもやはり人間というものは希望を抱いてしまう.


 もしかしたら..もしかしたらと..


 ただ今のでわかった.


 100%勝てる相手ではないと.


 あらゆる経験値が私には足りていなかった.


 いや経験値や努力などでこの青年の皮を被った化け物に勝てるようになるとは想像ができない.


 何だろうこの青年から出てくるどす黒いオーラは..


 次元が違う....


「リア..」


 私から戦う意志は消え,ただポケットの中身から隠し持っていたカッターを取り出していた.


 そして,再び恐怖というものが私を覆う.


「ご ごめん..なさい. ごめんなさい. ごめんなさい」


 気づいたときには,私はただひたすらに謝っていた.


 何度も何度も..


「お願いします.. お姉ちゃんを取らないで..お願いします..お願いします」


 そして私はひたすらに懇願していた.


 いや..もう懇願以外に私にできることなどなかった.


 人というのは強者を目の前にすると惨めになってしまう.


 何よりその惨めな姿は,自分では気づくことができない.


 このときほど自分の弱さを呪ったことはない.


「私からもお願いします! 妹を..リアを! 許してあげてください..お願いします..」


 そんな二人の哀れな姿を黙って聞く青年.


「別に僕は怒っちゃいないよ. 妹ちゃんの僕に対する殺意..これは正常なものだ. 大切なお姉さんを目の前で僕が壊そうとしているんだ. 殺意がない方がおかしい」


「それに僕はこうなることをある程度予想はしていた. そのカッターがポケットに入っていたことも最初方わかってたしね.だから妹ちゃんをどうこうしようとは思ってないよ」


「妹ちゃん? 申し訳ないけど君のお姉さんを助けることはできない. なぜだかわかるかい?」


「......」


 私は青年の言葉をただただ聞いているしかなかった.


「難しくはない単純だ. 君が僕を殺せなかったからだ. 君に力があればこんなことにはならなかっただろうにね..可哀そうに..」


 青年の視線が私からお姉ちゃんの方へと移動する.


 そしてお姉ちゃんの耳元で青年がささやく.


「お姉さん想いの優しくて哀れで惨めな妹ちゃんで羨ましいです」 


 ........


 ........


 青年の言葉に少しだけお姉ちゃんの体がビクッと反応する.


「あなたは本当に可哀な方なんですね.. 愛することも愛されることもない. 私も妹もあなたのような人に生まれてこなくて本当に良かった. これほど嬉しいことはありませんよ本当..」


 今まで弱々しかったお姉ちゃんが青年に牙を剥く.


「へぇ~言うね~ ますます気に入っちゃったよ. それでは..僕の芸術品をとくとご覧あれ」

 

 注射器の針が容赦もなくお姉ちゃんの腕に刺さる.


「い 嫌!!!! や やめてええぇぇぇぇ!!!!!!!」


 私の悲痛の叫びは当然の如く届くことはなかった.


 私はただその最悪の光景を泣きじゃくりながら見届けることしかできなかった.


 注射器の中身の液体がゆっくりと体内へと注入されていく.


 苦しそうにしているお姉ちゃんが私の方へ顔を向ける.


 そしてこれがお姉ちゃんから聞ける最期の言葉になる.


「リア....大好き..」


 お姉ちゃんの目から大粒の涙が地面へと落ちる.


 それと同時にお姉ちゃんが倒れ,急にもがき苦しみだす.


「さて..成功か失敗か..」


 青年は興味津々に苦しむ姿を楽しそうに見ている.


「お お姉ちゃん..」


 私も見ていることしかできなかった..


「おお!!」


 青年の嬉しそうな声がすると同時にお姉ちゃんの注射を打たれた腕の辺りから黒い線のようなものが何本も浮き上がってくる.


 まるで血管が黒く染まっていくかのように.

 

 そして時間が進むにつれてその黒い線が全身まで拡がっていく.


 しかし,全身まで達した後は,徐々に薄くなっていた.


 黒い線が全身に拡がってから5分ほど経過しただろうか.


 お姉ちゃんの身体からすでに黒い線は消えており,ただ死んでしまったかのようにそこに倒れてるだけだった.


 .... 


「し 失敗だあぁぁ~ 僕の初めての実験がこんなにも虚しいなんて....実験に失敗はつきもの..次に生かそう!」


 私はただ道に倒れているお姉ちゃんをずっと見ていた.


 すでに涙も枯れていた.


 そんな私を見た青年が何事もなかったかのように話しかけてくる.


「お姉さんは,シュリムスト..その第一被検体になれたんだ. とても光栄なことだと思うよ. しかし,実験は失敗してしまったよ. 原因は彼女の体内でウィルスが死んでしまったため. あ! 安心してお姉さん多分死んではないと思うよ! 良かったね!」


 こいつの声などもう聞きたくもない.


 憎い.


 この世から消えてほしい.


 そんな負の感情ばかりがどこからか溢れ出てくる.


「失敗作に興味はないし.. 早くお姉さんを連れて逃げたほうがいいよ. 他の幹部の連中が来たら,さすがの僕も君のお姉さんとの約束を守れなくなってしまう」


 あぁそうか.. もしこの実験とやらが成功していたらお姉ちゃんとの約束なんて守らなかったのだろう.


 そんなことを考えながら,私は彼の言葉通りふらふらと立ち上がり,人形のように倒れているお姉ちゃんを担ぎその場を離れる.


 そして後ろから声がかかる.


「妹ちゃん! 僕を許せないかい? それで良い. その殺意が君を強くするだろう. 君が僕を殺しに来るのを楽しみにしてるよ! さよなら~」


 青年はぶんぶん手を振りボロボロになった二人を見送る.


「さてと..まだまだ改良の余地はあるな. よし! とりあえず次の被験者探さなくちゃ!」



 ビクともしないお姉ちゃんを担ぎながら行く当てもなく歩く.


 思い出したくもないあいつの声が頭の中で無限に再生される.


 殺したい.


 でも私は弱い.


 抗うだけ無駄だ.


 でも,いつか必ず復讐してやる..


 そんなことを考えながらお姉ちゃんの様子を見る.


 呼吸はしているからあいつの言う通り死んではいないのだろう.


 目立った外傷もない.


 きっとまたお姉ちゃんと楽しく暮らすことができる.

 

 そんな夢物語をこのときの私は抱いていた.


------リア&イア過去 終------

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