第7話
娘の淹れてくれた緑茶はたいそううまかった。治はほっと溜息をつく。その様子を娘が優しい目で見守っていた。
「妻も亡くなりました。妻の荷物を整理してたら、手紙が出てきました。それで、こちらの住所を」
文通は男が妻を誘って始めたものだ。最初の手紙の文面にだけ、男の住所が書かれていた。男が引越しでもしていたら、目の前の男の娘には会えなかったのだ。
「そうでしたか。うちも似たようなものです」
沈黙が二人を包む。
続かん。
治は何か口にしようと思うが、言葉が出てこなかった。男の娘とは普通の関係ではない。傷つけても怒らせてもいけない。そう思うと、何を言ってもまずいような気がして、黙るしかなかった。
「母はこのことを知らないまま、亡くなりました。私が手紙を見つけたとき、母はもうボケてたんです」
「そうですか。お父様はいつ?」
「六年前です。施設にはいって、一年後のことでした。手紙のやりとりを止めて、生きるハリみたいなものが無くなったのかもしれません。奥様は?」
娘は淡々としゃべるので、気持ちが読めない。
「二か月前です」
「それは、大変でしたね。ご愁傷様です」
あっという間に会話が途切れる。どこからか、カラスの鳴く声が聞こえた。
「奥様のこと、怒ってますか? こんな手紙のやりとりをして」
「あ、ああ、えっと、そうですね。驚きました。妻がこんなことをって」
「ですよね。私も、まさか真面目な父がこんなことをしてるなんて」
「知らぬは家族ばかり、ですよね。でも、私は」
治は言葉を区切る。娘がその言葉を待っていた。治は再び口を開いた。
「許せないとは思えませんでした。裏切られたとも思えない。そりゃあ少しは頭にきましたが。妻はいい妻でした。妻に他に好きな人がいたとしても、私に対する愛情もまた嘘ではなかったと思います。妻はよくしてくれた。私が会社でうまく出世できなくて、妻につらくあたった時期も、妻はいつも笑って許してくれた。妻は大らかで優しくて、温かい人でした。妻を恨むなんて、私にはできないんです。笑顔しか、思い出せません」
娘が涙ぐむ。
「ごめんなさい。変ですよね、私が泣くなんて」
娘は目元をぬぐった。
「私も同じなんです。父は優しい、いい父親でしたから。私は遅い子供で、兄と年も離れていて、父に溺愛されて育ったんです。それもあって、父を恨むなんてできない。わりと、すぐに許しちゃいました。父さん、かっこ良かったから仕方ないよねって。身近な女と不倫して家庭がドロドロするより全然良かったとも思いました。今はただ、こんなことがあったんだって、そう思います。過去のことだって。なんか、不思議なんですよね。どこかテレビドラマを見ているような、そんな気分なんです。リアルじゃないっていうか。母はボケてたから傷つくこともなかったし。もし母が傷ついたこところを見たら、父に対する思いも変わったのかもしれません」
今度は治が涙ぐむ番だった。
「いや、すみません。年をとると涙もろくて、いけませんな」
娘が再び涙ぐむ。そして、今にも崩れそうな笑顔を浮かべた。その笑顔がどことなく妻に似ているような気がして、治はハッとする。
そんなはずはないのに。バカだな俺も。なあ、薫。
治は妻に語りかける。
「ねえ、ねえ、今度草津に行かない? 今のうちにいろいろ行っておきましょうよ」
妻が亡くなる一週間前、二人は温泉に行く予定を立てていた。その旅行を実現することはできなかった。
今のうちにいろいろ行っておきましょうよ。
妻の言葉に田舎のイントネーションは残っていなかった。だから、もういい。治の思い出す妻は治だけのものだ。
治は顔を上げ、窓を見た。知らない町の空は、広く青くどこまでも澄んでいる。
妻の恋文 梅春 @yokogaki
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